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「夜叉神峠の亡霊」〜遭遇〜7

私たちは夜叉神峠小屋を目指し重たい腰を上げた。立札に左と書かれている道を、書かれた通りに歩き出した。
懐中電灯に備え付いているラジオをつける。
周波数を合わせるとプロ野球の実況アナウンスが流れていた。野球は好きだが、当時はセリーグが主流でパリーグはあまり詳しくはなかった。西武と近鉄の試合は、まるで他団体の見知らぬ試合のように聞こえたが、それでも気はまぎれた。
もう、獣や虫の音に飽き飽きしていたからだ。今回も私が先頭を歩いた。
村田は静かに呼吸を整え、体力の回復に努めていた。時折、懐中電灯の光の中に、手のひらサイズのカラフルな蛾のような飛行生物が飛びこんてくるが、一体それが何なのかわからなかった。その度に私が声を荒げて驚くものだから、村田は辟易とした口振りで「いちいちうるさいなぁ」とこぼした。
珍しい、村田が私に苛立つのは初めてだ。
それほど、今の現状があり得ない未体験ゾーンに突入していると解る。
とは言え、致し方がない。
通常の生物とは規格が違いすぎた。
普段、私がみてきた虫や昆虫のサイズが、3倍、いや、4倍ほど大きいのだから。
そうなると、これまでとはまったくベツモノの生物だと認識が変わる。

山道を歩いていると、不意に岩石のような黒い塊が無数に転がっているとおもいきや、同時に突然動き出すと、こちらに向かって這いずり出した。よく見るとタランチュラサイズの巨大蜘蛛だ。頭に白銀色と鮮明な真紅のラインが施されていて、明らかに毒性の凶々しさがそのボディから伺えた。
さすがの村田も、蜘蛛だけは女の子のような声を出して泣きそうに叫んだ。
私は恐怖と可笑しさで顔が引き攣った。
真夏の南アルプスは恐ろしい。
生物たちが急ピッチで命を量産している。
力強く美しい。
そう思うと、もう何が起きてもある程度は驚かなくなった。
そうして1キロほど歩いていくと、右前方に小屋らしき建物が現れてきた。
私たちは、ついに夜叉神峠小屋に到着したと安堵した。猪鍋は時間も遅いからさすがに無理な注文だが、おにぎりと味噌汁くらいにはありつけるだろうと期待を膨らませると自然に脚も軽やかになった気がした。
だが、どこかおかしい。
その小屋は二階建ての小屋なのだが、一階の電気はもう消えており、二階には所々にオレンジ色の電灯が灯っているだけだ。
人の話し声や、気配のようなものが感じられない。振り返り村田を見る。
村田はいくらか緊張した表情で、私に鋭い視線を返してきた。警戒せよ、というのか?
私たちは、右側の建物には近寄らず、一旦左側にあった寂れたベンチに腰掛けると、木製のテーブルもう一度ガイドブックを開いた。
なにかおかしい。
このベンチやテーブルにしても、使われなくなってから随分と歳月が経っているようにみえる。足場にしても、砂利が多くて歩きづらい。
これでは登山家たちが脚を取られて捻挫でもしかねない。まったく不親切な対応だ。
小屋はお世辞にも山小屋のアットホームさはなく、むしろ廃屋と言ってもいい佇まいだ。
だが、電灯は間違いなく灯っていたのだから、中には人がいるはずなのだ。
時計をみると既に22時を回っていた。
なぜか村田は、あたりを汲まなく探っている。ラジオから流れる実況を聴くと、試合は延長戦に絡れ混んでいるようだった。
私は、ガイドブックを開き、詳細に書かれた夜叉神峠小屋の補足欄を読み上げていくと、途中で言葉を失った。

「夜叉神峠小屋は登山家の間でも評判の猪鍋が楽しめる。ここでひとつ注意してほしい。
鳳凰三山に向かう途中に小屋があるが、これは旧夜叉神峠小屋で現在は営業はされていない。
*中略*
昭和51年、登山家の8名が遭難した事件は登山家たちの記憶の中でまだ鮮明に焼きついている……」

旧夜叉神峠小屋??ここがそうなのか?
いや、違う。確かに電灯が灯っていた。
人がいる証拠だ。営業はしている筈だ。
村田も無言になった。
だが、小屋をマジマジと睨みつけている。
村田が言った。
「ん?何人が遭難したって?」
「8人、ここにはそう書いてある……」

私は懐中電灯を照らして何度も復唱した。
ちょうどラジオでは、西部の選手が逆転のホームランを放ったとアナウンサーが雄叫びをあげている。
「おかしいな?」
小屋を睨みながら村田が言った。
「一階はあんなに灯りがついとる。二階はブルーライトが何ヵ所かに」
私の見たものとは違うことを言い出した。
ラジオはフルボリュームで野球実況があたり一面に轟いた。ブルーライト?何のことだ。
その時だ。
小屋の出入り口付近から白い靄が蠢いた。
ゆらゆらと蜃気楼のように漂う"それ"は、音もなくこちらに近づいて来ている。
明らかに目視のできうる限り、人ではない何かだと直感した。
私は激しく息を呑んだ。
村田は、持っている木刀に念を込め、下段に構えて"それ"に備えた。
私は持っていた懐中電灯を、思い切って揺れる物体に向けてみた。
その距離はおよそ3メートルか?
白い靄の色は濃くなってくるが、まだ正体がわからない。
すると、白いモヤモヤから突然、懐中電灯の眩しい灯りが私たちを照らした。
私と村田は一瞬、視力を遮られた。
数秒、目の回復に時間を奪われる。
薄目を開き何とか戦闘態勢に入ろうと立ち上がろうとした。早く白い靄の正体を見極めねば。
だが、そこに立っていたのは、紛れもなく50代前後くらいの細身で薄毛の男だった。
村田の木刀を持つ反対の手には石を握っていた。私は懐中電灯を照らして白い靄の男に当てた。男は、白のタンクトップに白いモモヒキをつけ、安物のゴム製品の茶色のサンダルを履いていた。
間違いない、人間だ。足がある。
私はいくらか警戒を解いた。
久しぶりに人に会ったからかもしれない。
すると男が一言漏らした。

「みんな起きるからラジオを消しなさい……」

私は咄嗟に「すみません!」と言って、慌ててフルボリュームで流していたラジオのスイッチをオフにした。
辺りが一瞬にして静寂の森と化した。
不思議なことに、あんなに耳に触った獣や虫の音も一切聞こえない。
それから男の声を聞いて、違和感と恐怖を覚えた。
その声は呪いをかける時に発するような、腹の底から絞り出すような低い声だった。
いや、その声自体が呪いのように鼓膜を刺激した。怪談話を仲間にする時、悪戯に演出するような悪意に満ちた話し方が、まさにこの男にしっくりと嵌まった。

どうやら村田は一歩も動かず、男のようすを伺っているようだった。
男は低く絞り出すような声で続けた。

「君たち、ここでナニをしてるんだい?」

私はあまりの恐ろしさに言葉を失った。
すると村田が冷静に切り返した。
「あの、鳳凰三山に向かって登山を始めたんですが、途中で道に迷ってしまい、ずっと歩き回っていたら、さっきここに辿り着いたって感じです」

男は思案しているのか、沈黙している。
おかしい。私は頭の中で急いでこの事態を整理していた。まず彼から見て、私たちは明らかに子供に見えているはずだ。なのに、心配もしなければ叱りもしないなんて不自然だ。
こんな時間に、こんな山の中で、君たちは何をしてたんだ!山を舐めるな!さっさと中に入って風呂でも入って寝なさい!大人なら、大体はこういったことを口にするものだ。
だが、男は沈黙を頑なに守っている。
それ自体が不自然だと村田は気づいているのか?
すると村田が驚くような意外な言葉を発した。
「あの、もし良かったら、今日はこちらに泊めていただけませんか?」
私の身体が硬直した。
こんなところに泊まる?
嘘だろ。
それを聞いた男はしばらくの間、沈黙を保っていたが、やがて口を開いた。

「それはできない、静かに今すぐ山を下りなさい」

私の緊張は最高潮に達し、次いで安堵の呼吸を鼻腔から静かに抜いた。
こんなところに泊まったら、なにが起こるかわからない。だが、これですべての確証を得た。
明らかに遭難した子供が、真夜中に小屋にやって来た。保護をしない大人があろう筈もない。そんなことはあり得ないのだ。

男は「静かに行くんだ」と言った刹那、懐中電灯の光が消えた。すると、私の懐中電灯の光だけが辺りを照らすことになった。
白い靄が音もなく建物の中に吸い込まれていくのを、私たちはただ目で追うことしか出来なかった。
砂利道をザクザクと歩く音さえしなかったのは、もはや彼がこの世の者ではないことを、分かり易く教えてくれているのだとさえ思った。
村田と目を合わせる。
私も彼も、このあり得ない状況に冷静さを保つことで精一杯だった。
ここでは何を語ろうとも無意味だと感じた。
私はガイドブックをリュックにしまった。

私たちは、あの青白い男に山を下りろと言われた。
どうする?
言うことを聞くか、無視をして先を目指すか。
だが少なくとも、この場だけは一秒でも早く退散したほうが良さそうだ。
私たちは、先程いた水場まで戻ることにした。

小屋を左手に見ながら、少しだけ建物を見やると、二階の灯りはすべて消えていた。
だが、一階には、先程みた時よりも遥かに多くなったオレンジ色の光の灯火が、鮮明に密集しているのが分かった。

これは良くない、私はそう直感した。





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