ライ麦畑でつかまえて:時代を超えて読み継がれるJ.D.サリンジャーの傑作
ずっと着手したかった記事なもので、10000文字を越える長文の記事となりますが、どうぞ、最後までお付き合いの程よろしくお願い致します。
たくさん素晴らしいシ-ンはあるんですが、特に…私にとっては以下の部分。白血病でなくなった弟アリ-を回想するシ-ンがね。切なくて美しいと思っています。夏の日、白血病で亡くなった10才の弟が、12才のお兄ちゃんを自転車にまたがって遠くから見ている。何て透明な文体で綺麗なんでしょう。言葉が映像となって心のスクリ-ンに映し出される瞬間です。映像化を許可しなかったサリンジャーに感謝をこめて…。
序章
とにかくね、いつも思うんだ。広いライ麦畑で、子どもたちが何かのゲームをして遊んでる姿を。何千もの子どもたちがいて、周りには大人が誰一人いないんだ。大人っていうか、僕以外には誰もね。そして僕は、なんかすごい崖の端に立っているんだよ。僕がしなきゃいけないことは、もし子どもたちが崖から落ちそうになったら、つまり走っていてどこ見てるか気をつけてないときに、どこからともなく飛び出して、彼らを捕まえること。それだけを一日中やるんだ。僕はただライ麦畑のキャッチャーになるわけ。変だってコトは分かってるけど、本当にやりたいことはそれだけなんだ。おかしなコトだってコトは分かっているよ。
J.D.サリンジャーの「ニューヨーカー」に掲載された短編小説、特に「バナナフィッシュにうってつけの日」、「コネチカットのひょこひょこおじさん」(何という邦題でしょう???)、「笑い男」、「エズミに捧ぐ-愛と汚辱のうちに」を読んだ人であれば、彼の最初の長編小説が子供たちで溢れていることに驚かないはずです。『ライ麦畑でつかまえて』の主人公であり語り手であるホールデン・コールフィールドは、16歳の「年齢以上に成熟した少年」で、ニューヨーク生まれです。成人の理解を超えた状況の中、ペンシルベニア州の進学校を離れ、ニューヨーク市で3日間を潜伏します。この少年自体が、私たちが彼や彼の物語について最終的な評価を下すにはあまりにも単純でありながら複雑すぎます。おそらく、ホールデンについて最も安心して言えることは、彼がこの世界に生まれた時から、美しさに強く引かれるだけでなく、ほぼ絶望的なほどにそれに貫かれていたということでしょう。この小説には多くの声があります:子供の声、大人の声、地下の声。しかし、ホールデンの声が最も雄弁です。彼は自らの俗語を超越しつつも、それに驚くほど忠実であり、痛みと喜びが混ざり合った完璧に明瞭な叫びを上げます。しかし、多くの恋人や道化師、高位の詩人たちと同様に、彼は大部分の痛みを自分自身に留めておきます。一方で、喜びは心から惜しみなく周りの人々に与えます。それは、受け取ることができる読者のためにこの物語の中に存在しています。
アメリカ文学史に燦然と輝く名作『ライ麦畑でつかまえて』。思春期特有の繊細な感情と、大人の世界への反発を描いたこの物語は、発表から70年以上が経過した今なお、世界中の読者を魅了し続けています。作者J.D.サリンジャーの鋭い洞察力と独特の文体が、時代を超えて多くの共感を呼んでいるのです。
あらすじ
長いplotも作ったのですが、ネタばれとなりますので、今回は短い文書を採用させて頂きます。
主人公ホールデン・コールフィールドは、全寮制の名門校を退学処分になり、その後の3日間をニューヨークで過ごします。偽善に満ちた大人社会に嫌気が差し、孤独な放浪の旅に出るホールデン。しかし、その心の奥底には、子供たちの無垢な心を守りたいという強い思いがありました。街をさまよう中で、ホールデンは数々の出会いを通じて、少しずつ自身の内面と向き合っていきます。妹のフィービーとの再会を経て、ホールデンは最終的に、世界との和解へと向かっていくのです。
作者J.D.サリンジャーの生涯と作品への影響
作者のJ.D.サリンジャーは、第二次世界大戦に従軍した経験が、『ライ麦畑でつかまえて』の創作に大きな影響を与えたと言われています。戦場で目の当たりにした残酷な現実は、サリンジャーに人間社会の矛盾や欺瞞を鋭く観察する目を与えたのかもしれません。帰国後、1951年に発表されたこの作品は、瞬く間にベストセラーとなり、サリンジャーの名を世に知らしめました。以降、サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンを取り上げた短編を何編か発表しますが、皮肉なことに、作品の持つ強烈なメッセージ性ゆえに、サリンジャー自身が過剰な注目を集めることとなります。極度のプライバシー保護を求めたサリンジャーは、1965年を最後に新作の発表を止め、以降は隠遁生活を送ることになるのです。
『ライ麦畑でつかまえて』が持つ普遍的な魅力
思春期特有の繊細な心理描写と、型破りな文体が『ライ麦畑でつかまえて』の大きな魅力です。主人公ホールデンの眼を通して描かれる大人社会への違和感や疎外感は、今なお多くの読者の共感を呼んでいます。また、「子供たちの無垢な心を守りたい」というホールデンの願いは、常に変化し続ける現代社会を生きる私たちにとっても、普遍的なテーマと言えるでしょう。加えて、ホールデンの抱える孤独や喪失感、自己アイデンティティの模索は、現代人の抱える普遍的な課題でもあります。だからこそ、この作品は半世紀以上にわたって読み継がれてきたのです。それは、単なる思春期の物語を超えて、人間存在の本質を探求する、深淵なる文学作品としての普遍的な価値を持っているからに他なりません。
日本における『ライ麦畑でつかまえて』の受容
日本でも、1960年代以降多くの作家や読者に愛されてきました。この作品に影響を受けた作家は数多く存在します。中でも村上春樹は、自身の手で『ライ麦畑でつかまえて』を翻訳し、日本での本格的な紹介に尽力しました。村上春樹自身、サリンジャーから強い影響を受けたことを公言しており、その文体や世界観には、『ライ麦畑でつかまえて』の影響を色濃く見て取ることができます。以来、思春期の苦悩や孤独を描いた普遍的な物語として、幅広い読者層に支持され続けています。現代日本文学にも、この作品の持つリアリズムと内省的な文体が受け継がれていると言っても過言ではないでしょう。
作品をめぐる論争と現代的意義
その一方で、『ライ麦畑でつかまえて』は物議を醸す作品でもあります。露骨な性描写や、反社会的とも取れる内容が、発禁処分の理由とされてきました。特に1980年代以降、この作品を愛読していた若者による犯罪が相次いだことから、作品の影響力について批判的な議論が巻き起こります。しかし、こうした論争を呼ぶ要素こそが、この作品の本質的な魅力とも言えるのです。既成の価値観に縛られない自由な精神と、社会の矛盾を鋭く突くまなざしは、現代を生きる私たちにとっても示唆に富んでいます。『ライ麦畑でつかまえて』が投げかける問いは、今なお色褪せることなく、現代社会に生きる私たちに、真摯に自己と向き合うことの大切さを訴えかけているのです。
『ライ麦畑でつかまえて』と ジョン・レノンを暗殺したマーク・チャップマン
ジョン・レノンを暗殺したマーク・チャップマンは、自身の計画が精神的信念に基づくものなのか、それとも名声を求める行動なのかという点で混乱し、葛藤していました。彼は裁判前およびその数年後に公に声明を発表し、自身の行動の意味は「ライ麦畑でつかまえて」を世界に広めることにあると確信していると述べました。この確信は、彼がニューヨーク・タイムズ宛てに一通の手紙を送り、一般の人々にこの小説を読むよう呼びかけたことからも明らかです。チャップマンは、この小説を通じて伝えたいと思ったメッセージが、彼の行動を動機付けた核心であると考えていました。しかし、彼の計画とその後の行動は、彼自身の内面での精神的な葛藤と、公衆の前での彼の行動の解釈との間で、一貫性がないように見えることも事実です。これらの声明と行動は、チャップマンが彼自身の精神状態において経験した混乱と、名声を求める願望との間の狭間にあることを示唆しています。彼のこのような複雑な内面世界は、彼が犯した行為の背後にある動機と意図を理解する上で、重要な要素となります。
『ライ麦畑でつかまえて』が映画化されない理由
多くの文学作品が映画化される中で、『ライ麦畑でつかまえて』は、作者サリンジャーの強い意向により、一度も映画化されていません。サリンジャーは生前、自作の映画化を強く拒否し続けました。その理由として、作品の持つ内面的な世界観を映像化することへの懸念や、ホールデンというキャラクターを俳優が演じることへの違和感があったと言われています。また、サリンジャー自身が、過剰な注目を避けるために隠遁生活を選んだように、作品の商業的利用に強い嫌悪感を抱いていたことも知られています。サリンジャーの没後も、遺族はこの意向を尊重し、映画化を認めていません。しかし、だからこそ『ライ麦畑でつかまえて』は、読者一人一人の想像力で完成される作品として、その文学的価値を保ち続けているのかもしれません。内面の機微を描き出す言葉の力を、私たち読者は自身の内に探り当てることができるのです。
ライ麦畑の登場人物たち:心の奥底に潜む真実
J. D. サリンジャーの傑作「ライ麦畑でつかまえて」は、思春期の混乱と疎外感を鮮やかに描いた作品です。物語は、退学処分となった寄宿学校の生徒ホールデン・コールフィールドの視点から語られます。彼はニューヨークの街を彷徨いながら、大人社会の偽善や欺瞞に嫌悪感を抱き、自分なりの世界観を築こうと模索しています。
この物語の深みを知るためには、個性豊かな登場人物たちを理解することが不可欠です。そこでこの章では、ライ麦畑の登場人物たちをご紹介させていただきます。
キャッチャー・イン・ザ・ライ: 登場人物分析
ホールデン・コールフィールド: 物語の主人公であり語り手であるホールデンは、複雑で問題を抱えた10代の少年です。彼は知的で敏感ですが、同時に非常にシニカルで、周りの世界の偽善と醜さを耐え難いと感じています。彼の鋭い機知と皮肉なユーモアは、根深い不安と自己嫌悪を隠しています。物語が進むにつれて、ホールデンは感情的な崩壊の瀬戸際にいることがわかり、理想的な世界観と遭遇する厳しい現実との折り合いをつけるのに苦労しています。
フィービー・コールフィールド: ホールデンの10歳の妹は、彼のシニシズムに直面したときの無邪気さと希望の象徴です。彼女は知的で思いやりがあり、ホールデンを凌駕するほどの成熟さを備えています。フィービーの揺るぎない愛情と理解は、激動の世界でホールデンにとって必要不可欠な拠り所となっています。
アントリーニ先生: ホールデンの元英語教師であり、メンターであるアントリーニ先生は、ホールデンの将来の可能性を示しています。彼は賢明で洞察力に富み、ホールデンの幸福を心から気にかけています。しかし、ホールデンに対する彼の曖昧な性的アプローチによって、彼の潜在的な影響力は損なわれ、読者は彼の真意を疑問視することになります。
ストラドレター: ホールデンのペンシー・プレップのルームメイトであるストラドレターは、ホールデンが軽蔑する表面的さと偽善を体現しています。彼はハンサムで、運動神経が良く、人気者ですが、深みと本質的な中身がありません。ホールデンとストラドレターの交流は、ホールデン自身の不安と自尊心のなさとの闘いを浮き彫りにしています。
スペンサー先生: ホールデンのペンシー・プレップの歴史の先生であるスペンサー先生は、ホールデンが息苦しく無意味だと感じる教育システムを代表しています。ホールデンとつながろうとする彼の真摯な努力にもかかわらず、スペンサー先生の努力はホールデンの無関心とシニシズムに阻まれてしまいます。
カール・ルーシー: ホールデンの以前の学校の学生アドバイザーであったカール・ルーシーは、ホールデンが尊敬と反感の両方を持つ年上の世代を代表しています。彼は世慣れしていて経験豊富ですが、ホールデンは彼を気取っていて自己中心的だと感じています。
アリー・コールフィールド: ホールデンの亡くなった弟は、失われた無邪気さと純粋さの象徴です。アニーの死に対するホールデンの悲しみは、彼のシニシズムと、よりシンプルで本物の世界への憧れを煽っています。
D.B.コールフィールド: ホールデンの兄であるD.B.は、ホールデンが受け入れようと苦悩する大人の世界を代表しています。D.B.の作家としての成功は、ホールデンの芸術と本物らしさに対する理想的な見解と衝突しています。
ジェーン・ギャラガー: ホールデンが理想化する幼なじみのジェーンは、失われた愛とよりシンプルな時代を象徴しています。ホールデンがジェーンを思い出すことは、彼が切望する無邪気さとつながりを思い出させるものです。
サリー・ヘイズ: ホールデンがデートする同級生のサリーは、ホールデンが軽蔑する表面的さと偽善を体現しています。彼女の魅力にもかかわらず、ホールデンは彼女を浅はかでつまらないと感じています。
アックリー: ホールデンのペンシー・プレップの寮の隣人は、思春期のぎこちなさと不安を代表しています。アックリーの絶え間ない存在とイライラさせる習慣は、コミカルな要素を提供すると同時に、ホールデン自身の社会不安も浮き彫りにしています。
モーリス: エドモントホテルのエレベーター係で、ホールデンに売春婦を斡旋するモーリスは、大人の社会のいかがわしい側面を代表しています。
サニー: ホールデンが雇う売春婦であるサニーは、ホールデンが大人の世界で見出す空虚さと幻滅を代表しています。
この包括的な登場人物分析は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の物語を駆り立てる複雑な関係と動機をより深く理解するのに役立ちます。個々の登場人物とその相互作用を調べることで、疎外感、喪失、そして偽善と感じる世界で意味を探すという物語のテーマをより深く理解することができます。
結び
『ライ麦畑でつかまえて』が、これからも色褪せることなく読み継がれていくのは間違いありません。10代の繊細な心情を描き出した普遍的な物語であると同時に、変化し続ける現代社会への鋭い問題提起の書でもあるこの作品。私たち一人一人が、ホールデン・コールフィールドの眼を通して世界を見つめ直してみる。そんな読書体験を通じて、新たな価値観や生き方を発見できるはずです。常に自己を問い直し、社会と真摯に向き合う。『ライ麦畑でつかまえて』が投げかけるそのメッセージは、時代を超えて普遍的な意義を放ち続けています。だからこそ、この作品は、まさに世界文学のクラシックと呼ぶにふさわしい不朽の名作なのです。今この時代を生きる私たちが、改めてこの作品を手に取り、じっくりと読み解いてみる。そこには、新たな気づきと、生きる勇気が待っているはずです。
付録 : ライ麦畑でつかまえて Plot 2
折角作りましたので、下に置いておきますが、本を未読の方はネタバレとなりますので、ご覧にならないで下さい。未読の方は大変幸運だと思っています。これから、すごい感動と出逢えるのですから… 世が世です。図書館に行けば 必ずある1冊でもありますので、ぜひ本でお読みになってください。
物語は語り手であり主人公のホールデン・コールフィールドが西部の街の病院で療養中、去年のクリスマスの出来事を語るという形式で読者に語りかけるように3日間の物語は始まる。
ホールデン・コールフィールドは、ペンシルベニア州の全寮制学校、ペンシー・プレパラトリー・アカデミーで過ごした前年のクリスマス直前の週末(土曜日の午後から月曜日の午後まで)の出来事を回想しています。ホールデンは英語以外の全ての科目で落第したため、ペンシーを退学になりました。ニューヨークでのフェンシングの試合に向かう途中、地下鉄で試合の道具を紛失し、チームを不戦敗に追い込んだ後、歴史の先生であるスペンサー先生に別れを告げます。スペンサー先生はホールデンにアドバイスをしますが、彼の歴史の試験を批判することでホールデンを恥ずかしい思いにさせてしまいます。
その後、ホールデンはルームメイトのストラドレーターのために英語の作文を書くことに同意します。ストラドレーターがデートに出かける際、ホールデンが以前から憧れていたジェーン・ギャラガーとデートすることを知り、動揺します。その夜、ホールデンはケーリー・グラントのコメディ映画を見にマル・ブロッサードと同じ寮の隣人ロバート・アックリーと一緒に行くことにします。アックリーとマルはすでにその映画を見ていたので、食事をし、ピンボールをして、ペンシーに戻ります。数時間後にストラドレーターが戻ってきた時、ホールデンが彼のために書いた、数年前に白血病で亡くなった弟アリーの野球のグローブについての非常に個人的な作文を評価せず、ジェーンと性的関係を持ったかどうかを言おうとしません。激怒したホールデンは彼を殴りますが、ストラドレーターは簡単に勝利します。ホールデンが彼を侮辱し続けると、ストラドレーターは鼻血を流して床に横たわるホールデンを置いて去ってしまいます。ペンシー・プレップの「偽善者」にうんざりしたホールデンは、ニューヨークへ電車で向かうことを決意します。ホールデンは、両親が彼の退学の通知を受け取る水曜日までは家から離れているつもりです。電車の中で、ホールデンはペンシーの裕福な生徒、アーネスト・モローの母親に会い、彼女の息子について良い話をでっち上げます。
タクシーの中で、ホールデンは運転手にセントラルパークの池のアヒルが冬の間に移動するかどうかを尋ねますが、これは彼がよく話題にする話題ですが、運転手はほとんど反応しません。ホールデンはエドモントホテルにチェックインし、ホテルのラウンジで3人の観光客と一晩中踊りますが、やがて彼らに飽きてしまいます。夜のクラブでの期待外れの訪問の後、ホールデンは内面の苦悩に夢中になり、サニーという名の売春婦を部屋に呼ぶことに同意します。しかし、彼女が部屋に入って服を脱ぐと、ホールデンの彼女に対する態度が変わります。童貞のホールデンは、ただ話がしたいだけだと言いますが、それに腹を立てた彼女は去ってしまいます。ホールデンは彼女の時間に対して正当な額を支払ったと主張しますが、彼女はポン引きのモーリスと一緒に戻ってきて、さらにお金を要求します。ホールデンはモーリスを侮辱し、サニーはホールデンの財布からお金を取り、モーリスはホールデンの股間を指で弾き、腹を殴ります。その後、ホールデンはモーリスに撃たれたと想像し、自動拳銃で彼を殺害する様子を思い描きます。
翌朝、ますます落ち込み、人とのつながりを必要としていたホールデンは、なじみのデートの相手であるサリー・ヘイズに電話をします。ホールデンは彼女のことを「偽善者の女王」だと言いますが、その日の午後にビルトモア・シアターで芝居を見に行くことに同意します。ホールデンは、10歳の妹のフィービーのために特別なレコード「Little Shirley Beans」を買います。歌を歌っている少年を見かけ、気分が高揚します。芝居の後、ホールデンとサリーはロックフェラーセンターでアイススケートをしますが、ホールデンは社会に対する怒りを爆発させ、サリーを怖がらせます。彼はサリーにその夜一緒にニューイングランドの荒野に逃げて暮らそうと誘いますが、彼女は断ります。会話は悪化し、二人は怒って別れます。
ホールデンは、ウィッカー・バー(Wicker Barは、ラタン製の家具を使用したバーを意味します。リゾート地やビーチサイドなどでよく見られ、自然で開放的な雰囲気を楽しむことができます。また、インテリアデザインの一つのスタイルとして、都市部のバーやレストランでもWicker Barを取り入れている例があります。) で旧友のカール・ルースと飲むことにします。ホールデンは、ゲイではないかと疑っているカールに、しつこく性生活について質問して彼を困らせます。ルースはホールデンに精神科医に行って自分自身をもっと理解した方がいいと言います。ルースが去った後、ホールデンは酔っ払い、ぎこちなく大人たちとと軽く戯れ、冷たいサリーに電話をします。疲れ切って金もなくなったホールデンは、セントラルパークをふらついてアヒルを調べに行きますが、その途中でうっかりフィービーのレコードを割ってしまいます。ノスタルジックになったホールデンは、フィービーに会うために家に向かいます。両親が出かけている間に彼らのアパートにこっそり忍び込み、フィービーを起こします。ホールデンに会えて嬉しいフィービーですが、すぐに彼が退学になったことを察し、彼の漠然とした態度とすべてに対する明らかな軽蔑を非難します。何かを気にかけているかと聞かれたホールデンは、自分が考えていた無私の空想(ロバート・バーンズの「ライ麦畑を通り抜けて」の聞き間違いに基づいている)を語ります。そこでは、ホールデンは自分自身をライ麦畑を走る子供たちを近くの崖から落ちる前につかまえることを仕事にしていると想像しています。フィービーは、実際の詩では「誰かが誰かに出会うとき、ライ麦畑を通り抜けて」と言っていると指摘します。ホールデンは泣き崩れ、妹は彼を慰めようとします。
両親が帰宅すると、ホールデンはそっと出て行き、以前の尊敬していた英語教師で、現在は結婚しているアントリーニ先生を訪ねます。アントリーニ先生はホールデンが「深刻な状況に陥る」ことを心配し、ホールデンに自分の人生を真剣に考え始めるようにアドバイスし、眠る場所を提供します。目が覚めるとアントリーニ先生が自分の頭をなでているのを見たホールデンは動揺します。それを性的な誘いだと解釈したホールデンは、そこを去り、グランドセントラル駅の待合室で残りの夜を過ごし、さらに絶望に沈み、アントリーニ先生のもとを去ったことを後悔します。午前中のほとんどを5番街をぶらぶらして過ごします。
都会で居場所や仲間を見つける希望を失ったホールデンは、西部に向かい、聾唖(ろう‐あ)のガソリンスタンド店員として丸太小屋に住む隠遁生活を送ることを決意します。昼食時にフィービーに会って自分の計画を説明し、さよならを言おうと決めます。彼女の学校を訪れている間、ホールデンは罵倒語を含む落書きを目にし、子供たちがその言葉の意味を学び、無垢さを失ってしまうことを考えて動揺します。メトロポリタン美術館でフィービーに会うと、彼女はスーツケースを持ってきて、一緒に行きたいと言います。それまでは金曜日にベネディクト・アーノルドの役を演じることを楽しみにしていたのですが… 。ホールデンは彼女を連れて行くことを拒否し、フィービーを動揺させます。彼は学校をさぼらせてセントラルパーク動物園に連れて行くことで彼女を元気づけようとしますが、彼女は怒ったままです。やがて二人は動物園のメリーゴーランドにたどり着き、ホールデンが彼女にチケットを買ってあげると、フィービーはホールデンと仲直りします。ホールデンはフィービーがメリーゴーランドに乗る姿を見て幸せと喜びに満たされます。
ホールデンはその夜に両親に会ったことと「病気になった」ことに触れ、9月に別の学校に通うことを述べます。ホールデンはそれ以上何も話したくありません。なぜなら、それらについて話をすると、昔の学校の仲間たちが恋しくなってしまうからです。
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