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ハードボイルド書店員日記㉜

書店員の仕事は本を「売る」ことに留まらない。「勧める」ことも重要な職務である。推挙した本をお買い上げいただいたときの喜びは何物にも代えがたい。好きな作品であればなおさらだ。だが本のジャンルによっては「勧めたいけど勧められない」「魅力を伝えたいけど内容を話せない」みたいなデリケートな案件も起こり得る。

「これ人に贈ろうと思うんだけど、どっちがいいかしら?」
三十代後半くらいの女性から二冊の単行本を差し出された。ひとつは東野圭吾の最新作、もうひとつは講談社の某文学賞を受賞した新人のデビュー作だ。「やっぱりこっち?」女性が指差したのがどちらかは言うまでもない。「そうですね」で終わらせるのは容易い。混雑していたらそうする。その時のレジはヘミングウェイ「清潔で、とても明るいところ」を読破できる状況だった。

「お相手の方は本をよく読まれますか?」「そうね。昔からミステリィが大好きで」「好きな作家は?」「何て言ったかな。名前が出て来ない。えーと」女性はカウンターの上を爪の伸びた指でコツコツ叩いて目を細める。「何かね、短編集でとんかつの」「もしかして『六枚のとんかつ』ですか」「そう! 書いたの誰?」「蘇部 健一(そぶ けんいち)です」これまでに読んだ中で最も強いインパクトを残したミステリィのひとつだ。

「あとは……あ、あれも褒めてたわ」「あれとは?」「えーとね、私も借りて読んだけどよく意味がわからなくて。確かあた……」「わかりました。それ以上は」「え?」誰がどこで聞いているかわからない。「お客様、私でしたらその方にはこちらをお勧め致します」「あら、どうして?」「そのふたつの作品が世に出るキッカケになった文学賞の受賞作だからです」

「そうだ! さっきの『六枚のとんかつ』って在庫ある?」会計とお渡しが済んだ後、女性がギャグ漫画の登場人物みたいに手を叩いた。「申し訳ございません。あの本は絶版状態でして」「あら残念。最近暇だから読んでみようと思ったのに」「あれはでも女性の方には」「え、何で?」「あ、いえ」どこまで話すべきかのラインが難しい。彼女が小学生なら全力で止めるが。

「面白いんでしょ?」「インパクトは絶大です」「いいわ。図書館で探す。文庫?」「ノベルス版と文庫版がございます。収録作が多少異なりますが、私はノベルス版をお勧め致します」「そっちの方が面白いの?」「ええ、まあ」文庫版には「オナニー連盟」が収録されている、とは言えない。

「あなた、ミステリィ詳しそうね」「それほどでも」「私、クリスティが好きなの」「名作揃いですね」「あれ何だっけ? 犯人がまさかの○○(自主規制)ってやつ」「お客様、あまりここでそういう話題は」「どうして?」プラダのバッグを提げていてベージュのコートはおそらくマックスマーラ。裕福に違いない。だがかなりの天然だ。もしくは「ネタバレ」という概念をまるで理解していない。新潮文庫のカミュ「異邦人」やドストエフスキー「白痴」下巻の裏表紙を書いた人のように。

「クリスティは読む?」「ええ」「お勧めは?」「『そして誰もいなくなった』と『カーテン』でございます」「『カーテン』! あれは私もびっくりしたわ。まさか○○○(自主規制)が」「お客様」

あの方に歌野 晶午「葉桜の季節に君を想うということ」を勧めるのはやめておこう。乾 くるみ「イニシエーション・ラブ」も危険だ。そもそもミステリィの話を振らない方がいい。そんなことを考えていたら女性が大股でレジへ戻ってきた。「ねえ!『老人と海』ってどんな話だっけ?」「年老いた漁師がやっとの思いで釣り上げた巨大カジキをサメに」「ありがと! じゃあね」ギリセーフ。たぶん。



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