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想像の源【中延記念湯@旗の台駅】(1/2)

「俳句は5・7・5という制限があるからおもしろい」

 先日、たまたまこんな話を聞いた。もしも文字数の制限をなくして、季語だけを含めた散文を書いたところで、そこに趣を見出すのは難しいそうだ。
 たしかに、もしも文字数の制限がなく自由に表現をすることができるのであれば、ありふれた言葉の羅列になりかねない。ところが、ルールがあることによって表現の難易度が上がるため、経験やセンスがなければそのルールに従った作品を生み出すことはできないし、ルールを逆手に取って新たな価値を生み出すような表現方法は生まれない。
 そもそも、ルールが存在するからこそ、同じルールの中で他者との比較ができるようになるのである。だからこそ、自分にはできないことや思いつかなかった方法を他の人間が実現することに賞賛したり、場合によってはライバル心を燃やしたりするのだろう。

 僕たちが商品や企業のキャッチコピーに興味を抱いてしまうのも、きっと同じロジックなのだろう。キャッチコピーには「最小限の文字数で最大限の情報量を伝える」という暗黙のルールが存在する。伝えたいメッセージをだらだらと長い文章で表現することは誰でもできるのだが、それをいかにコンパクトにまとめることができるのか、そこに技術やセンスの差が生まれるのだ。プロが書いたキャッチコピーというのは、それまで積み上げてきた経験値によって高次元の表現が可能となっているのである。
 このような例を挙げていくとキリがないのだけれど、たとえば手を自由に使っても良いサッカーなんてつまらないし、マラソンは一定距離の先にゴールテープという終わりがあるからこそおもしろいのだと思う。

 そう考えると、自由を求める人はたくさんいるものの、人間は本来はルールや制約に縛られて、その枠組みの中で生きるからこそ喜びや楽しみ、そして幸せを感じることができる生き物なのかもしれない。ルールを破られると興醒めしてしまうのはそのためで、制約がある中で創意工夫をするところにおもしろさがあるのだ。不自由がゆえに生み出されるおもしろさというものは絶対に存在するし、それを楽しむ余裕を持っている人は魅力的だと、僕は思う。

 11月15日(月)の夜に、僕は品川区にある銭湯のサウナ室で、自分の考えと向き合っていた。

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ーー後編に続く

(written by ナオト:@bocci_naoto)

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①僕たちは自費でサウナに伺います ②それでお店の売上が増えます ③noteを通して心を込めてお店を紹介します ④noteを読んだ方がお店に足を運ぶようになります ⑤お店はもっと経済的に潤うようになります ⑥お店のサービスが充実します ⑦お客さんがもっと快適にサウナに通えます