超訳・吾妻鏡

吾妻鏡を知れば「鎌倉殿の13人」がもっと楽しめるようになるかもしれない。ならないかもし…

超訳・吾妻鏡

吾妻鏡を知れば「鎌倉殿の13人」がもっと楽しめるようになるかもしれない。ならないかもしれない。 ドラマの最初のほう見逃したぁって人は、これを読んだら追いつける!といいなぁ。 角川ソフィア文庫『吾妻鏡』(厚い)か吉川弘文館『現代語訳吾妻鏡』全16巻(長い)はオススメ。

最近の記事

北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』⑦

1220年(承久2年)1220年1月14日 トキフサの次男トキムラと三男スケトキが出家。いきなり。なんで? 兄弟ゲンカでもしてバツでマル坊主にされたのかと思ったら、ホントに出家。マジ坊主。 トキムラは上皇の前でもケマリを見せた、チームの柱なんだけど。 二人とも実朝様のウタ仲間。あれから1年。関係が? 1220年12月20日 源ヨリモチとの戦いで焼けた天皇のおウチが復活。カネかかったなぁ。今年はキヨミズ寺とギオンの神社も火事で焼け落ちた。 京都だけじゃないよ。鎌倉はここ2

    • 北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』⑥

      1214年(建保2年)1214年2月4日 昨日はオールで飲み会。 今朝、実朝様の体調が悪いと周りがドタバタ。いや、飲みすぎただけだろ。 御所に来てたエイサイ和尚が「二日酔いなんてお茶でイチコロ。『一日一杯のお茶であなたも健康になれる』って本を書いたよ。ヒマだからな。読んでね」だって。 ヒマなんだ。 1214年6月13日 5月は日照り続き。実朝様が「ウチは年貢を3分の1に減らすよ」と言いだした。 優しい。けど勝手に決めないで。将軍の土地だけエコヒイキはマズイって。 この前

      • 北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』⑤

        1210年(承元4年)1210年6月3日 小田原で切った張ったの大ゲンカが。和田ヨシモリ殿と三浦義村が止めてきた。 仲良く散歩してるとき、どっちの先祖がリッパだったかで言い争いになり、そこから殺しあいに。 はぁ。ポカーンだよ。 くだらねぇ理由でまたケンカしたら御家人から永久追放するぞと叱っといた。 1210年10月15日 実朝様の最近の推しは聖徳太子。みごとにハマッて沼落ち。 「太子のことならなんでも知りたい!」って目をキラキラさせてる。 大江広元殿が『十七条の憲法』『

        • 北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』④

          1206年(建永元年)1206年3月12日 実朝様が桜井五郎というタカジョーと会った。鷹のトレーニング名人。 思いどおりに鷹をアヤツる奥義を自慢げに話してくれた。よくしゃべるヤツ。イメージしてた達人となんか違う。 しかも鷹じゃなくモズでも狩りができるって。ホントかよ。実朝様は見たい見たいと大興奮。 1206年3月13日 実朝様と「モズの狩りを見たがったのは子どもっぽかったかな?」「珍しいワザだよね。オレも見たいよ。でもホントにできるんすかね」などと話してたら、タカジョー

        北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』⑦

          北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』③

          1203年(建仁3年)1203年9月15日 センマン様が三代鎌倉殿に。今月7日に発行された「征夷大将軍に任命する」って朝廷の文書が届いた。 7日発行...なんか順番がおかしい気がするけど、そこはドガチャカで。細かいことは気にしない!事前準備は大事だよね。 後鳥羽上皇から「サネトモ」って名前ももらった。 1203年9月29日 頼家が修善寺に引っこんだ。ブッチャケ追放だけど。でも女武者も入れて300騎以上のリッパな行列で送りだした。 一応は前の鎌倉殿。沿道で見る人も多いし、

          北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』③

          北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』②

          1201年(建仁元年)1201年2月3日 京都から急使。ジョー・ナガモチってヤツが反乱。 関東を討てって命令を出せと天皇と上皇をオドした。もちろんそんな命令は出なかったので、ジョーは逃げた。 コイツもとは平家の味方で、梶原カゲトキに救ってもらったヤツだ。 まっ、すぐ片づくさ。オマエはエースじゃない。 1201年3月24日 千葉ツネタネ殿が亡くなった。頼朝様の挙兵以来の仲なのでサミしい。84歳で畳の上で死ねたんだから幸せか。 ジョー・ナガモチの件はだいたい片づいた。あとは

          北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』②

          北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』①

          1199年(建久10年) 1199年2月6日 二代鎌倉殿、頼家サマの業務開始。頼朝様が亡くなってから、ずっとバタバタ。落ち着かないけど仕事はたまってく。 鎌倉殿は役職が左中将になり、天皇から「これまで通り全国をしっかり守ってね」って手紙をもらった。 大丈夫。全部ちゃんと手配できてる。ちゃんとやれる。 1199年3月2日 頼朝様の四十九日。ゆっくりシノびたいけど、そうも言ってられない。 早く頼家サマの新体制を安定させないと。息子だからって、実力ない二代目の言うことにハイ

          北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』①

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』⑦

          1192年(建久3年) 1192年3月16日 京都から速達。13日にゴシラカワが死んだ。67歳。腹の病気。去年の末から調子悪いって聞いてた。 食えねぇジジイだったけど、40年も政治の中心にいたンだからスゲェよなぁ。 日本一の大テングなんて言っても笑って許すフトコロの深さもあったし。 死ぬ前に会えて良かった。 1192年5月26日 北条義時の息子コンゴウが遊んでる前を多賀重行ってバカが馬に乗ったまま通った。 危ねぇし無礼だろって叱ったら、失礼はなかったと言い訳しやがる。

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』⑦

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』⑥

          1188年(文治4年) 1188年4月9日 義経は平泉にいるってハッキリした。まぁ知ってたけど。 逃げるなら藤原ヒデヒラんとこしかねぇもん。そのヒデヒラも去年の10月に死んだが。 天皇とゴシラカワがヒデヒラの子ヤスヒラに出した手紙をコッソリ読んだ。 変な気ィ起こさず義経を捕まえろと書いてあった。ヨシッ。 1188年4月25日 センジュのマエが恋のヤマイで死んだ。平シゲヒラとの飲み会で、シゲヒラとカップルになった政子のメイド。 シゲヒラが殺されてから、ずっと元気なかった

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』⑥

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』⑤

          1186年(文治2年) 1186年1月21日 義経にオレを討てって命令出したことについて、「出さなきゃ義経たちは京都で大暴れしてた。わかってよ」なんて何度も謝ってくるから、今回は朝廷のヤツらを許してやる。 これでオレが優位に立ったな。どうよオレの政治力! ついでにゴシラカワに還暦祝いを送ってやった。 1186年2月4日 裏山の子ギツネが寝室に迷いこんできた。 久々のホッコリエピソードかと思って、どんな意味があるか占ってみたら「大凶」... 全然ホッコリしないよ! この

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』⑤

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』④

          1185年(元暦2年) 1185年3月8日 義経から急ぎの使者。「先月18日に合戦が始まり初戦は大勝利!ヤシマに向かいました」とのこと。 で?と使者に訊いたら「途中で抜けたのでその先は知りません。後ろ見たら火が出てたんで、勝ったんじゃないですかねぇ」なんて言うから、みんなでコケた。 最後まで見てから来いよ! 1185年3月11日 カバに手紙を書いた。 九州に着いたけど、食べ物が全然なく士気がダダ下がり、和田ヨシモリたちがもう帰るとワガママ言って困ってると泣き言を並べて

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』④

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』③

          1184年(寿永3年) 1184年1月1日 今年の初モウデはキャンセル。 カズサヒロツネ殺したばっかで、正月だからって浮かれた気分になれない。 早まったかなぁ... でもアイツの態度も悪かったよ。兵いっぱい持ってるからって、いつもエラソーだったし。 ここじゃオレがいちばんなの。それを乱すヤツはダメなの。 1184年1月17日 カズサが地元の神社に納めたヨロイを取り寄せた。裏切りの証拠の手紙が入ってるってウワサだったから。 ...そんなことなかった。「頼朝様の願いがかな

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』③

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』②

          1181年(治承5年) 1181年1月11日 梶原カゲトキってのに会った。 なんと、石橋山で負けて洞窟に隠れてたとき見逃してくれた、目ツキの悪いヤツがカゲトキだった! 目が悪いわけじゃなく、わざとスルーしてくれたって。 コイツと話してると気分良くなるんだよね。ヨイショがウマいのかな?気に入っちゃったよ。 1181年1月18日 ヤなこと聞いた。平家が奈良の大仏焼いちゃったって。 いくらサカらったからって、ヒドいことすんなぁ。清盛もロクな死に方しねぇぞ。 オレなんて、石橋

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』②

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』①

          1180年(治承4年) 1180年4月27日 昼過ぎにユキイエとかいうオッサンが訪ねてきた。親戚らしい。 「久しぶりだなぁ、こんなちっちゃいころ会ったことあるけど覚えてる?」って、全く記憶にねぇよ。 「これ、モチヒトオーから」って手紙くれたけど、その王のことも知らないって。 で、手紙の中身ヤバすぎ。「一緒に平家討とうぜ!」って。 はあ?いやいやいやいや、ナイでしょ。 「カネとか兵とかどうすンの?」って訊いたら、「それはそっちで用意して」ってのもありえねー。 手紙書いたヤ

          鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』①