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ハードボイルド書店員日記【80】

「あの、すいません」

テナントのポイントアップキャンペーンが終わった平日。開店から12分後に最初のお客さんが現れた。黒い髪を肩の下まで伸ばし、丈の長いベージュのスプリングコートを着ている。早い時間に殺到するこの年代の女性は、概ね某男性アイドル系の雑誌が目当てだ。購入制限に対して「2冊でもダメですか?」「前は買えたのに」と食い下がる人が稀にいる。

他者の趣味嗜好に対してとやかく言う気はない。「探偵物語」の工藤ちゃんが職業蔑視をしないように。尤も、先方が自分自分を剥き出しにすることを恥と感じられる心を持ち合わせていないのなら話は変わってくる。

「探しているものが」来た。内心で身構える。「かしこまりました。タイトルを」「『てぶくろ』という絵本です」途端に印象が180度変わる。我ながらいい加減なものだ。「少々お待ちくださいませ。すぐお持ち致します」検索するまでもない。海外絵本の棚に1冊あるはずだ。「場所を教えてもらえますか?」「ではご案内します」ベルを鳴らし、代わりが入ってからカウンターを出る。

「こちらになります」「ありがとうございます。そうか1冊だけなんだ」「何冊ご入用ですか?」「あ、いえ。やっぱり人気あるのかなって」どう返すべきか迷った。「てぶくろ」はウクライナの民話である。まさに「いま読むべき1冊」だ。しかし担当が入れるのを渋った。「児童書をそういう目的で売り出したくない」「フラットな気持ちで絵と物語を子どもたちに楽しんで欲しい」と。

「お問い合わせはかなりあります」「ですよね」「なので、内容が気になって図書館で借りました。自分が担当ならガンガン紹介するところです」「店員さん絵本読まれるんですね」切れ長の目尻に皺が寄った。「私もです。自分用と友達にあげる用で2冊買おうと思って」ほうと声が出そうになった。「お友達も絵本を?」「『大人こそ読むべきだよ』っていろいろ貸してたら私以上にはまっちゃって」絵本は大人こそ読むべき。私が読書メーターで長年書き続けていることだ。まさかフォロワーではないだろうが。

「じゃあ別のをもう1冊買おうかな」「ありがとうございます」「オススメありますか?」「どういうものを」「何というかこのご時世にマッチした」有名な作品やロングセラーはすでに読んでいるだろう。だが店の性質上、個人経営のセレクトショップみたいなユニークな選書も期待できない。

ひとつ閃いた。事務所へ入り、PCで検索を掛ける。あった。さすがアイツはわかってる。児童書のコーナーへ早歩きで戻り、女性を案内した。

「こちらはいかがでしょう?」シュリンクされた「三つ編み ラリタの旅」を「海外文学」の棚から抜いて渡す。フランスで100万部売れ、32か国で翻訳されたレティシア・コロンバニ「三つ編み」の絵本版だ。小説も横で背表紙を見せている。この併売は正解だ。

「あ、この本」「読まれました?」「いえ。これって戦争ものでしたっけ?」「インドの下級カーストで理不尽な扱いを受ける女性の境遇を描いています」「店員さんはもう?」「読みました。考えさせられ、いや考えようという主体性を刺激されました。小説の方もいずれ」女性が裏表紙を見る。帯に「運命は自分の手で切り開くー意思を貫く勇気を持った女性の物語」とある。小さく頷いたように見えた。

「……たしかにある意味で戦争ですよね。しかもごく日常的な」「ええ」「なかなか報道されない戦いも社会にはありますから」言葉が出なかった。「こちらもいただきます」「ありがとうございます。ではカウンターへ」担当にも後で礼を言おう。

帰り際、思い出したように「実は『三つ編み』の絵本版は読書メーターでフォローしている人が興味深いレビューを書いていて、ずっと気になってたんです」と告げられた。「へえ」「ぜひ見てみてください」「その人のハンドルネームは?」「たしか」視線が少し下がった。ちょうど安全ピンで名札を留めた位置ぐらいまで。

連想させる名前にはしていない。

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