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言葉にすれば揮発するもの.

久々に長文を書く機会がありまして,いざ書いてみると全く書けなくなっていました.
脳から指までのタイピングにかなりのずれがあって,タイピングしているうちに書くことが頭から離れていく.ひどく悲惨な状態でした.

2020年の2月頃には毎日noteとか言いながら毎日700文字から1200文字くらい書いていたのだけれども感覚って鈍るんだなとしみじみ思いました.


なので悔しさもあって,こうして言葉を羅列することにしました.


今日は,言葉にすれば揮発するものについて.

例えば,「ぼくは真面目で誠実です」とか,「やる気あります」とか.

真面目な奴は自分で真面目とは言わないし,やる気ある奴はやる気があるのが当たり前だからやる気があるとはわざわざ言葉にしない.


ほかには,「洞察力があります」とか「論理的に物事を考えます」とか.

洞察力があれば,そのご自慢の洞察力を早々に還元し,質問力に昇華して相手が聞いてほしいことを実際に聞いてあげることができるはずだし.

論理的に物事を考えられるかどうかは話し方を聞いていれば分かることだし,そうやって改めて言われると論理的に喋れる人に憧れていて,むしろコンプレックスに近いことなのかもしれないと勘ぐってしまう.


あと,「僕たち友達だよね」

揮発どころか関係性が後退するような言葉だってある.言葉の脆弱性を考えたことのない人間の発言でしかない.この言葉のあとには悪いことしか起きる気しかしない.


言葉にすることは強い意識表層の部分にあるということ.強調すればまだそこに残っているということ.そのレベルでしかないということ.言葉にしなければ表明できない覚束ない状態にあるということ.

幸せと言い聞かせているときは幸せじゃないから,分かりやすくいうと大体そんな感じ.


そんなようなことをメタ的に認知していない人が扱う,揮発性のある言葉があると思う.



画面越しのコミュニケーションが多くなり,揮発性のある言葉がこれまで以上に飛び交うようになったと思う.茶菓子がないから不安なんだろうか.言葉でしか距離を縮めることしかできなくなった画面上に戸惑い,揮発性のある言葉を口走ってしまう.

揮発性のある言葉が再生される時間は当人の自己満足の時間であって,時間の搾取だし,嫌悪感さえ抱いてしまうというジレンマ.


それを受けて僕の興味関心は所作に移っていった.
所作によって言葉の揮発性を反対に高めることができるからだ.

これまで揮発しなかった言葉も揮発させることができる.


いわゆる背中で語るといったもの.

所作によって揮発性を高めた極地に「佇まい」というものがある.

ただそこにある.静かであるけれども圧倒的な存在.口数は数える程度だけれども,夥しいほどの言葉が揮発しているのが分かる状態.

だから最近の僕はぼくをあてになんかしないし,僕なんかが考えれることは全部駄目で,今書いている文章も全文が駄文でしかないと思っている.

自己肯定感を高めるという言葉は嫌いだし,自己批判を何度繰り返しても,自分をどれだけ社会と摩擦してみても水の上に浮かんでくる油みたいな消しきれない一人称がある.なので僕は安心して僕自身を虐げることができる.
無自覚な自分をめがけて,意識で掘り起こして,自覚的になった自分を押し込めるように嫌悪して所作に溶かしていく.


総じて最近の僕はどうすれば口数が減るのか,言葉以外で存在を指し示せるように「佇まい」を模索している.

のらりくるりと芸術大学中退. 1998年製. 空気を画素におとしこもうと風景をパシャり.二次元(平面)と三次元(立体)の次元間の往来を主題に作品を制作しています.また言語バイアスによる対象からの各個人の情緒レンダリングを試行しております.