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主観の廃棄処分

ぼくは無印良品がすき.

それは,ぼくが主観を棄てたいという意思の現れだと思う.
芸術大学1年の頃に掲げていた目標は"媒体"になること.

なるべく無垢であろうとして,なるべく空気に憧れた.

ぼくは純粋な芸術を浚うために,媒体を志した.

芸術の定義は無自覚なものだと思っている.自覚した芸術は芸術ではなくなるから.芸術を社会に伝搬するためにぼくが媒体として機能する必要があると考えていた.
それが社会の中でぼくの役割なんじゃないかと当時は考えていた.



哲学書があれだけ永ったらしいのは,主観を棄てるためのものだと知ったからだ.

哲学書が目指すのは一般的に人類普遍の追求と事象の一元化.
それには観点の固定を要請する.

主観を棄てているのだと詭弁を垂れ流す必要がある.


今は紆余曲折あって主観の廃棄処分なり,媒体になることは諦めている.

今度は媒体としてではなく,芸術の定義について,どちらがいいかはまだ知り得ないけど当事者として考えるべき課題として捉えている.


削いだ主観から再起する自己同一性

当時,"媒体"を志していたとき,主観を削ぐためには多数の軸を持つ必要があると考え,本をペラペラとめくっていた.

多くの客観を持つ必要があると思って.

例えば学説的に語るにしても生物学的,遺伝子学的,地理的,文化学的…多様な軸がある.主観を削ぐためにはこれらのより多くの客観を,見地を弁える必要があると考えたからだ.

ぼくは主観を削ぐために,いつも語り始めにこの見地を意識し始めたのを覚えている.

そうすれば,めでたく無垢な媒体になることができると思っていた.

しかし,そうはいかなかった.見地のハイブリッドが出てくる.生物学的な見地と遺伝子学的な見地.これはぼくの自我が悪い.

ぼくの自我が思考を混ぜこぜにして意見を発生させる.

そこから媒体としてはそぐわない自己同一性が再起し始めた.


空気であろうとするほどに自我を自覚し始めた.
空気を知るほどに浅ましさを自覚し始めた.

空っぽになれないことを知った.


現在は媒体は半ば諦めている.

だけれど時折考える.自我をすぐ後ろに感じながら,空っぽでなるべく空気になろうとしている.



文言・写真/うめの瑳刀


のらりくるりと芸術大学中退. 1998年製. 空気を画素におとしこもうと風景をパシャり.二次元(平面)と三次元(立体)の次元間の往来を主題に作品を制作しています.また言語バイアスによる対象からの各個人の情緒レンダリングを試行しております.