見出し画像

夜叉神峠の亡霊〜夜明け〜10(了)

ポケットを弄りありったけの金を握り出して祠に置いた。
そして、おでこに合掌を合わせ、擦りつけながら祈り倒した。
「どうか、この峠から我々をお救い下さい!お助けくださいませ」

村田も足元にあった木茶碗に、ジャラジャラと小銭を投げた。心が落ち着いていくのがわかった。
すると、この山を登り始めた昨朝の記憶が蘇ってくる。
登山道を歩いて3キロ地点ほどでこの祠に着いたはずだ。そこから暫くして獣道に入った。
つまり、後少しだけ降りると、夜叉神峠のロッジのはずだ。時計はもう4時になろうとしていた。私たちは、急いでリュックを担ぐと、競うようにラストスパートをかけた。

足場が少しずつ固くなっていく。
沢山の登山者に踏み固められた証拠だ。
出口が近い。
もう懐中電灯に頼らずとも、肉眼で目視できるまでに明るくなっていた。
朝霧が薄く辺りに漂う中、前方にコンクリートの道路をみた。
夜叉神峠登山口のバス停もあった。
ようやく私たちは、この亡霊と獣の峠を無傷で下り切ることができたのだ。

下りてすぐに、目に飛び込んだのは、眩しい電飾の自動販売機だった。
灯りが文明の証とばかりに心が癒された。
もう人類は決して暗闇には戻れないのだと悟った。喉が渇いていたが、あいにく小銭は使い果たしていたので、不貞腐れながら身体をベンチに任せた。
身体中から堰き止めていた疲労が湧水のように溢れ出した。
急に足首と肩に激痛が走った。緊張が解けていく証拠だ。
すると横で、シュワッという炭酸音がしたかと思うと、村田がおもむろに1リットルのファンタオレンジに喉を鳴らしていた。
一口くれ!という間も無く、ファンタオレンジは村田の体内に吸い込まれていった。
なんてやつだ。
この4日間で、このことが1番猛烈に腹が立った。だが、すぐに村田は小銭を私に渡してくれた。私は狭量な自分を恥じた。
「ありがとう、一瞬マジでムカついたわ」
村田は私をバカにするように、長いゲップを数回して微笑んだ。
私たちは、朝1番のバスを待つことにした。
ベンチで項垂れること10分、私は無言でこの峠について考えていた。
村田も口を閉ざしていたから、恐らくは同じことを考えていたにちがいない。
すると、車のライトが山の上方の道路から降りてきた。それは空車のタクシーだった。
村田が不意に手を上げた。
タクシーは、ゆっくりと私たちの前に停車して、ドアが開いた。
村田は、山で遭難したこと、現金が少ないことを告げた。
運転手は、甲府駅までの10,000円ほどの運賃を5,000円で乗せてくれると言ってくれた。
怪しすぎる。こんな時間に山の上方から空車のタクシーが走っているなんて考えられない。
しかも格安運賃などあり得ない。
どうなっている。まだ、続いているのか?
だが、疑い出したらキリがない。
何より私たちには、それらに抵抗する気力などはもう残されてはいなかった。
もはやどうにでもなればいい。
思考回路のスイッチが停止する音が聞こえた。
あの山のすべての出来事は、私たちを殺そうと思えばいつだってできたのだから。
私たちは、運転手の謎の好意に甘えると、脚を引きずりながら後部座席に倒れ込んだ。

村田が饒舌に運転手と話している。
彼は私ほどダメージは少ないようだ。
さすがとしか言いようがない。
私は、体力の回復を願いながら口を閉ざしていた。いや、もう話す気力もないくらいに疲れ果てていたという方が正しかった。
それから、昨日からの出来事について整理し始めた。山の恐ろしさ。
いや、あの峠の恐ろしさか。
あの白い靄の男は一体何者だったのか。
あの霊が、もし悪霊だったとしたら、私たちは小屋に引き摺り連れ込まれていたのではないか?ならば、静かに山を下りなさいと言った、あの白いおじさんはやはり山の神で、私たちの命を按じてくれたのではないか。
今、こんなタイミングでタクシーに乗っているのも、もしかすると。
そんなことを考えていると、瞼の重みすら支えることが出来なくなっていった。

母は険しい表情で制服姿の警官を怒鳴り散らしていた。なにをそんなに怒っているのか私には分からなかった。母の横には村田のお母さんもいた。彼女は澄ました表情で椅子に座っていた。母は泣きだすと、力なくフロアの床に崩れ落ちていった。誰か母を支えてあげて欲しいと思った。その肩にそっと手を置いたのは、村田だった。村田も涙を流しながら母を慰めるように屈み込み抱きしめていた。
私を救えなかった村田は、何度も母に謝っていた。私は死んだのだ。だが、私は取り乱すこともなくそれを受け入れている。そう思っているようだ。
きっと、私は私の死を知っているようだった。
だから、みんなそんなに悲しまなくてもいいと思った。死は思っているほど苦しいものではないことを、私たちは眠りという小さな死の予行演習をして知っているのだから。そんなに悲しまないで……。
タクシーは、甲府駅に到着したようだ。
私はいつからか眠りに落ちていた。
目から止めどなく涙が溢れていた。
みると村田が料金を支払っていた。
私は嘘のあくびを何度か繰り返して、溢れる涙を誤魔化した。家に帰りたい、母に会いたい。

私たちは、金沢に帰ることに決めた。
金沢行きの朝一番の電車に乗った。
所持金はいつのまにか底をついていた。
私は山神の祠でありったけの金を置いてきた。
村田が幾らかの金を残していたことが、結果的に功を奏したが、あの状況で金を出さなかった彼の精神は計り知れないものがあった。

気がつくと私たちは金沢駅に着いていた。
乗車してすぐに眠りに落ちたから、甲府から金沢まで3秒で着いたのかと思った。
村田の後ろを歩いていた。
彼は右足を負傷していたようだ。
私といえば、かなりの満身創痍で身体中が悲鳴を上げていた。
家出をして4日目の朝をまさか金沢駅で迎えるとは思わなかった。

私たちは、それぞれのバスで帰ることした。
去り際に村田が言った。
「むっち、今回は大敗やったな、じゃまた」
彼はそういうと爽やかにバスに乗りこんだ。
私は少し可笑しくなって笑った。
彼の言った「今回は」を意味するものはなんだろうか、と思ったからだ。まさか次回があるとでも言うのか。
もう、ごめんだ、こんな命懸けの無謀な体験は。命知らずの無謀な登山家たちは、幼い頃からこんなことをしていつからか癖になっていくのだろうが、私にその素養はないと断言できた。
私はバスの背に手を振ると、また知らないうちに涙が溢れてきた。
感情は穏やかだった。
流れる涙に意味などはないだろう。
もしあるのだとすれば、生きていることに、この身体が歓喜しているのだと思った。
精神と肉体は別という稀有な感覚だった。

自宅のチャイムを鳴らす。
母が眠そうに鍵を開けてくれた。
私は、「ただいま」というと、母は面倒そうに言った。
「おかえり、意外に早かったのね」
私は苦笑すると、そのまま部屋のベッドに沈み込むと、頬に馴染んだ枕を濡らした。


この記事が参加している募集

#読書感想文

191,797件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?