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「余」と「俺」と「私」の話

先月、元・新日本プロレスの北村克哉さんが亡くなりました。36歳の若さで。

パソコンの前で少しの間だけ目を閉じ、手を合わせました。

プロレスラーとしてのキャラクターを1分だけ離れ、いつもの「余」ではなく「俺」という一人称で言葉を詰まらせながら語るオーカーン選手。同期レスラーの訃報に心を痛めている様子が伝わってきました。

一人称といえば、私はnoteで「私」を使っています。職場で上司やお客さんと話す際も。もちろん普段は違います。「俺」がスタンダードです。

noteに文章を書く行為を堅苦しく捉えているわけではありません(だったら、もっと誤字脱字や漢字変換に気を配ります)。たしかにプライベートな空間ではない。しかし張り詰めたフォーマルな場でもない。なのに、なぜ「私」なのか? 

よくよく考えたら、おそらくオーカーン選手と同じ理由でした。本名の自分ではなく「ハードボイルド書店員・Y2K☮」に相応しい一人称が「私」だから。つまり、ある種の創り上げた人格を演じているわけです。突き詰めれば己のために。

もうひとつ。プライベートとそれ以外をきっちり分けることはしていませんが、やはり何らかのスイッチが必要だから。「俺」だと、無責任で面倒臭がりで虚無に囚われがちな素の自分に流されそうになるのです。

オーカーン選手は、好き勝手に生きて後ろを振り返らない北村さんを羨ましく感じていたとか。わかる気がします。彼ならいちいちキャラクターがどうこうなんて考えず、その時の気分で豪快に突っ走るはず。私もオーカーン選手と同じくそれができないタイプ。どこかで自信のなさが出てしまう。だから「私」なのです。

北村さん、あなたが新日本プロレスで見せた日本人離れしたパワーファイトを俺は忘れません。同期の岡智之選手とのタッグ「モンスターレイジ」が好きでした。ありがとう。ゆっくり休んでください。

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