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始まりは、赤。

 「どうしたい…?」彼が、ポツリと言った。
暗闇の空間が色づく。欲望の色は、"赤"だ。

 お互いに友人と訪れていた"wanna dance?"という六本木にあるクラブで、声を掛けて来たのが彼だった。ソムリエというだけで、何故、こんなにも格好良く小慣れているのだろう?大人への憧れが、そのままが実在する人物として、目の前に現れたのだから夢のようだ。夢で終わらせたくない。

 「これから、どうしたい…?」

 彼は、もう一度、今度は至近距離で言った。なぜ、聞くのだろう…まだ単純な未熟さを引きずり、恋愛については、これからという段階の女に選択を委ねるなんて狡い。

 とても狡くて、なんて魅力的な男なんだろう。

 自分が魅力的だと分かっている人種は、当然、自分を分かっている。相手を何気なく誘導して、自分の意に合わせさせるのが上手。簡単に騙されるものかと思っていたって、好きになってしまった時点で、意味がない。

 もう、惹かれている。


 

 横目で彼のシルエットをみていた。どうして、
「東京タワーがみたい」と言ったかは記憶にはない。

 早く2人きりになりたくて、友人達に告げて分かれて、西麻布の交差点から、タクシーに乗り込んだ。
 
 クラブを出て夜の通りを歩きながら、ずっと手を繋いでいた。大切なものを扱うように、優しく包まれた手の温もりと、夜の終わらない賑わいと、不純な畝りを感じさせる煌めく空気。翌日は寝不足のまま出勤をする。でも不思議に辛くもないし、仕事の効率が上がるくらいで、若さのエネルギーとやり切れなさと退屈な日々を、払拭するには息抜きが必要だった。どんな時でも、本当の自分に戻れる場所、それがクラブだっただけだ。考えなくてもいいことは、考えたくない。物事なんて掴んだ瞬間から鮮度が落ち、やがてドライフラワーのようにカラカラに朽ち果てる。時間の流れに対抗する唯一の行為は、今を楽しむしかない。

 都会の深夜帯に眠らないでいると、言葉にならない活力のようなものが、湧き上がり…自分の体、内側から放たれたような、歪な塊が宙に舞い上がる。白昼の明るい世界にいると所存ない感情も、薄暗いベールに囲まれて街が影を落とし始めると、まるで、目的地に飛び立つ野鳥のような自由さに溢れ出す。

 わたしは、自由でいたかったんだ。

 芝公園駅から降りて歩く。タワーの赤い光が、闇の中にボウっと浮いてるように見えて、何度も地上に立っていることを確認してしまう。

 浮き立っているのは、自分。

『寒い…』気持ちは火照っていたけど、まだ5月の夜風は冷たい。大通りの自販機で、缶コーヒーを買ってもらう。


 

 ベンチに並んで座り、お互いに質問して、答えるという密な時間の中、彼が、時々、わたしの唇に視線を向けているのに気付いていた。

 ずっと繋いでいた手ごと、グイっと引き寄せられて、抱き締められた。勢いで頬と頬がぴったりとつく。波打つす血管が巡る動きと、体温をダイレクトに感じた。

 心地よい、嫌じゃない…

 このまま…たぶん…と思ったのも束の間、
彼のスプリングコートの右ポケットに、硬い金属製の物が入っていることに、更に気付いてしまった。それは形状から想定がついたし、99%間違いない。


 

 その瞬間、記憶は中学一年のあの日に遡る。

 父の休日に一緒に喫茶店に行くのが日常だった頃。駅前にある喫茶店は、メニューも豊富で美味しく評判だった。そこの経営者の女性は、花柄のエプロンが似合う、穏やかで綺麗な人だった。いつも、父は黙って新聞を読みながら、ブレンドを飲んでいた。ある日、何時ものように食事を済ませ、トイレに立った私が、席に戻ろうとした時…ある出来事を偶然見てしまった。

 勘違いなんかじゃない…

 次の瞬間、爪先から込み上げて来た、気持ち悪さに我慢出来ずに個室へ戻り、思いきり吐いてしまった。その日に食べたのが、ナポリタンで、便器内は、血と錯覚するくらい"赤"に染まっているように見えて、さらに吐いてしまう。ふたりに対する嫌悪感から、自分だけが呑気に何も知らずに、その女性が作ったものを『美味しい』と無邪気に食べていた。そして父が疾しい感情を隠す為に、娘を利用していたんだという事実にも気づいてしまった。汗と口の中の不快な残り香も、鏡に映り込む自分の顔も、飛び散る水滴も、そのままで勢いよく店を飛び出して、その日を境に、父とは一切、家を出るまで、この事を話すことは無かった。

 

 目が醒めてしまった。この人は、既婚者だ。



 急速に温度が下り、無表情になる。年上の異性が好きなのは、別に"ファザコン"だからじゃない。

 ナポリタンを思い出して、いてもたっても居られなくなり、手を放して『もう帰る』とだけ伝えて、彼に背を向けた。流石、大人。こんな時でも、スマートで怯まない。この手を掴んで、必死になって求めてくれるなら、どうにかなるかもしれないのに…この人は、父親じゃない。父親じゃないからこそ、私に縋って欲しかった。縋って欲しい…?ワタシは縋って欲しかったのか?…妙に混乱して、脚を踏み外して落ちるような、抑えきれぬ感情を抱えたまま、東京タワーの赤い光が消える様を思った。

 【24時ちょうどに灯りが消える瞬間】をみれば、両想いになれるというジンクスが、頭に浮かんで、すぐに消えた。

 「人生に彩りを」高校時代に、そう言ってたシスターの言葉が聞こえる。

 
 今のわたしは"赤"だ。

 
 それが、情熱なのか怒りなのかは、正直分からない。


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