見出し画像

「夜叉神峠の亡霊」〜入山〜5

家出をしてから3日目の朝になった。
村田と2人でホテルをチェックアウトしたのが早朝6時。店はまだどこも開いていない。
つまり、完璧な準備もままならないまま南アルプス行きのバスに乗り込むことになった。
バスに揺られること2時間、我々の夢の入り口、南アルプスの夜叉神峠登山口に降車した。

真夏だというのになんて涼しいんだろう、バスから降りて私が最初に感じたのは、濃密な空気の透明度と街に溢れた常識の無意味さだった。
ロッジはすでに開いていた。お茶や食料が売っていたから顔を極力出さないよう帽子を目深に被って速やかに調達した。村田は、なにやらショッピングを楽しんでいたようだが、あいつの考えていることはよくわからないので放っておいた、所持金が減っている。
9万もあった所持金が、交通費と宿泊代と食費で既に5万になっていた。ホテル代は私が都合したから村田はまだ私よりは残っているだろうか。
ビジネスホテルの2泊目が余計だった。
あの失費は意味がない。
だが、生まれて初めての猛烈な二日酔いに、なす術などあろうはずもなかった。

私は今一度リュックの中身を確認した。
寒さを凌ぐために、自宅から持参したスキー用のワンピースがバッグの中で幅を利かせていた。当時は真空袋などという便利なものはないから、相当かさばった。
持ち運ぶには大袈裟かと思いもしたが、冬を凌ぐ装備も準備しなければならなかった。
南アルプスの地図や、登山用の指南書、ガイドブック、方位磁石、ラジオ、懐中電灯。他にも薬や山の対策グッズはそれなりの用意があった。食料は2日分。重量を考えて軽いパンにした。飲み物はペットボトルを2本までにして、別に軽量の水筒を持参した。
2人は目を合わせると互いに頷いた。
いざ、入山である。

まず、私たちが目指すのは、鳳凰三山という連山だ。だが、まずはこの夜叉神峠の山頂まで行かなければ、鳳凰三山に向かう連絡道はない。
つまり、いまから夜叉神峠の山頂を目指すのだが、登山客に顔を見られないように向かわなければならなかった。
鬱蒼と生い茂った青々とした樹々に囲まれ、うねった登山道を歩くこと3キロあたり。
下山してくる登山客とすれ違う頻度が増えてきた。この客達は、夜叉神峠の山頂にある宿泊施設の客だろう。すれ違いさまに軽く会釈をされる。登山客は、みな清々しい表情で笑いかけてくる。私たちも怪しまれないように、純粋なる登山客を演じる。みな、熟練された登山者の格好に見える。両の手は極力空けて、何かあった時に瞬時に対応できるようにしている。
彼らは我々をどう見ているのだろう。村田は、ロッジの売店で売っていた夜叉神峠と刻印された木刀を握っていたから、怪しまれないだろうか?村田は、格闘マニアだから、武器というものにめっぽう目がない。売店だろうがどこだろうが、お構いなしに握りを確かめてから本息の素振りを数回始める。これが目立つし恥ずかしい。
行方不明が発覚し、捜索願いが出された時、すれ違った彼らは我々を覚えているだろうか?
そんなことを喋りながら、私たちは体力を温存しながら省エネ歩行で上を目指した。
省エネ歩行とは、腹式呼吸の応用で、鼻腔で大量の空気を取り入れて、口から空気を小気味良く短く薄く吐く。吐いている時、リズム良く歩くとなぜか疲れが溜まらない。少林寺拳法の運歩法と気功の呼吸法を合体させた応用技だ。
10キロ地点で、ようやく脚を止めた。
山の神なる小さなお地蔵さまが、山道にポツリと祀られていたからだ。村田は、その地蔵からただならぬ霊力を感じたようで、「この地蔵、マジで護ってる、この峠」そう言った。
私たちは、霊的な者への冒涜は絶対にしない。村田はもちろんのこと、私だって村田に出会ってからのさまざまな体験のおかげで、眼に写らない霊に確固たる存在肯定があった。

お地蔵さまに賽銭を払って入山の許可を乞うた。いくらか騒がしくなるかもしれませんが、どうかお許しください。
そして、私たちが目指す桃源郷に辿り着けますよう、どうかお導きください。
私たちは脱帽し、身体につけているあらゆる貴金属を一度外してから手を合わせた。
村田曰く、神々や霊と向き合う時に、身に付けていていいのは石だけらしい。
時計やネックレス、ブレスレット、眼鏡や帽子などは必ず外さなければ、いくら祈願しても意味がないそうだ。
そして、手を合わせるということは、霊に対して敵意が無いことを伝える為だ。
我々人間は、掌からさまざまなエネルギーが無意識に放出されているらしく、これが霊にはあまり良い印象を与えないことが少なくないようだ。

座るには丁度いい石に腰を下ろすと、村田が言った。
「登山客に顔を見られるのはあまり良くない。これからは、登山道ではなく獣道を行こう」
兼ねてよりの予定だった。
私は頷くと、徐にリュックからガムテープと水に浸した煙草袋を取り出した。
ガムテープは足首にぐるぐる巻きにして、ズボンの隙間を塞ぐ。これは獣道を歩く上で、毒虫や毒草の侵入を阻止するためだ。
そこに、煙草の水煮を手に取って、靴とズボンの足首からふくらはぎにかけて、入念に塗り込んだ。
これも毒虫や毒蛇対策で、煙草の葉からでる独特な匂いは虫除けに良いらしい。
薄手の軍手も忘れない。
首には長めのタオルを二重に巻き、虫よけ対策は万全だ。
山の神の祠を後にして少し登山道を登った辺りで、頃の良い獣道を見つけた。
私たちは登山道を歩く人の気配を探った。
上からも下からも、誰かが歩いてくる様子はなかった。村田と私は頷くと、深々と茂った樹々の中を躊躇うことなく入って行った。



この記事が参加している募集

#読書感想文

191,797件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?