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連作短編「おとなりさん」#3

第三夜「お母さん」

 魔のイヤイヤ期という記事を見つけては片っ端から同意して、ため息をつく。そこには傾向から対策が一から十まで載っているのに(一から十まで深く同意もする)、なかなか頑固なうちの息子は私の提示する何もかもに不満があるらしく、ついには雨上がりの公園の水たまりにダイブするまでに至り、レインコートや雨靴は内側からずぶ濡れになってしまった。いま、息子は泣き疲れて寝息をたてている。寝顔のお隣さんは可愛い。白くて柔らかくて、思わず頬をつねりたくなる。でも、そんなことをすると暴君は目覚めて再び活性化するので、とりあえずバスのなかでは起こさないように気づかう。
 また雨が降り始めたらしく、バスの窓に小さな滴がくっついて、そして後方へ垂れてゆく。通り過ぎる商店街。カフェ、かき氷専門店、アイスクリーム、それから和菓子屋のお饅頭。美味しそうなのぼりや看板が視界に入って、すぐに消えた。かすかに空腹を覚える。
 たまには甘いものを食べに行きたいな。行けばいいって笑われる。そんなのわかってる。でも、息子はお皿を投げてしまうかもしれないし、きっと派手にテーブルを汚してしまう。お水がなみなみ注がれたコップをひっくり返したことだってある。テーブルに届けられたばかりのオムライスを丸ごとソファに転覆させたことだってある。そんなあれこれの記憶の集積は、私を飲食店から遠ざけた。
 雨に濡れたおでん屋ののぼりが重々しく垂れ下がっているのがちらりと見えた。おでんか。いつの間にかそんな季節。いいな、おでんとビール。ソーセージとたまご。大根と牛すじ。からしたっぷり。お腹が鳴ってしまった。握ったままになっていたスマートフォンが震えた。慌てて確認する。お隣さんは目覚めない。
「週末にそちらに行く用事があるんだけど、良かったら、ごはん食べない? ごちそうする」
 お母さんからのメッセージだった。SOSが届いていたのか、まるでそれは救援信号のように思えた。お母さんって、叫びたくなった。
「行く行く。行きたい。たくさん話したい」
 慌てることなんてないのに、私は全速力で入力して、すぐに返信した。程なく既読がつく。きっと待っててくれたんだろう。ついこの間、育児に迷って、疲れて、弱音をこぼしたばかりだった。
「なにを食べたいか、考えておいてね。母さんも楽しみにしてる」
 雨に濡れて重そうなのぼりを思い出す。おでん。おでんとビール。それがいい。母さんとおでんを食べて、ビールを飲もう。
 体を傾けて眠り続けるお隣さんは目覚めなかった。早く大きくなった欲しいのか、このまま可愛いままでいて欲しいのか。私はいつもその答えに迷う。母さんはどう思っていたのだろう。私もきっと、若かったころの母さんを困らせたのだろう。そう言えば、私も母さんも、29歳で出産した。大先輩に教えを請いたい。そこまで考えて、今度はため息ではなくひと息をついた。

 モンゴルの人はおでんの匂いを嫌うのだと何かで読んだことを思い出して、なぜだろう、こんなに幸福な匂いなのにな、そんなことを考えながら、大先輩に続いてカウンターの隅に陣取った。
「おでんでいいの?」
 母が笑う。遠慮ばかりしてるんじゃないの。久しぶりの母は背中がおばあちゃんに見えた。いまや孫がいるわけだし、実際におばあちゃんになったわけだけど。
「おでんがいいの」
 ほら、冬になると、うちは家族でおでんを囲んだでしょう。寒い外から帰って、室内に入ったときのあたたかいおでんの匂い。少しくらいの嫌なことなら、それだけで忘れられた。
「ビールと。たまご、大根」
「私もビール。たまご二つ。大根も二つ。こんにゃくとソーセージも二つずつ」
 とりあえず、それで。息子はじいじとパパに任せてきた。たまになら大丈夫。息子だって、ちゃんと人を選んで駄々をこねるんだから。今夜の私のお隣さんは、かつて、きっと、私の駄々にため息の日々を過ごしたであろう、大先輩。付き合ってよ、大先輩。訊かせてよ、お隣さん。
「じゃあ、乾杯ね」
 背後の引き戸が開く。すっかりの暗がりから冷たい風が背中に届く。赤いちょうちん。ビールねー、の威勢の良い注文。目の前にはおでんから湯気が上る。なにもかも食べられるとさえ思ってしまう。
「かんぱーい」
 美味しい。美味しい。疲れた心と体に、ビールはなんて美味しいんだろう。喉に水脈ができて、そこに優しい毒が流れ込んでいるみたいだ。
「元気にしてるの。なんとか、元気そうね」
 すっかりしわが増えた。会うたびにそう思う。
「まあ。まあまあね。でも、ほんとは疲れてる」
 さっそくの弱音。酔う前からため息。すぐに愚痴も吐き出すだろう。お隣さんは静かに笑っていた。きっと、こんなふうに私は見つめられてきたのだろうと思う。それからは育児のストレスが速射砲にように放たれる。まあまあ、あらあら、なんて、なだめる声が懐かしかった。ビールと同じくらい、胸にしみた。
「あのね。あなたにもそんな時期があった。だから、それはずっと続かないの。すぐに終わる」
 それはわかっているつもりだったけれど、いま現在、その過程なの。いまだ終わりが見えないから、ため息しか出てこないんだ。
「あなたの子供は、私たちにそっくりなのよ」
「うん。まあ。だよね」
「駄々を始めたら、なにかお菓子でも食べさせれば落ち着くわよ。食べることに集中するから、他のことは忘れちゃう」
 そのとき、風が吹いた。その風は遥か遠い過去の景色を私に連れてゆく。そうだった。いまのお隣さんである母は、立ち止まって泣き喚く私にチョコレートやキャンディを手渡した。いやしい私はそれを食べるのに夢中で、自分の駄々のことを忘れたのだ。
「帰り道に、なにか甘い、美味しいものを買って帰りましょう」
 お隣さんはそう言ってビールを空けた。大先輩は偉大だ。私はあの暴君の寝顔を思い出す。チョコレート、アイスクリーム、クッキー。ビスケット。たくさん買って帰ろう。
 そう考えて、せっかくだし、と母と笑って、二杯目のビールをお願いした。


#ほろ酔い文学 #眠れない夜に

photograph and words by billy.

 というわけで。今回の「おとなりさん」はお母さんのお話をお届けしました。

 僕自身は当然ながら妊娠、出産の経験はなく、育児の経験も予定もありません(笑)。でも、お母さんと呼ばれる人々の大変さについてはときおり考えます。スーパーなどで小さなお子さんを連れたお母さんには「がんばれ」と思いますし、可能な範囲ならお手伝いだってさせていただきます。

 お母さんに限らず女性というのは、当然のこととして男より優位性が高く、大切にされるべきなのです。男なんて、重いものを持ち上げられるくらいじゃないか。そういうわけで、世のお父さんもがんばってくださいませ。

#創作大賞2023


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