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敗北しか感じない《140字の日記+ 36》

オウム事件の死刑囚が一気に13人殺されて、なにかすっきりしたとか、区切りがついたとか、そんな気分はまったくなくて、ただ、むなしさと敗北感だけを感じている。あれから20年以上も経っているのに、彼らを真人間に戻してやることができずに、結局、死なせてしまったこの社会は、一体、何なんだ?

 

《140字の日記》のマガジンもあります。
https://note.mu/beabamboo/m/m855ee9417844

自己紹介的なマガジン、《五百蔵のトリセツ》
https://note.mu/beabamboo/m/m585d8928b5cc

 

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 みなさんはどうでしたか?
 彼ら13人が一気にこの世からいなくなって、どう感じましたか?

 なんだかんだ言っても、20年間、彼らと一緒に生きてきました。
 なぜなら、彼らの裁判は折につけニュースで流れ、完全に無視することも無関心であることも出来ませんでした。

 そして心のどこかで常に、彼らに、「普通の感覚の、普通の人間に戻ってほしい」と願っていたことを、彼らの命が失われてみて、はっきり自覚しました。

 

 私たちはなんのために罪人を捕らえ、罰するのでしょうか。
 社会から危険な分子を取り除き、社会の安全を保つためなのですか?

 それはまるで、ゴミをゴミ箱に捨てるのと同じに感じられます。
 だけど、ゴミは焼却されて消えますが、罪人は、また社会に帰ってきます。
 帰ってきても、前科者として、一生ゴミ扱い。

 これが今の日本の現状だと思います。

 

 そろそろ、「罪人は社会に帰ってくる」ことを前提にものを考えませんか。
 無害化して社会に返すことと、社会の中で無害化していくことを考えませんか。

 なぜなら、罪人を目の前から片付けたらおしまい、では、いつまでたっても「なぜ犯罪は起こるのか?」に向き合うことができないと思うからです。
 根本的な原因を探ることなく、ただ罪を犯した人を捕らえて処罰しておしまい、というのは、まるで、地雷を放置しておきながら「踏んだ者が悪い」と見捨てるようなものです。

 

 そんなわけですから、私には、オウムの死刑囚の死刑執行は、彼らをゴミとして捨て、焼却処分して、なかったことにしたようにしか思えないのです。

 それに彼らは人間です。
 どんな罪を犯しても、人間であることにはかわりはない。
 凶悪犯罪者だから殺して終わり……がはたして人間としての向かいあい方か、私には疑問に思われるのです。

 

 「死刑執行」という終わらせ方は、まさに「敗北」としか言いようがありません。
 なぜなら、私たちは彼らを真人間に戻すことができなかった。たとえわずかでも確かに存在していたその可能性を、死刑執行によって、自ら放棄したのですから。

 私たちは敗北した……オウム真理教のいびつな教義を、そして、いびつな宗教をはびこらせた私たちの社会の歪みを、乗り越えられないままに。

 

 

【補足】

 今回の記事↑は自分の中ではなにかが熟しきらなかったので、ずっと公開せずにおいていたのですが、先日、やっと腑に落ちたので、遅ればせながら公開することにしました。

 腑に落ちたきっかけは、この記事↓です。

 いや、ホントに。「愛の流刑地」ぜんぜん関係なくって、ノルウェーのはなれ小島が刑務所になっている、っていう、ほんとうに「愛にあふれた島流し」の記事でして。

 

 で、読んで思ったこと。

 なんだこりゃ!?
 あたしがこうだったらいいのにって思ってることって、
 すでにノルウェーで実現済みってか!?

 

 それで、さらに思いました。

 だったら「死刑が必要」っていう意見のほうが、逆にお花畑だよね。

 だってそれは、犯罪を生み出す社会のひずみからも、元罪人を社会の中に受け入れられない自分たちの狭量さからも目を背けているだけだから。
 こんなことでは、世の中は変化なく止まったまま。でも彼らは、自分たちの醜さを直視せずに「コレでいいのだ♪」と思い込んでいる。

 これっていわば、「逆説的にお花畑」。

 

 だけど「死刑はいらない」という意見は、「罪人を無害化する」という実験的な動きへの萌芽がある。しかも、ノルウェーではこんなふうに犯罪者を無害化することを実践済みだったのだ!
 そりゃ、ノルウェーだって、なんだかんだとうまく回ってないこともあるだろう。だけど、よりよい社会を築いていくことを考えたら、公的に堂々と罪人を殺すことよりも、こっちを目指していくほうがよっぽどリアリティがある。

 ちゃんと土壌の質を見極めて、必要な肥料を施して、土地にあった種を播けば、ほんとうに花は咲くし、お花畑は現実の社会で実現するのだ。

 

 頭の中で幻想の花を咲かせて、「お花畑」で現実を糊塗するのか?
 それとも理想を目指して、現実を「お花畑」に変えていくのか?

 わたしは後者がいい。

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。