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春の朝と諜報員たちのルーティン

サルトル先生とシモーヌシリーズ
ショートショート
ー春の朝と諜報員たちのルーティンー

はじめに

 シリーズと言ったらなんとなくカタチになるから付けているだけだ。このショートショートはともかく僕、サルトル仮称と妻のシモーヌ仮称のありふれた日常に起きた僅かなズレの一部である。ともかく手短に話すと、この物語はフィクションでありノンフィクションだ。それに愛のある二十代の男女、とくに仲の良い夫婦、において、爽やかこの上なくエログロ下品なものが取り除かれた関係ほどいびつで作り物のような異常さはない。むしろ、それらの取り除かれた状態の関係は、はっきりとは言えないが、まあ、破綻しているようにも見える。少なくとも、僕とシモーヌの関係においては、破綻しておらず、仲良しだ。なのでそれも含めてご了承願いたい。長い前置きはここで切り上げて、僕の身に今朝起こったことを話そうと思う。

ついでに言うと、いつも通りの惚気でもある。

朝のこと

 鶯たちの囀りで目が覚める。真横には少し微笑みながら眠る3か月の我が子その向こうにポカンと口を開けて眠るシモーヌ仮称。

 昨日僕は帰ってきてから風呂に入っていつものように500mlのビールを2缶飲んだ。ふるさと納税の返礼品で届けられた鯛の刺身を食べ、そのあとお客さんから頂いた立山を3杯程飲み、適当にSNSと窓辺の金魚鉢を眺めながらソファでシモーヌといちゃいちゃしていたと思う。僕の好きなラッパーの新曲を延々とリピートさせていたのも覚えている。時刻で言えばそれは夜の9時半を過ぎたころ。とにかく気付くと朝、今だったのだ。

 ソファからどうやってベッドへ行ったのか、思い出そうとしても思い出せない。そこにはとても大事な事柄があったはずなのに思い出せないのだ。なぜ思い出さないといけないのか。とにかく、とても大事な事柄だったのは確かなことで、何にまつわることなのか、まずはそこから思い出す事にした。そうしたことは大抵一見すると何の関係も無いような事と繋がっており、その無関係な事柄が一気に強い結び付きを形取り始めるのだ。そこで僕は娘が深い眠りに落ちていることに確信をもち、シモーヌの方に身体を移した。
「なあ、大変なことがあんねん。ちょっと、シモーヌちゃん起きてや」
 可哀想だがシモーヌを起こすことにした。彼女なら、何か知っているはずだと僕には感覚的にわかるのだ。それは春になれば鶯たちが求愛するために囀り、霞んだ曇り空の僅かな雲の隙間から冬のそれとは明らかに違う匂いと温度を保ちながら太陽が登るのを知らせてくることが必然であるのと同じだ。彼女の裏表のなさと純粋さは、とても透明で彼女の直感と感受性によく反映されている。それらの振れ幅はとてつもなく大きく時としてそれにより周りを巻き込んで内面的に自分自身を傷つけてしまいやすい。しかし、そうした彼女独特の研ぎ澄まされた感性は、今の僕が抱いているような、他人からしてみたらどうでも良い何ら変哲のない日常の僅かな狂いに対して、明確な結び付きとなるキーを探し当ててくれる。そこが僕の心を捉えて離さない彼女の魅力的な個性のひとつなのだ。

朝のルーティン

 時計に目をやると4時半を過ぎている。僕はいつも5時前に起きなければならない。シモーヌを起こしセックスしてからシャワーを浴びる。その間に念入りに歯磨きをする。朝食を済ませてまた歯磨きをしてDIORのDUNEをベタベタにシモーヌにつけられてから6時半過ぎに弁当を持って隣の作業場に止めてあるハイエースに乗り込む。むせ返りそうになりながらステンレス製の魔法瓶に入れてきたコーヒーを一口二口飲んで、その日の段取りを丹念にチェックし、7時前にエンジンをかける。それがいつものモーニングルーティンだ。要するにいつもの朝。至って普通の朝。わざわざモーニングルーティンと言うほどでもないかも知れない。

疑惑

けれども、今朝は違った。

「んー、あと五分だけ寝かせて」
珍しくシモーヌは起きようとしなかった。意図的に起きようとしないのかもしれない。シモーヌは秘密機関諜報員で、僕の昨日の記憶を意図的に葬り去ろうとしている可能性がある。僕は、その可能性を彼女に直接聞くべきか、ほんの一瞬、悩んだ。ともかく、シモーヌを起こさねばならない。そうしなければシモーヌと朝のセックスができない事態に陥るリスクを背負ってしまう。眠ったままやる訳にはいかない。それはいかにも野蛮であり紳士的な行為とは程遠くなってしまうし、以前そうしかけてとんでもない事件となったのだ。その事件については、また別の時に話そうと思う。そしてこうした彼女との関係におけるリスクを回避する為の僕の判断はいつもとても的確で速い。毛布をわざと大袈裟に剥いで彼女を跨いで部屋の窓を開けた。娘が寒がらないよう、娘にはきちんと毛布をかけ直した。振り向くと、シモーヌはまだ眠ったままだ。
「なあ、起きてって」
 起きようとしない。もしかしたらシモーヌは「また僕のせいで」死んでしまったのかもしれない。ふと、そんなありもしない非現実的なことを考えた。むしろ無理矢理起こそうとしている僕の方が彼女から制裁を下され死を決定づけられることの方が現実的とも言える。それでも僕は何としてでも彼女から僕の思いださなければいけない何かを聞き出したかった。
「あんな、昨日、俺、どうやってベッドに入ったか覚えとらんのやけど、自分で入った?」
思い切って、眠る愛しのシモーヌにキスとハグしながら聞いてみた。窓の外はどんよりと曇っている。そのどんよりさは分厚いものではなく、薄いクッキングシートのようなどんより具合だ。
 秘密諜報員のシモーヌはまだ起きない。彼女の太ももにナイフや消音機能付きのコルトが隠されていないか僕は念入りに確認してみた。薄茶色の長く柔らかな髪がシモーヌの愛らしい顔を覆って鼻だけちょこんと出ている。彼女の少し丸く尖り気味の可愛らしいその鼻が僕はとても好きだ。彼女の髪をブラシで梳いてあげてから側にあるバスタオルで顔と体を少し拭いてやり、肩を優しく揺さぶってみた。微動だにしない。時が僕だけ「また」止まっているのかもしれない。あまりにも静寂に包まれた僅かに寒い感覚に耐えがたくなった。シモーヌに抱きついて目を瞑る。彼女の胸を弄ると心臓の鼓動が規則正しく伝わってくる。僕たちは、まだ死んではいないようだ。

 唐突に何もかもが動き出す。
「やばいよ、5時半過ぎてる。またサルトルパパに怒鳴られるよ。あははは。」
シモーヌの屈託のないその明るい笑い声が響き渡ると共に、僕は半年くらい前のある事件が脳裏によぎった。
 前日、友人と夜中まで通話しながら飲み過ぎて、寝坊したのだ。正確に言うなら、ギリセーフだった。それでも親父にトラックの中で一言こう言われた。
「お前、次やったらわかってる?」
 神戸から10年ぶりに戻ってきて親父の工務店で働かせてもらい、この寝坊ギリは2度目だった。1度目は夏に差し掛かった日、シモーヌと大喧嘩し、仲直りして明け方までいちゃついてたときの。大体、職人は朝がべらぼうに早い。8時には現場に着いて段取り確認する。おまけに、親父と現場で二人きり。寝坊ギリギリの僕に対して丸一日不機嫌そうにしており、空気はピリついていた。いつ玄能が飛んできてもおかしくないほどに。寝坊などあってはならないことなのだ。同居のせいでそのピリついた空気は親父が寝るまで続いた。
 だから僕は飛び起きて、それでも15分くらいでシモーヌとやることやってお互いに今日も時を止めることなどなく、生きていることを確かめてから、慌ててシャワーを浴び、同時に歯磨きをしてヒゲを剃刀で念入りに剃り、何食わぬ顔で母家に行き親父の顔をチラ見して、朝食を済ませ、また歯磨きをした。隣で親父も歯磨きをしている。二人とも胸にはそれぞれにお気に入りのタトゥーが入っていていかにも親子といった感じがしてくる。どうやら相手はこちらの寝坊ギリに気付いてはいない。親父にとっては、何らおかしなところが見当たらない至って普通の朝。時刻は7時を回ろうかというところで、娘にぶちゅっとしてからナイキの下ろしたてのスニーカーを履いた。トラックの助手席で踏ん反り返る親父はまだ、気付いていないようだ。どうでもいいことだが親父はナイキではなくジーンズ以外全身アディダス派だ。下着のトランクスすらアディダスだ。ユニクロではなく、アディダスなのだ。実際には本人は余りこだわっておらず、適当にカーチャンに着せられている感満載である。何故かジーンズだけには異様な拘りを持っている。

諜報員たち

 いつもの現場に着く頃、親父が何やら言いたげな顔をして、バックミラー越しに話しかけてきた。それは僕にとって、謎の諜報員が3人いることに確信を持った瞬間だった。
一人目は表の顔は愛らしい妻のシモーヌ。裏の顔は、やり手の23歳で五十代の中年男をハニトラにかけそいつを部下に持つ諜報司令官。
二人目は表向きは、陽気なスペインハーフのラテンオヤジ、仕事に関しては妥協しない頑固一徹の職人、しかし裏ではあっさりシモーヌのハニトラに引っかかるという単細胞ラテン気質が災いした影で操られている部下の男、親父だ。
三人目は、表では変な日本語を話すフィリピンママ、裏では二人の黒幕のボス、カーチャン。
 26年間ただの一度たりとも僕はそのことに気づけなかった。あるいは、心のどこかで気付いていたのに、気付いていない振りをしていたのかもしれない。
 ミラー越しの親父の眼は、昔眼孔鋭く、僕にとってはとてつもなく大きな男に見えた。今その男の眼の周りには日焼けした顔に深く皺が刻まれ優しい眼差しをしている。どことなく申し訳なさそうにしており少し小さな男に見えた。この男の真の姿が見え隠れした時、訳も分からないくらいに僕には凄んで見えたのだろう。
「あれだ、シモーヌちゃんに悪いことしたわ。弁当作業場に置いてきたから、戻って取ってきて」
「は?親父取ってきてや。何で俺が行かなあかんの。戻るのめんどくさい。自分戻ってとって来て」

 もはや、昨日の思い出せない大事なことなどどうでもよかった。時間が迫ってきている。一刻も早く弁当をこの男に取りに戻らせて、あるいは、そのままコンビニ弁当で済ませるかして、今日の段取り通り作業に取り掛かることのほうがよほど現実的なのだ。しかし、若いハニトラを仕掛けてきた上司の女の子を失望させる訳にはいかなかったのであろう。男の目尻は垂れ下がり、優しげに慣れない手つきでスマホを操作し始めていた。諜報部員たちの会議である。こうした報連相、ホウレンソウは迅速に漏れなく行わなければならないのだろう。謎の諜報員らがLINEで何やらやり取りをし、ボスからの指示が出たようだった。春の鶯の囀りがあたり一面に響きわたり、少し湿った風が2人の間を通り抜けていく。薄い霞から時折朝の光が穏やかに差し込むと暖かい。

そして諜報員のひとりである男が不意に口を開く。

「今日はコンビニ笑」

平凡な1日が今日も始まる。

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