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【昭和的家族】母との旅行と父の留守番

40代半頃、私は転職した先にも少し慣れ、数日程度の国内旅行であればそんなに悩まずにできるくらいの精神的・経済的余裕が出来ていた。丁度その時期、趣味でシルバーコーラスに通っていた母は、コーラス仲間の方々から頻繁に国内旅行のお土産をいただくので、自分もどこかに旅行に行ってお土産を渡したいと言い出す事が多かった。私は両親の年から考えると、少し遠くの国内旅行に一緒に行けるのも今位までかもと思い、始めは両親に一緒に旅に出ないかと誘ってみた。すると、父は
「お父さんはいいから、お母さんを連れて行ってくれよ」と言った。

父の言葉を受けて、母と私は気兼ねなく父に留守番をお願いし、この時期何度か国内旅行をした。ある時は母の好きなイタリアオペラ(確か”カバレリア・ルスティカーナ”)の公演が横浜であると聞き、中華街近くのホテルを予約し、公演日に宿泊し翌日中華街でランチをして実家に帰る旅をした。別の時は私が昔ロンドンで観て、音楽好きの母に散々宣伝をしていたミュージカル(”オペラ座の怪人”)の劇団四季版を観に行って、改修前の東京ステーションホテルに宿泊するという短い旅もした、後どこに行っただろう、軽井沢の古い観光ホテルに宿泊してついでに長野の善光寺付近を散歩したり、栗で有名な小布施にも日帰りで行った事もあった。そんな旅の中でも一番日数的に長かったのは、萩・津和野への3泊4日のツアー旅だった。加えてこのツアーは羽田からの出発時間が朝早かったので、母と私は前日に新橋のホテルに宿泊し、そのホテルに宿泊する前に短時間だったけど有楽町や銀座あたりの観光もした。なのでその時私達が父に留守番をお願いしたのはトータルで4泊5日だったと思う。

私は、いくらいつも快く引き受けてくれるとしても、父一人にそんなに長い間の留守番をお願いするのは少し心苦しかった。だからこそ留守の間父が飽きる事が無いよう、何か父がその間に集中できるような作業をお願いするのが良いのかなと、今思うとやや勝手に思い込んで考えを巡らせた。そしてふと、自分の部屋として割り当てられている2階の床の畳がだいぶ傷んでいるる事に目が向いた。その部屋は元々は純和風だったのだけれど、大き目のベッドと勉強机を置いた時に、畳を覆う大きさの絨毯を畳の上に敷いていた。畳はもう古いので、新しくするか処分する方が良いのだろうけれど、そうすると相当大がかりになってしまうと思い、私は躊躇してそれまで手を付けていなかった。

父はその前に実家の1階の物置部屋の畳を処分し、近所で購入した木材を使いフローリングに張り替えていた。私の目から見てその出来は大したものだった。”そうだ、私の部屋もやってもらえるかも”と、私は父に相談した。
「お父さん、お母さんと私の今回の旅行、前より長めで4泊5日家を留守にするんだよ。その間、お父さんに2階の私の部屋の畳をフローリングに替えてもらうのをお願いできる?」
父は、全く乗り気ではなかった。それでも私はフローリング用の木材を購入する費用を添えてなんとかかんとか父にお願いし、いよいよ旅立ちの日を迎えた。

母との旅行は楽しかった。羽田から広島の間は、往復飛行機だったけれど、後はバスツアーで、席に座っていれば色々な場所に連れて行ってくれた。殆ど食事も付いていた。確か萩・津和野の他に、飛騨高山等良く聞く観光地にも寄った記憶がある。山口では金子みすゞ博物館に行き、母も私も他のツアー参加者の方々もその博物館をとても気に入って、やや駄々をこね予定時間を倍位に延長してもらいじっくり見学ができた覚えもある。

一方、父の方は私が頼んだ作業が相当大変だったらしい。その時は暦的には秋の初めだったのだけど、関東は真夏のような暑い日が続いていた。後で聞いたのだけど、私の部屋の古い畳は大きさ的に、家の中の階段を通しては外に持ち出せず、父は全身汗だくになりながら弟の力も借りて畳を2階からまず外のベランダに移し、ベランダからは庭に投げ入れるように動かして何とか外に搬出したらしい。

私は父に毎日電話していたが、作業がそこまで大変とは全く理解せず、
「思ったより大変な作業で時間が掛かりそうだ」と言う父に
「ごめんね。ありがとね。お土産を買っていくね」という程度の軽いお礼を伝えていた記憶がある。

それでも何かを始めると最後まで頑張る父は、母と私が旅行から戻る日には、私の部屋をフローリングにすっかり張り替え、塗ったニスが完璧に乾いた状況で私達を出迎えてくれた。旅行後の数日、長めの旅行をしてきた母と私よりも父はものすごく疲れた様子で、いつも以上に長い間ぐったりと居間のソファで長い昼寝をして身体を休めていた。その様子を見て私はやっと、私が父に頼んだ作業が想像していたよりも極めて大変だったと気が付き、とても恐縮した。


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