重松清の『みぞれ』の感想
もし、人生を「春夏秋冬」に例えたら、今年60歳になった私は今どのあたりの季節にいるのだろう?
二人の娘たちも独立して、子育ては一応卒業できたと思っている。
2年ほど前からは完全に夫と二人暮らしになって、
夫婦水入らずの生活を過ごしている今の私は少なくとも人生の夏を終えたのではないだろうか?
短大を卒業して就職し、結婚、妊娠、出産、子育て・・・という春から夏のような忙しく、けれどもとても充実した時を経て、そろそろ秋を感じ始めている時期なのかもしれない。
重松清の「みぞれ」は13年まえに脳梗塞で倒れて、体が不自由になった70代の父親とその40代の息子の話だ。
70代の父親は今では自分一人では身体も動かせないし、話すこともほとんど無理な状態だ。父は誰かの助けがなくては日常生活を送ることができない。
父を介護する母親も年老いて、そろそろ限界も近いと40代の息子は感じている。
せっかく妹夫婦の家族との同居生活が始まろうとしていたのに
70代の父は妹夫婦と同居し始めて半月もしないうちに田舎の我が家に帰りたいと訴える。
そして、母とともに再びふるさとへ戻ってしまう。
家に戻った父は何故か訪問介護のデイサービスも断ってしまう。
年老いた母の負担を考えると息子は昔からわがままな父親のことを心の中で許せなくて
『心配というより迷惑なんだ』と父親に言ってしまう。
ふるさとの我が家で居間の椅子に座って一日中なんの代わり映えもしない窓の外を眺めることしかできない父の晩年・・・
40代の息子にはそんな生活は想像もできない。
強い人だと思っていた父親が実は強い人ではないと分かり始めたのは
息子が30代を過ぎた頃からだった。
父が毎晩お酒を飲んでいたのも
妻や子供に声を荒げていたのも
会社の上司を罵っていたのも
何度も転職していたのも
父が強かったからではなく、強いふりをしていた弱い人だったからだと
いつしか息子は気付いてしまったのだ。
そんな父は今では強いふりすらも出来なくなった。
田舎に帰るたびに息子が本当に父に訊きたいことはただ一つ
「お父ちゃん、まだ生きていたい?
生きていることは楽しい?
なんの楽しみもなくて1日でも長く生きていたい?」
それは老いて身体が不自由になった親に決して訊けないことだと分かっている残酷な言葉・・・
結局今日も父とは本音で会話ができなかったと思いながら、そろそろ帰ろうとした息子は、母から昔、家族の声を吹き込んだカセットテープを聴かされる。
そのテープには40歳になるかならない頃の父の元気な声が録音されていた。
その録音された若い頃の父の声を聴いた息子は
我が家はいまは「みぞれ」の季節なんだと自分に言い聞かせる。
秋と冬の境目に我が家はいる。
父と母は
もう夏は過ぎて、秋も終わった。
息子は、年老いた父と母は二人で冬ごもりの準備に入っているのだと考える。
窓の外に目をやりながら、そのテープの音声を一緒に聴いていた父の目には
涙が浮かんでいたことを、息子はちゃんと気がついていた。
「みぞれ」を読んで私が感じたことは
老いることは特別なことでもなんでもなくて
息をするように自然なことだということ。
だから漠然と不安がることも、怖がることもしなくていいのだと思う。
老いていくのは避けられない、誰もが通る道
そして人生の中で春や夏だけが最高の季節なのではなく
夏が終わり、物悲しいが心穏やかな秋が訪れて
収穫の秋を感謝する。
そして、やがて迎える静かな冬にも意味があるのだ。
そんな季節の流れに人はただ身を任せるしかないのかもしれない。
私の父は87歳、母は84歳になった。
私は現在の父と母の姿を見ていると、両親はむしろ若い頃よりも必死で生きているような気がする。
元気だとはいえ高齢なので、だんだん身体の動きも緩慢になり、耳も遠くなってきて
毎日を普通に過ごすだけで大変なエネルギーが必要だ。
私は、若かった頃の両親とのギャップに時々、痛々しささえ感じてしまって切なくなる。(娘の私にとっては見たくない姿だ)
けれども、ちゃんと二人の老いた姿も目に焼きつけておこうと覚悟している。
それはいつか私や夫にも訪れる『みぞれ』の季節なのだから・・・
長生きしてくれて両親には感謝している。
父や母の老いた姿から私はたくさんのことを学ばせてもらっているのだから
そして出来るなら少しでも長く両親の『みぞれ』の季節を見守りたい。
覚悟を持って・・・
久しぶりに制限のないゴールデンウィークを今年は両親とゆっくり過ごすことができて感謝しています。
貴重なお時間、最後までお読みくださりありがとうございます。
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