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ハードボイルド書店員日記【181】

「『あさいち』売れてますか?」

日曜の午前中。嵐の前の静けさを感じつつカバーを折る。3月下旬から4月上旬は書店が最も混む時期のひとつだ。

カウンター脇のPCで何やらチェックしている児童書担当に問い掛けた。彼女は昼過ぎまでのシフトで働くパートである。

「いや動いてないね。何でだろう? 私の置き方が悪いのかな」
「そんなことはないと思いますけど」
考え込んでいる。

「『あさいち』って福音館が復刊した絵本だよね?」
「そうです」
「NHKが紹介したんだっけ?」
「たしか」
「売り上げが寄付される?」
「帯に『能登半島地震災害義援金として、日本赤十字社に寄付いたします』と」
会話と平和なひとときはそこで終わる。外国人観光客の集団が押し寄せてきた。英検2級の耳では聞き取れぬアクセントで捲し立てながら。

目の回るような、という。仕事中に目が回る経験はしたことがない。あちこちへ忙しなく動き続けるのは日常茶飯事だ。

「東京書籍版の中学2年英語の教科書ガイドはないですか? どこにも見当たらなくて」
「少々お待ち下さいませ」
検索をかけた。在庫3冊。棚へ行き、下のストッカーを確かめる。ない。ふたつ隣に入っていた。他の抜けているものを手早く補充し、くだんの本を手にしてカウンターへ戻る。

「すいません、この雑誌を探してるんですけど」
若い女性に声を掛けられた。ただいま他のお客さまをと言い掛け、スマホの画面を見て切り替える。
「申し訳ございません。ViViのその表紙の号は売り切れてしまいました。お取り寄せもできません」
「わかりました。ありがとうございます」

年配の男性。ふらりと近づいてくる。
「森本卓郎の売れてる本、どこ?」
森永卓郎だろう。知らない書店員が検索したら「その人の本はヒットしません」みたいに返し、厄介な事態を招いたかもしれない。
「『ザイム真理教』でしたらあちらに。『書いてはいけない』は売り切れました。次はいつ入るかわかりません」
隣町の大きな書店なら残っている可能性が高い。もちろん無責任な情報は口にしないが。

「あ、先輩。ちょっといいですか?」
ようやくカウンター内に入った矢先、アルバイトの男性に呼び止められた。
「どうしたの?」
「この本をお探しなんですけど、去年出版社が倒産してるんです。英語でどう言えばいいか」
身なりのいいアジア系の紳士。柔和な笑みを浮かべている。ITベンチャーの創業者と紹介されたら私は信じる。”Last year, this publishing company went bankrupt”と伝えた。オーと軽く仰け反り、サンキューと言い残して去った。

「ありがとうございます」
「お礼はDUO3.0に」
「勉強したんですか?」
「2年前に」

たしか277ページ。こんな例文が載っていた。

”As a result of his ridiculous venture, he is a danger of going bankrupt."
(ばかげた新事業の結果、彼は破産の危機に瀕している)

そうじゃないことを祈った。

お待たせしたお客さんに謝り、教科書ガイドを販売する。いつもはガラガラのセルフレジも珍しく列が途切れない。

「代わります」
「お願いします」
棚へ戻す書籍を手にしてカウンターを離れる。まず絵本を児童書の一角へ差した。「あさいち」がエンド台に積まれている。前よりもいい場所だ。「NHK首都圏ナビで紹介されました」という手書きのPOPも飾られている。

いつの間に。

退勤後に急いで作り、飾って帰ったのだろう。ただでさえ最低賃金。サービス残業を美談にする気は皆無だ。しかしそのことと本の紹介に熱を傾けることを称える心情は私の中で矛盾しない。

2冊しかない。今朝は3冊あった。「あさいち」の23ページが脳裏を過ぎる。

「ああうれた、よかったな、でまいにちがすぎてしもうわ」

そんな毎日が続くことの尊さ。優等生じみた感想を抱けるほど人間ができていない。職場を統べる不条理な諸々に対し、悪口雑言の百も並べたいのが本音だ。でも。

ありがとう。POPを作ってくれて、見てくれて、買ってくれて。

頭を下げた。ベルが鳴る。早歩きでレジへ向かった。

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