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【昭和的家族】『馬鹿たれ!』と『遠いところを良く来てくれたな』

私の父は、良くも悪くも短気で、俗に言うビビりやすいところのある性格だった。そんなだから本来は車の運転は苦手だったらしい。家族のために、度々車を買い替えて、頻繁に乗る時期もあったけれども、一度だけ小学生の子が乗っている自転車をかすめてしまいそうになって、それを機に運転を止め、車を暫く運転していない時期もあったと聞いている。

とは言え、80代になってもまだ自家用車を運転していた。最後に乗っていた車を販売した中古自動車販売業者の方に後々聞いたところ、父が車に乗る目的は3つ、近所の買い物と、母が月1回程通っていたシルバーコーラスの送迎と、そして私が電車を使って実家に戻る時の送迎のためと話していたそうだ。

確かに現役で働いていて仕事が忙しかった頃の父に比べ、後年の父は私の送迎をいつも心良くしてくれていた。私が学生の頃、テストか何かですごく疲れて帰って来て、更に駅の近くに止めていた自転車が盗まれていて、半泣きで「迎えに来て」と電話をした時「健康のため、歩いて帰って来なさい」と冷たい返事をした人と同じ人とは思えないくらいだった。

父が書斎にしていた部屋の机の前には小さな時刻表の紙が貼ってあり、それを見ながらなのか、私が「これから〇〇駅から電車に乗るよ」と電話をすると、「それではこっちの駅に着くのは〇〇時〇〇分だな」といつも速やかに答えていた。

私が地元の駅に着き、2階の改札口から出て実家のある側のロータリーを見下ろすと、いつもだいたい同じ場所に父の車が停まっている。助手席にはまさに助手の役割をしている母、母は普段家ではかけていない私のお古の眼鏡をしている。私が駅からロータリーに向かう階段を下がる途中で、たいてい父母は私の姿に気が付き、毎回熱心に手を振ってくれる。私も手を振り、ゆっくり階段を下りる。私が車の後方席に座った途端、父は出発する。

そこからは、母と会話が出来ても、父とはあまり会話はしないように私はしていた。父は運転するのに一生懸命だったからだ。時折、父が曲がりたいタイミングで、容量良く別の車が先に進んでしまう。そんな時父は「馬鹿たれが!入ってくるんじゃない!」と言葉が荒い。幸いにも実家の近所はそんなに交通量は激しくなく、私から見て危険な状況だった事は一度もなかったけれど、たいてい5分の道のりでこの『馬鹿たれ!』が3、4回は父から発せられた。

そして実家で過ごした後、近々の駅に送ってくれる父の車の中でも、もちろん『馬鹿たれ!』は都度発せられる。更にそれに加え、毎回ある幼馴染の家の前を通るあたりで、父は車に乗るときに良く被っていた野球帽(母と行ったアメリカ旅行の時のお土産)を被った頭を前に向けたまま、
「遠いところを良く来てくれたな。ありがとな」と優しい声で独特のリズムでゆっくりと後方席に座る私に言う。
私は隔週頻度で実家に帰っていて、電車も片道1時間半位の距離なのに、大げさだなと思いつつ、
「いえいえ、今回もご馳走様でした(とか何かもらったもののお礼とか)」と返す。そんなこんなしているうちに直ぐ、駅に着き、来た時と同様に、父はロータリーのほぼ同じ場所に車を停め、父母は車の中から手を振ってくれる。私は駅の改札に続く階段を上り、一番上で振り返りふたりに手を振る。車はまだ同じ場所に停まっていて、父母ともに盛大に手を振ってくれる。という繰り返しを何度しただろう。やがて段々に私は運転する父が心配になり、天気の良い日中に実家に帰る時以外は「運動だから歩いて行く」と車の送迎を断ることもしばしばあった。

その後、父が実家の台所で大きなケガをして、もう今後独りで出歩く事は全く出来ないと分かった頃。親切に駅まで送ってくれた弟夫婦の車が(当然だけど)私が車から降りて直ぐに出発するのを見た時、”あぁもう父の車で送迎してもらうことはないんだ”という寂しさが強く湧いてきて、私は一切立ち止まらず後ろも振り返らずいつもより急いで改札に向かった。




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