梅野瑳刀

つくり手。

梅野瑳刀

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マガジン

  • のうのうと_おもふことの思想群

    ただおもふ.何処かに繋がるわけでもなく,明確な意識があるわけでもない.ただ脳がそう言っていることを掻き集めた何処にもいけないただの思想群.

  • てくてくと_そのあとの文章群

    ピクセルとしてあってアトムとしてない.唯一性が失われたとき芸術は芸術として同一性を孕み続けることはできるか.芸術を時代という文脈から切りはなし純粋で無垢な芸術を浚うことに想いを馳せる文章群.

  • のらりくるり_からのくらりとした写真群

    空気を画素におとしこむことを意識してのらりくるりと風景をおさめた議事録的写真群.主題による言語バイアスを用いて写真一枚からの各個人の情緒レンダリングも試行する写真群.

最近の記事

慰めと窘めのシャッター音.

ぼくは,なぜシャッターを切るんだろう. シャッターを切る行為は現存する世界から風景を切り取るということで,切り離すことだと思う. ぼくは多分,風景を切り離すことでモティーフを孤立させ,独りを強いるためにシャッターを切っているのだと思う. だから、空に惹かれるのだと思う.空はなるべく無垢だから. とっておきに孤立させるために. 真っ白が無垢っぽいとして,作品を際立たせるために,作為と無作為を選り分けるために,ギャラリースペースは真っ白に塗られる.だけれども,それは色彩

    • ちっぽけフラクタル.

      ちっぽけであることは同時にちっぽけである. 最近はこの言葉を慈しんでいる. どんな物事も「だから」「どうせ」で簡単に時に流せてしまう.どれだけ努力しても足掻いていることには変わりはなくて,為すこと全部がちっぽけなことには変わりない. 厭世的だけども,そんな考えを一旦通ることにした方がいい気もする. 少なくとも僕の気分は軽くなる気がする. ちっぽけであることはフラクタルに輪廻するし,重要なのはそれを受け入れて,それをどこで停止ボタンを押せるかだと思う. 停止ボタンのタ

      • 言葉にすれば揮発するもの.

        久々に長文を書く機会がありまして,いざ書いてみると全く書けなくなっていました. 脳から指までのタイピングにかなりのずれがあって,タイピングしているうちに書くことが頭から離れていく.ひどく悲惨な状態でした. 2020年の2月頃には毎日noteとか言いながら毎日700文字から1200文字くらい書いていたのだけれども感覚って鈍るんだなとしみじみ思いました. なので悔しさもあって,こうして言葉を羅列することにしました. 今日は,言葉にすれば揮発するものについて. 例えば,「ぼ

        • なんとなく前進.

          現在は僕は21歳. ぼちぼちというか,そろそろ,というかいい加減に何がしたいか真面目に考えなくてはならない時期. 僕は自分自身に問う時間をなるべく増やすことにした. なるべく引き籠ったし,なるべく本を読まずに自分との会話を優先した. 極端かもしれないけどなんとなく自分が分かってきたし,同時に自分が社会を求めるようになった. 自分と社会よく若者が「自分の信念を曲げてまで」ということが多いけど,その原因は自分をおざなりにして自分が不鮮明なままに社会を先に考えてしまっている

        慰めと窘めのシャッター音.

        マガジン

        • のうのうと_おもふことの思想群
          37本
        • てくてくと_そのあとの文章群
          12本
        • のらりくるり_からのくらりとした写真群
          32本

        記事

          右脳が弱くなった.

          2月頃は毎日noteを書いていたけど,息切れしたのでしばらくお休みしてた. だけど久々に自分のnoteを読み返してみると楽しかったので再開することにしました.当時こんなこと考えてたんだなということが記録になっていて僕自身が楽しかったのでもう一度書き始めることにしました. いつ,また息切れするか分からないけど. 右脳が弱くなった.小中高のときは基本的に3DCGのモデリングデータみたく脳内でイメージがくるくるとしていた. でも,大学時代に本を読み始め,文章を書くことが増え

          右脳が弱くなった.

          主観の廃棄処分

          ぼくは無印良品がすき. それは,ぼくが主観を棄てたいという意思の現れだと思う. 芸術大学1年の頃に掲げていた目標は"媒体"になること. なるべく無垢であろうとして,なるべく空気に憧れた. ぼくは純粋な芸術を浚うために,媒体を志した. 芸術の定義は無自覚なものだと思っている.自覚した芸術は芸術ではなくなるから.芸術を社会に伝搬するためにぼくが媒体として機能する必要があると考えていた. それが社会の中でぼくの役割なんじゃないかと当時は考えていた. 哲学書があれだけ永った

          主観の廃棄処分

          文明飽和で遺るもの

          文明が飽和すれば,幸せを文明によって“創る”ことができる. 創造を膨張させ,確かな現実を妄信することができる.ホルモンの分泌を支配下に置き,楽しくなくても楽しいと信じることができる. 文明は飽和し,世界は分断されてゆく. VRをはじまりに,世界は分断された. 面倒な他人とも向き合う必要もなくなり,ヴァーチャルな世界線で幸福を各々が自律神経までをコントロールし,象っていく. この文明が飽和した世界線でぼくらは何を信じればいいんだろう. ぼくは『時間』と『自意識』に価値

          文明飽和で遺るもの

          たとえ例えが巧かったとして

          例えが上手な人は頭の回転が早くて羨ましい. 例えが上手な人は“普通”を知っていて“共感覚”を持っている. ぼくはそんな人になりたいし,今日はそんなnote. “普通”を知っている普通っていうのはない. そんなこと,義務教育を抜けてしばらく経てば気づいているとは思う.便利を履き違えた都合のいい言葉だということは. 普通という言葉は金棒. 「普通そうだよね?「普通そう思わない?」 ぼくは後ろ盾をつけたがるこの言い方が嫌いだ. 普通によって「我は多数派なり」と,社会では当

          たとえ例えが巧かったとして

          1ヶ月,noteを書き連ねて

          毎日noteを1月末から毎日書いてきた. 毎日800文字から1200文字程度.長い時は1500文字や2000文字以上.別に文字数は目標にしていないから,ムラはあったりする.毎日noteを通して原稿用紙2枚分くらい書かないと意識の向こう側に行くことはできないんだなと実感した. 正直なとこ,600文字程度のときもあったけれど,なるべく800文字は目処にしてきたつもりだ. 主義主張を唱えるだけだと,Tweetの140文字程度で十分に事が足りる. だけど,それを長編にしようと叩

          1ヶ月,noteを書き連ねて

          音楽で測る心理状態

          しないといけない作業が溜まりに溜まっている. どうしようもないから,ひとまず音楽をかける. 音楽が好きというより,耳が寂しいという具合で聴いている. 最近は,雨のパレードさんやLAMP IN TERRENさんを聴いている. アルバムで聴いてるけど,アルバム名を言われても,曲名を言われても出てこない.いわゆるにわかファンではある.  音楽を聴くイメージとしてはさっきまでの日常のノイズを曲によって緩和させ,規律を持たせるようなイメージ. かと言いつつ,曲を流しても依然と

          音楽で測る心理状態

          馴化して溶ける印象

          息切れしても,作り続けなければいけない. 質よりも量,最低限の品質と量だと思う. とくに商業的に活動し,情報化社会を攻略していこうとするならば,その流れは無条件な自然の摂理だろう. 単純接触効果というものがある.別に,ザイアンス効果とも言う. 繰り返し接すると好感度や印象が高まるという効果のこと. これに縋る必要がぼくらにはある. SNSのいいねSNSでいいねを押したくなる投稿はなんだろう. 知っているアカウントの投稿で,尚且つ毎日見慣れたものはいいねが抵抗なく押

          馴化して溶ける印象

          GUIでなければ遊ぶことを意識できないか

          大学の後輩が楽しげにキャラクターのぬいぐるみを抱えている.ゲームセンターで獲れたみたいで,それをみせてくれたのをよく覚えている. ゲームセンターは人間が人間を楽しませるために作ったもの. ぼくらは人の意図の中でしか「遊ぶ」ことを意識できないのだろうか. 「遊ぶ」を意識する休日は休日らしく遊びたい.遊んで息抜きがしたい. 「遊ぶ」ことを意識して有意義な時間としておきたい. 「遊ぶ」と意識するためには社会性は必要なのか. そう考えると遊び方をGUIとCUIにわけて考えた

          GUIでなければ遊ぶことを意識できないか

          よろめく共同体でチャージする感受性

          季節が過ぎていくたびに,感受性が風に吹かれていく気がする. 目の前のことが目の前にあるようにちっとも感じない.どうにか吹かれた感受性を取り戻せないかと考えていた. そんなこんなで迷惑をかけようかと思い立った. 感受性を再起させるためには,よろめく共同体が必要だ. しがない防衛本能感情的になるのが難しくなった. 子どもの頃は,かまきりを見ただけでテンションが上がってたし,捕まえようともした. 今となってはもう触れない. 目の前にあるのは事象であって光景.目の前のこと

          よろめく共同体でチャージする感受性

          海にいこうか

          海がときどきみたくなる. ぼくが人間だからだろうか,ぼくが生き物だからだろうか. 滋賀県にいたこともあって海みたいに広い湖は近くにあったことがある. けれども,海がみたい.湖を海と思い込めるほど正直じゃない. 海がみたい. そんなとき,がある. ありますよね.なんだろう. 水平線がみたいんだろうか, 水面がみたいんだろうか, 潮風に吹かれてたいんだろうか, 波の音がききたいんだろうか, どこか遠くにいきたいんだろうか, だれかの悪口を叫びたいんだろうか, 魚がたべた

          海にいこうか

          ときおりの論理

          グループディスカッションとかあったりする.居酒屋で数人で呑んだくれたりするのもグループディスカッションといえばそうかな. そんな中で,ぼくの中で筋道が通ってるつもりが難しい顔をされたり,反対に,だれかの筋道に首をかしげているぼくがいたりする. お互いに考えている時間軸の幅が違うんだろうなと思った. 目の前にある,ときおりの論理を疑い,考え続ける必要がぼくらにはあるのだと思った. そんなことを考えると情報化社会に染まったSNSは決め付けたがるし,日本文化にそぐわないと思っ

          ときおりの論理

          沈黙の距離感

          多分,友人なのが一人.沈黙が続く. さて,どれだけ沈黙は続いてくれるだろうか. 有意義な沈黙沈黙を埋める作業はお互いにとって徒労. 大した話しをするわけでもなく,上っ面だけが掬われていく. でも,沈黙に耐えるよりかは幾分かマシなのか口がお喋りし出す. 微妙な空気感. ふいにスマホを取り出したりもするけど,目は液晶をなぞりきれない.Twitterを眺めたり,LINEを返したりしていた方が有意義なのにその時間は実際にはなかった. 沈黙で距離感はどれだけ測れるだろう.

          沈黙の距離感