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パニック障害が酷かった時につらかったことと根底にあったもの



ジムに行っても運動で
心拍数が上がると
脳が発作だと勘違いして
不安感が襲ってくるから
帰りたくなって長くいられない。


赤信号と右折レーン、
トンネルやガードが苦手。


ガードやトンネルの中での
赤信号は地獄。


車が前に10台くらいいるだけで
自分の中ではそれが渋滞。


運転中前にトラックがいると
前が見えなくて不安。


不安になるくらいなら
遠回りして目的地に行く方がまし。


運転中、手汗と動悸がすると
ハザードをたいて停まりたくなる。


約束した当日より
それまでの期間が不安。


あれこれ考えて当日まで
ずっとエネルギー消耗して
当日行きたくなくなる。


当日も具合が悪くて
結局ドタキャン。


自分の体調に敏感すぎて
ちょっと吐き気がしたり
お腹が痛いだけで
何か重大な病気なのでは?!
と思い始めどんどん不安になる。


体調やメンタルがすぐれない時は
頭がぼーっとする。
空気がうまく吸えない。
みぞおちあたりに
詰まりを感じる。


一度発作が起きると
ズーンと落ち込む。


あれこれ心配しすぎて
そんな自分に疲れる。


レジに行列ができていると、
並んではみるものの
離脱して買い物を諦める。


お風呂中も
倒れたらどうしようと
気が気ではない。


シートパックを
貼っているときですら、
このパックが貼りついたまま
具合が悪くなったらどうしようと思う。


お腹が痛くてトイレ
に行きたくなる前に
みぞおちあたりが
きゅーっとなって
不安感が襲ってくる。
トイレから出ると治る。


病院などの待合室で
ずっと待っているのが苦手。
あまりに長いと帰ってしまう。
病院だから倒れたとしても
安心なはずなのに。


散歩に行こうと思うのに、
家から離れると不安になるから
家の周りをひたすら歩く。


家以外のトイレで
大をするのが不安。
ここで倒れたらどうしようが始まる。


動けなくなるから点滴が苦手。


歯医者さんも
美容院もマツエクも苦手。



子供の保育園や学校の
行事が苦手で休みがち。
ここで倒れたりしたら
みんなに変に思われないか不安。

電車はトイレのある
号車しか乗れない。
真ん中に座れないから
端っこに座る。


自分の症状を知らない人と
行動するのが嫌。
もし発作が起きたらと
常に不安で気が気でない。


恋愛すると依存しがち。


子供と公園にいるだけで不安。
私が倒れたらこの子は
どうなってしまうのかを
常に考えているので
出来れば行きたくない。



ザッと思い出しただけで
こんなにあった。



頭に不安しかなかったとき、
私がもし死んだら前の旦那に
息子を取られるのではないかという
被害妄想が始まって
寝ても覚めてもそれは続き、
どうしようもなくなって
妹と母に未成年後見人に
なってくれと頼んで
妹と一緒に公証役場に
公正証書まで作りにいった始末だ。

それくらいしないと、
その不安は拭えなかった。


その原因は、
離婚をしたときに一筆、
『もし私が養育できなくなった場合
養育者は前の旦那になる』
というようなことを
義母に書かされたから。

当時の私は自分が死ぬことを
信じて揺るがなかったので、
死んでしまったあとのことばかり
考えていた。

その紙に書いてあることより
効力のあるものがほしくて
調べたらそれが公正証書だと
いうことが分かり作りにいった。


これで私がもし死んでも、
息子は妹か母がみてくれる。

公正証書を手に入れ安心して、
その被害妄想はしなくなった。


頭のおかしい話だと
思ったかもしれないけど本当の話。


こんな風に
常に不安と闘っていた。


私の不安との闘いを終わらせてくれたのは
薬でもなんでもなく私自身だった。


自分が不安なことをひとつひとつ
分析していって
なぜそれが不安なのか
書き出してみた。


そしてそれに対する
対処法や解決法を書いていった。


そうすると、
その不安はそんなに
大したことが
ないということがわかった。


頭の中でずっと同じことを
ぐるぐる考えているだけだと
不安の渦の中にずっといるけど 
それに対しての自分の見解を
求めていくことで
一度その問題から
離れてみることができた。

紙に書き出してみよう。


何が不安で、
どうしたらいいのか。

その根底には何があるのか。


私の不安に思うことに
対して深く掘り下げていくと
その根底にあったのは
こんな自分は恥ずかしいという
羞恥心
だった。

美容院で倒れたら恥ずかしい。

電車で倒れて変に思われたくない。

保育園のママたちに
病気のこと知られたくない。

道路で突然とまって変な人だと
思われたくない。

全部人にどう思われるかを
軸に考えていた。


病気になることは
恥ずかしいことなのか。

自分が他人のことを
無意識にそう思っていたから
そう思うんじゃないだろうか。


大切な人が私のようになった時
恥ずかしい何て思うだろうか?


自分に問いかけ、確かめる。


もうひとつ根底にあったのは、



息子への愛だった


全部、息子のためのものだった。



息子に◯◯してあげたいのに
できない私


これが悪さをしていた。


スーパーでお菓子を買ってあげたり
公園に連れていってあげたり
電車でお出かけしたり
これらは全部
息子にしてあげたいことで
それが出来ないことで
さらに自分を責めて追い詰めていた。


ある日私は息子に伝えた。

3歳頃でちゃんと
伝わっていたのかわからないけど、


『ママは具合が悪い時は
一緒にお出かけできないんだ、
だからそういうときは
おうちであそぶけどごめんね。』

「うん!いいよ!」

と言ってくれた。



果たして、
私がしてあげたいことを
子供は望んでいるのだろうか?


外に連れて行かなければ
子供が可哀想なんて
誰が決めたんだろう。


それが愛情だと、
勝手に決めつけていた。


ディズニーランドや
遊園地に連れて行くことが
愛情と思う人もいるし、
思わない人もいる。

分からないけど、息子にとっては
私とただ過ごす時間が大切かもしれない。

全部自分が勝手に
決めつけたこと
で苦しんでいた。


その時の自分に出来ることで
愛情を注いであげれば良い。


周りと比べる必要なんてなかった。


私は私のやり方で、
息子に愛情を
注いであげればよかったんだ。


愛情が自分を苦しめていたなんて
皮肉だけど同時に
ちゃんと息子のことを愛せていたんだと、
再認識することができて
ホッとした自分もいた。



自分の根底にある想い
気付くことが出来ると、
不安感やネガティブな
感情が出てきた時に

「息子にしてあげたいのに
出来ないことがより罪悪感や
不安感を増やしているんだ。
でもこれは愛情があるから。
悪いことじゃない」



と1度立ち止まって
考えることができる。


不安感がとまらないとき、
そんなことしたって意味が無いと
思ってしまうけれど
騙されたと思って
1度紙やスマホに、

自分は一体何を恐れているのか?

そしてそれは本当なのか?

自分の価値観が
苦しめてはいないだろうか?

その感情の根本にある
もっと深い感情は何があるか?


考えて書いてみてほしい。


もしかしたら何か
ヒントが得られるかもしれない。

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