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ハードボイルド書店員日記【64】

明日からテナントのポイントアップキャンペーンが始まる。

おかげでここ数日間は店内が静かだ。レジ後方の収納棚は大小の客注品で溢れている。こういった施策をおこなった場合と見合わせた場合でどれほどの差が生じるのだろう。トータルで均したら、期間中忙しいだけでさしたる効果もない気がする。毎年やっているから、という理由で漫然と続けているのが実態かもしれない。

詮無きことを考えつつ案山子と化す昼下がり。横からひとりの老人がやって来た。「『本能寺の変』について書かれたものを読みたいんだけど」「かしこまりました。時代小説と日本史の棚にご案内致します」「いや、それはもう全部見た。時代文庫も」白髪で小柄、腰も曲がっているが眼鏡の奥の視線は獲物を狙う鷹のように鋭い。「ここに置いてあるもの以外でオススメはないかな? できたらあなたの読んだ本で」ほうっという声をマスクの下で押し殺した。真剣勝負。先ほどまでの眠気が吹き飛んだ。

「こちらなどいかがでしょうか?」レジの端に置かれたノートPCのキーを叩き、講談社文庫の上田秀人「天主信長」のデータを呼び出す。「2冊あるの?」「信長側から描いた<表>と黒田官兵衛側の<裏>がございます」「フィクションでしょ?」「はい。しかし信長が安土城で実際にやろうとしていたことを考えると必ずしも荒唐無稽とは」ふむ、と老人は目を細めて本の紹介文を眺める。「たしかに面白そうだね。でも小説じゃない方がいいかな」「かしこまりました」

「ではこちらはどうでしょう?」KADOKAWAから出ている大村大次郎「お金の流れで見る戦国時代」のデータを見せた。「どういう内容かな?」「元・国税調査官の著者が経済的な観点から見た『戦国時代の真実』です。たとえば」「武田信玄は領土が広い割に貧しく、民の税負担がきつかったとか?」「…まさしく」先に言われてしまった。「他にも信長が延暦寺を焼き討ちした理由とか」「いろいろな点で腐敗していたからじゃないの?」「まさにその詳細が書かれています。当時寺社がおこなっていた高利貸しの実態など」老人は頷き、かすかに首を傾げた。

「…そういう本なら『本能寺の変』の理由について、おそらく領地に纏わる権限を絡めて書いているんじゃないかな? 光秀はこだわりを持って統治していた丹波、近江から国替えを命じられたからね」「なるほど」ネタバレをしたくないので肯定も否定もしなかった。

「ここにはないんだよね?」「申し訳ございません」「いや、さっき似たような文庫本を見掛けたから」「この著者は歴史関連の本を多数出していますので」「出版はいつ?」「5年前に出た単行本で……あ、少々お待ち下さいませ」検索結果を見直す。今年の8月にPHPから文庫が出ていた。ウチにもある。「大変失礼致しました。文庫になっていて当店にも在庫がございます」「だよね。パラパラッと眺めた記憶があるから」「申し訳ございません」「いや、いいよ。あなたと話していたら読みたくなった。持ってきてもらってもいいかな?」「かしこまりました」

「あなた、日本史好きなの?」文庫にカバーを掛ける際に訊かれた。「はい。詳しくはないですが」「いつの時代?」「江戸の寛政期辺りです。蔦屋重三郎とか」「ああ蔦重(つたじゅう)。書店経営のパイオニアだ。面白い人だよね。いい本があったら仕入れておいてよ。お店が落ち着いた頃に買いに来るから」「かしこまりました」「じゃあね」老人は左手を軽く挙げ、悠然と杖を突いて去って行った。

ああいうお客さんもいる。だから選書に手は抜けない。頭の中で注文する本のリストを作成する。プロレス観戦の前夜みたいに胸が躍った。明日から慌しい。でも乗り切ればまたあの人が来る。来てくれる。小説はちょっと、と言われるかもしれない。でも最初にオススメしたいのはやはり車浮代「蔦重の教え」だ。知らないだろう。きっと興味を持ってくれるはず。いまから待ち遠しい。この楽しみをくれたテナントのキャンペーンに感謝しよう。

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