文献を比較する

(記)2019年7月13日
今回、ニュートンの絶対時間とアインシュタインの相対性理論を比較していてウィトゲンシュタインの哲学とプラグマティズムの名称に触れる機会を得た。どんな切っ掛けも知性に繋がるなら意味はあるし、それで文献を漁(あさ)る人は大勢いらっしゃるだろうけど‥じっさい文献に労力をいっぱい掛けても損はないのは分るのですけど、どうせならより価値的な時間の過ごしかたをしたいと‥そういう考えは私だけのモノではないと思うのです。なによりも、ざっと検索しただけの情報量は余りにも微々たるもの。そうであれば、どこまで受け入れてよいか‥疑わしい限りの心許なさ。

ともあれ、プラグマティズムのほうは「経験不可能な事柄の真理を考えることはできない」という思想の流れにあるみたい。このフレーズは日本語なれば、この日本語訳が元来の意味を体現していると確信を以って私は言えませんし、それでこの言葉を哲学の入り口として、このフレーズの意味を考えたい。(念のために申せば)あなたにはあなたなりの哲学の進め方があって当然ですし、ですからこれは私のやり方であると申し上げておきます。そもそも「真理」は過たずに考え得ると断言できるものだろうか?真理は想像の産物として脳から産みだされるものでないのかな‥!? 私はそう思う。

それで私はプラグマティズムに眉唾(まゆつば)なものを感じたのです。論理は積上げですから、どこかに誤りがあればそれで全体が崩れる。ゆえに小さなミスも見過ごされてはならないとなる‥私。間違いを間違いと論理的に打ち破ってこそ軌道は修正されうる。軌道修正されない思想のデタラメ振りを哲学は見逃さない‥もちろん、私の哲学に関しては‥です。言葉の素晴らしさは意思の疎通にある‥と私は捉えている。その点で科学は難しい。得意な人は得意だが、苦手な人には限りなく苦手な科学でしょう?科学が言葉を無視するところで何が起きたか?思い出しただけでも恐ろしい。

言葉を無視した科学が一人歩きした所で余りにも悲惨なデキゴトが人類史に刻まれてきたことを私は忘れたくない。原爆といい、人体実験といい、サリン事件といい、戦争といい、ホロコーストといい、対話無視の独裁体質が引き起こしてきたのでなかったか?菜っ葉服のオバちゃんだから‥馬鹿にしていいのではないと思う。モットモラシイ‥だから政治家も詐欺師も牧師も先輩も糞みそに信じたくなるのは分る。そうした権威主義が言葉(対話)を蔑ろにさせてきたのだし、現に独裁は危険を世間に生み増やしているのでないかな?すなわち、人類を不幸へ落す対話否定の思想に害悪が群がる。

群がった害悪なら‥見破らなければ駄目だ。「害悪だ害悪だ」とヒステリックに叫んでツイート拡散するだけなら、それも害悪の一味にちがいない。その声に乗っかって自分までヒステリックに叫んでいたりするのは‥愚かすぎる。愚かと思えばこそ私はこうしてプラグマティズムの間違いも正しているのです。どう正すか?科学一辺倒では危険だから対話を取り戻そうと訴えている。科学を誹謗するだけなら愚かだ。対策を考えなければ。それが大人責任と言うものです。イヤじゃイヤじゃで済ます幼児の心からは、やっぱり私たちは卒業しなきゃ駄目だろうね。あなたもそう思うよね?

過ちに気づいて軌道修正することで私たちは哲学(の心)を得られる。哲学は言葉遊びと違います。言葉遊びしている人はいらっしゃるが、その人の心は哲学と似ても似つかないと断定する。「その場さえ面白ければいい」とする幼児は哲学できないでしょう?それと同じです。その場さえ面白ければ何をやったって構うものかというのは社会に害悪を与えるだけの困り者。害悪でなく利益を社会にもたらしたいという心がなきゃ哲学にならない。もっと分りやすく言えば‥公共心を育もうと願う心が哲学の魂です。だから知的好奇心のレベルでは駄目。知りたい心なら野次馬でも持っている。

プラグマティズムの僅かの知識からでも哲学によって私程度の価値は生みだせる。そこで今度はウィトゲンシュタインの哲学を検証したい。(彼の言葉に寄れば)「言語で説明できること&言語で説明できないことがあって説明可能なことだけを言語にしなさい」的なことを説いているらしい。これは御都合主義の言葉だとあなたは思えるだろうか?この言葉に独裁者や独裁集団は狂喜しそうです。対話拒否の思想をウィトゲンシュタインが力づけている事実が見える。「国民は黙れ」という教えにもなっている。これは酷い。哲学なんかじゃない。人間蔑視の思想を生んでおきながら‥哲学はないだろ?

麻薬の恐ろしさを知り、誤まった思想の恐ろしさを知り、人々を幸福へ導きたいと願う心があれば、哲学になるのです。そういったことを哲学は私に教えてくれる。私に哲学がなければどうなるか?そうであれば誤まった文献を読んだ私は感情に押し流されヒステリックに叫び、社会に害悪を為すポピュリズムへ劣化するしかない。独裁思想は民衆の尊厳を引出そうとせず、民衆の口を封じて不幸へ向かわせるという結果を生んだけれど、私にとってウィトゲンシュタインは役にたった。毒は薬として使えるが、哲学が無いところでは折角の薬も猛毒として私たちの心身を蝕(むしば)むことになる。

対話が成り立つ場であればこそ、無用の存在は無いとなる。多様性社会は独裁によって地獄化し、哲学によって素晴らしい千年の都にもなると言えるのでなかろうか。悪書をどれもこれも読みとおす意味はないこと明らかでしょう?それどころか害悪に侵されない思想がなければ私たち民衆は独裁思想に誑かされてドコまでも堕ちていく。恐ろしいことですね。(*´з`)

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