石火光中・蝸牛角上
『石火光中に、長を争い短を競う。幾何の光陰ぞ。蝸牛角上に雌を較べ雄を論ず。許大の世界ぞ。』(洪自誠「菜根譚」)
「…はぁ~」
「なんや、また溜息か。どないしてん」
「かくかくしかじか」
「なんや、そんな目先のつまらんことにとらわれてんのか。息が詰まってるぞ、息が詰まると人生も行き詰るぞ」
「・・・」
「ええか、わしらの一生は、石火の火花みたいなもんや。信長はんも『人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢幻のごとくなり』ゆーとったやろ。それから、『蝸牛角上、何事をか争う』って白楽天のおっさんもゆーとったように、わしらが生きてる世界なんて下天のうちにくらぶればやな、カタツムリの角の上のような狭い世界やで。せやのに、その上で人間は勝った負けたと騒いどるわけや。小さい、小さい。せやから、そんな目先のことにとらわれんと大きな気持ちでドシッと構えて歩んで行かんかい!」
「そやっ、石火光中・蝸牛角上や! なんぼのもんじゃい! ほな、ワシ行くわ! ありがとさん」
明末の陰士、還初道人と号した洪自誠の著「菜根譚」では、自らを儒学の立場におきながらも、その内容は禅や老荘の流れそのものである。浅学ですが、禅や老荘の教えの底辺を為すものは「とらわれない・あるがまま」にあると考えています。
「とらわれない・あるがまま」の自分がそこにいるとき、穏やかで安らかなる、「大いなる哉、心や」(栄西)である。ものごとの根本を見つめ、大いなる心で人生を達観できれば、目先の枝葉末節に心を奪われること無く、つまりストレスの無い、「心、平らか」な状態ですね。
私たちは、特に社会人ともなれば様々なストレスシャワーを浴びることとなる。その結果、目先の枝葉末節にとらわれ、なかには肩で息する浅い呼吸、息詰まり状態になる人もいる(僕もあるある:汗)。息詰まり状態は、人生を行き詰らせる端緒でもある。
一方で、「とらわれない・あるがまま」の生き方が出来れば、常に深い呼吸で悠々と構えて人生を楽しむことが出来る。つまり「坦らかにして蕩々たり」(論語)である。いわゆる春風駘蕩としている。
同じく、「菜根譚」より。
『風、疎竹に来たるも、風過ぎて竹に声を留めず。雁、寒潭を渡るも、雁去りて潭に影を留めず。故に君子は、事来たりて心始めて現われ、事去りて心随いて空し。』
「ええか、坊主。あれ見てみぃ。」
「何? おっちゃん」
「竹やぶに風が吹いとるやろ。竹の葉が風に吹かれて音を出しとるやろ。」
「うん」
「しばらく見ててみ…。ほれ、風がやんだ…。竹やぶ、静かになったやろ。」
「…そやなぁ」
「おいっ、あっち見てみぃ。」
「えっ」
「雁が飛んできたで。」
「ホンマや」
「ほれ、あの雁、冷たく澄んだ淵の上を飛んどるで…。雁の姿が水面に映っとるで…。」
「うん」
「しばらく見ててみ…。ほれ、雁が遠くへ飛んで行きよった。淵にはもう雁の姿、映ってないやろ。」
「…そやなぁ。でも、おっちゃん、それがどないしたん?」
「ええか、坊主。立派な人間になりたいか?」
「うんっ!」
「よっしゃ。よう聞けや。立派な人間とはな、あの竹や淵のようになることや。」
「…」
「立派な人間とはな、やらねばならん事があれば、それをきっちりやる。あの竹が、風が吹いてきたら揺れて音を出すように…。あの淵が、雁が飛んできたらその姿を映してあげるように…。ほんでな、やるべき事をきっちりやった後はな、その事にいつまでもとらわれることなく元の静かな姿に戻るんや。昔な、孔子さんという偉い人がおったんや。その人はな、『敏なれば則ち功あり(敏則有効)』と言って『敏』であることが大切やと言ってはった。つまりな、やらねばならん事があったら機敏に行動することが大切やというこっちゃ。それからな、『坦らかにして蕩々たり(坦蕩蕩)』と言って普段は平らかな心でのびのびしているのが立派な人物やと言ってはったんやで。坊主もそんな人になれるように頑張りや。」
「おっちゃん、何者や…。」
(おっちゃんは、何も言わず去っていった。その影を留めず…。)
☆☆☆☆☆😊
■拙著「ストレスの9割はコントロールできる」(明日香出版社2020.9発売)この本が必要な方に出会い、その方の心が軽くなるお手伝いが出来れば著者冥利に尽きます。
■withコロナにおけるオンライン講演・研修動画(主にオンデマンド配信)の一部も投稿したyoutube「こころ元気研究所チャンネル」もございます!
※ヘッダーのデジタル画は(第1回目の緊急事態宣言下で登園出来なかったため)幼稚園年長さんだった娘が僕の古いPCで遊んでいて描いたもの。ちびっ子画伯と呼んでいまして、このnoteのいろんなところに載せています。ちびっ子画伯展もよければどうぞ(^_-)-☆
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