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ハードボイルド書店員日記㉙

トルーマン・カポーティ「クリスマスの思い出」の冒頭、主人公の親友ミス・スックは11月末の朝に「フルーツケーキの季節が来たよ」と叫ぶ。毎年心を込めて手作りし、様々な人へ贈るのだ。
我々書店員は3月下旬の朝に「図書カードの季節が来ちゃったよ」とこぼす。何百枚もケースに入れ、包装し、のしを付ける。誰が誰にどんな気持ちで贈るのかを知ることもなく。

「これで全部か?」
何枚かの図書カードを白いカルトンに置いた中年男が、男の子の手を引いた隣の女性に確かめる。女性は長財布の中のカード類をチェックして「もうない」と返す。全て引き落とし、足りない分はパスモで支払われた。

「何でくれるんだろうな。図書カードなんて意味ないし要らないのに」男は不機嫌さを隠そうともせず、商品を受け取らずに立ち去った。代わりに漫画15冊の入った紙袋を受け取った女性が「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げる。「早く読みたい!」とはしゃぐ男の子を「おうち帰ったらね」と優しく諭しながら。

「ぶっちゃけ、気持ちわかります」
隣のレジで文庫担当の女性がつぶやく。「図書カードを子どもに贈るのって大人のエゴじゃないですか? 本を読まない子だっているわけだし」「興味のない子はいるだろうね」「軽い強制ですよ。ゲームをするな、漫画ばかり見るな、本を読めと。少しでも勉強に近いことをさせたいのかな」「でも子どもの大半はさっきみたいに贈られた図書カードで漫画を買う」「そう! そこなんです!」

週末の12時半ごろは僅かばかりの「台風の目」が生じる。あとは押し寄せる人混みの暴風雨に飲み込まれ、ひたすら振り回される。我々は束の間のオアシスを惜しむように会話を続けた。

「だから意味ないんですよ。包装やのしの印刷にかかる手間と出費を考えたら、書店側にも大した旨味はないですし。のしぐらい自分で用意しろって思いません? もしくは有料にするとか」「一理あるね」「そもそも図書カードの目的は『本屋に来てもらう』ことで、販売自体はさほど利益にならないって聞きましたけど」正解だ。書店は販売用の図書カードを仕入れる際、取次を通じて額面の95%で購入する。店で使われたものを換金するときも95%が支払われる。つまり「販売額」が「利用額」より多ければ書店の利益となり、少なければ損失となる。

「結論。図書カードは廃止した方がお互いのため。どうですかこれ」商売としての合理性を追求するなら、確かに彼女の言う通りかもしれない。

「お願いします」小学校高学年ぐらいの眼鏡をかけた男の子が文庫本を2冊、私の前のカウンターに置いた。新潮文庫の夏目漱石「坊っちゃん」と宮沢賢治「銀河鉄道の夜」だ。金額を告げると、男の子は四角い紙のケースから図書カードを取り出した。デザインは「グランド・ジャット島の日曜日の午後」。点描法を得意としたスーラの傑作である。

親御さんらしき女性が現れ、「買えた?」と細い肩を叩いた。男の子は黙って頷く。「ずっと欲しかったんでしょ?」「うん」「おばあちゃんにありがとうって言わないとね」「うん」「じゃあ先に行ってるよ」

帰り際に彼から「芥川龍之介の『蜜柑』ありますか?」と訊かれた。「ございます。『蜜柑』は同じ新潮文庫の『蜘蛛の糸・杜子春』に収録されています」「この残りで買えますか?」「スーラは3000円だからまだ大丈夫です」「スーラ?」「そのカードの絵を描いた人です。当店には彼の画集もございますよ」「ここの本屋さん、楽しいですね。また来ます」「お待ちしております」嬉しそうに早足で母親の後を追った。

「前言撤回します」
隣のレジから感慨深げな声が聞こえる。「あんな子がいるんだ。すごい。世の中捨てたもんじゃないですね。私感動しちゃいました」「『蜘蛛の糸・杜子春』切らさないようにね」「当然です! 図書カード販売もちゃんとやります。いままでもちゃんとやってたけど!」いらっしゃいませ、と元気よく叫ぶ彼女の前にひとりの女性が立つ。「ピーターラビット500円の図書カード100枚。1枚ずつ包装とのしを」表情を盗み見た。何が浮かんでいたかは言わない。


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