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【昭和的家族】誕生日のご馳走

私の父母は、元気なうちは私の誕生日を幾つになってもお祝いしてくれた。朧気な記憶であるが、小さい頃の誕生日は、それこそ食卓が食べきれないくらいのご馳走のお皿で一杯となるくらい大げさに祝ってくれた。誕生日のケーキも近所のお店で買える範囲ではあったけれども、今年はどこのだ来年はどこのが良いかとほぼ毎年用意してくれていた。

一度だけ、小学生の時、たまたま私の誕生日の夕食前に大きな雷が来て、皆が食卓に並ぶ直前に停電となり、かなり長い間家中の電気が点かなかった時があった。その日は母が近所のケーキ屋さんでめずらしいからと、いつも買っていたイチゴの丸ケーキではなく、中にドライフルーツが入った細長いパウンドケーキを用意してくれていたのだけれど、蝋燭を灯した暗い食卓の中、切り分けたケーキが母の予測と大きく異なりとってもパサパサで、暗闇の中皆でモソモソと床に細かい破片を落とさないように気を付けてそのケーキを食べるのは大変でもあり、周囲が暗いのもあってか大変物寂しくもあった。母が「ごめんね。来年は違うケーキを買うからね」と何度も謝ってくれていたのを覚えている。但しそんな事は本当に滅多に無かった事で、殆どの場合は結構な歳になっても恥ずかしい程の分かりやすい誕生日のご馳走を目一杯、両親は私達に出してくれていたと思う。

月日が経ち、それでも段々と両親は自宅でご馳走を料理するのが面倒になってきたのか、近場のお店やデパート中のレストランで誕生日のお祝いをしてくれる事が多くなって行った。この時期、確かTVに良く出てきていた中華料理の鉄人のお店が隣町の駅近のビルにお店を出したという噂を聞き、父が私の誕生日が近いからそこで母と3人でお昼を食べないかと誘ってくれた。予約は私が電話でしたと思う。

その時、行きはどういう道中だったかあまり覚えていないけど、多分私は他の用事があって、両親とは実家に近い駅で待ち合わせをしたように思う。3人で一緒に一駅電車に乗って、降りてから一緒に予約していた中華レストランに到着した。少し明確に覚えているのはそこから私達が物凄い速さで食事を完了した事だ。当時、そのレストランはTV番組効果もあって大変混んでいた。だからなのかコースを予約していた私達のテーブルには、席に着くと直ぐにデザート以外、ほぼ同じタイミングで料理が並べられた。私達はお酒もも飲まず、出されたものを速攻で片付け、結果多分30分も掛からない位でほぼ食事を終え、コーヒーと一緒に出されたデザートのマンゴープリンでさえも相当な速度で私達の胃の中に消えた。

食事の後、母が支払いをしてくれてお礼を言った直後、父がトイレに寄りたいと言い出し、私達はそのレストランの出入り口から程近いトイレに男女に分かれて入っていった。母と私はそんなに時間が掛からず出たはずで、トイレの前にいくつかあったイスに腰かけ父の姿が現れるのを待った。しかし、5分待っても10分待っても、20分待っても父は出てこない。

母と私は徐々に心配になってきた。
「お父さん、もしかしてお腹の調子が悪いのかな。めずらしいね」と母、
「そうだね…それにしてもいつもよりだいぶ遅いね」と私、
待ち時間が30分を過ぎる頃、私の心配はより強くなっていき、”もしかしてお父さん倒れていないかな”とさえ思うようになってきた。そこで、トイレに入る男性の数と、出てくる数を観察して、今なら誰も入っていないなというタイミングで、私は恐る恐るかつ速やかに男性用のトイレに入って父を探した。すると個室も含め男性トイレには誰一人いなかった。急いで男性トイレから出て、母に言った。
「誰もいないよ。お父さん、どこに行っちゃったんだろう?」

当時はまだ母も私も携帯電話を持ってなくて、とにかく近くの空いている公衆電話を探して、まさかと思いながら家に電話をしてみたのだと思う。すると、直ぐに父が出た。
「お父さん…なんで家にいるの?トイレの前でお母さんとずっと待っていたんだよ」と私はびっくりした。
その時父がどんな言い訳をしたのか、私は今ではもう全然覚えていないのだけれども、確か母と私はもう家に戻っているのかと思って、そのまま一人で帰って来たというような説明を父から聞いたように思う。
”レストランでの食事の時間より、トイレで待っていた時間の方が倍位長かった”という事だけは強烈に私の記憶に残った。

そんなこんな、両親と外に出掛けるのはだいぶ落ち着かないなと思う出来事が増えてきて、誕生日の我が家のお祝いの食事は、いつの間にかまた自宅で、お寿司等の出前を取るというような無難な形式が主流と代わって行った。






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