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北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』③

1203年(建仁3年)

1203年9月15日

センマン様が三代鎌倉殿に。今月7日に発行された「征夷大将軍に任命する」って朝廷の文書が届いた。
7日発行...なんか順番がおかしい気がするけど、そこはドガチャカで。細かいことは気にしない!事前準備は大事だよね。
後鳥羽上皇から「サネトモ」って名前ももらった。

1203年9月29日

頼家が修善寺に引っこんだ。ブッチャケ追放だけど。でも女武者も入れて300騎以上のリッパな行列で送りだした。
一応は前の鎌倉殿。沿道で見る人も多いし、幕府の権威は大事だから。
頼家もかわいそうっちゃあ、かわいそう。いきなり二代目継いで。でも勝手なことをやりすぎたよ。

1203年10月8日

12歳のセンマン...じゃない、実朝様が元服。式は父さんの屋敷で。広いからね。
100人以上が参加。こうして見ると、頼朝様のころから、ずいぶんメンバーが変わったなぁ。
父さんは実朝様の髪をセットする超重要な役。オレも道具を運んだり食事の世話したり。けっこう大事な役。

1203年10月9日

実朝様の仕事が本格的にスタート。父さんと大江広元殿が仕切った。
実朝様は特に口を出さなかった。まあ、今はそれがイイと思うよ。
事務仕事のあと、軽くカンパイしてから、実朝様が初めてヨロイを着て馬に乗るイベント。ここでも父さんが手伝った。
父さん出すぎじゃね?

1203年11月6日

修善寺の頼家から手紙。
「温泉もイイが一日入ってると退屈で退屈で。昔の遊び仲間を寄こして。あと安達カゲモリをブッとばしたいんで連れてきて」と。
はあ...二度と手紙を送ってくるなと三浦義村に伝えに行ってもらった。
そんなにヒマなら、あくびのケイコでもしてろ。

1203年11月10日

三浦義村が修善寺から帰ってきた。
二度と鎌倉に連絡してくるな、あと昔の仲間はほとんど処分されたぞと頼家に伝えたが、ピンときてなかったらしい。
しかもまだ安達カゲモリをウラんでるって。オマエが彼の妻を奪おうとしたせいだろ。
聞いてた政子姉は泣いちゃったよ。

1204年(元久元年)

1204年5月6日

義理の弟、平賀トモマサから手紙。
「平家の残党がイセで反乱。道がふさがれ苦労しましたが、私は初戦に勝ちましたよ。私は敵を追いつめましたよ。敵も強かったですが、私は勇敢に戦いましたよ。そして私は倒しましたヨ」
良かった。けどなんだ、絶妙にイラッとする文章だな。

1204年6月8日

平家の残党を片づけた恩賞の第二弾を父さんが発表!
平賀トモマサをイセの守護にするなど、先月ホウビはあげ終わってたんだけど、エコヒイキだ!って不満がすごかった。
最初は前座、真打ちはあとからでしょとナダメてからの追加発表。ここでヘタうったらオワリだからな。

1204年7月19日

頼家が死んだと修善寺から手紙。昨日。23歳。報告はそれだけ。
いろいろウワサされるだろう。特に京都のヤツらは、ヤバンな鎌倉は金のタマゴを失ったとか好き勝手に言うだろう。
かまわない。頼家は死んだ。もう誰かにミコシでかつがれることもない。大事なのはそれだけ。

1204年10月14日

実朝様の結婚相手が決まった。後鳥羽上皇の叔父さんの娘。つまり実朝様と後鳥羽上皇は親戚に。スゴイね。けど親戚づきあいメンドクサそうだな。
弟のマサノリや結城トモミツ、畠山シゲタダ殿の息子シゲヤスら、鎌倉中から見バエがイイのを集めて、京都に迎えに行かせた。

1204年11月13日

弟のマサノリが5日に京都で急死したとの連絡が。出かける前は元気だったけど...まだ16歳。
父さんと義母さんは半狂乱になってる。
そりゃそうだ。義母さんのたったひとりの息子で、北条のアトトリだったんだから。せっかく若いうちから出世もしてたのに。
かわいそうに...

1204年11月20日

弟マサノリの使用人が帰ってきた。遺体は京都で埋葬したと。
マサノリが亡くなる前の晩、平賀トモマサの家で宴会が開かれた。
突然、トモマサと畠山シゲヤスが口ゲンカ。あわてて周りがとめて、なんとかおさまったって。
ケンカの理由は不明。京都の酒って悪酔いしやすいのかな?

1205年(元久2年)

1205年2月12日

ミヨシヤスノブ殿が嬉しそうに御所に駆けこんできた。京都から辞令。実朝様が右中将に。
さすが後鳥羽上皇と親戚づきあいできる男!
ところで右中将ってどれくらいエラいんだろ?
まあ、そういうオレも去年の3月に相模守になってるんだけどね。これってなかなかスゴいことなんよ。

1205年4月11日

鎌倉がなんか騒がしい。急に人が増えた。武装してるヤツらも多い。
義弟の稲毛シゲナリが鎌倉に出てきた。妻を亡くして出家してから、川崎あたりに引っこんでたんだけど。父さんに呼ばれたって。
シゲナリの顔を見ると、頼朝様の落馬を思い出してツラい。あれから6年か...

1205年6月20日

4月は原因がよくわからないままモノモノしいフンイキ。用がないヤツはクニに帰れって命令を出したら5月に入って落ち着いた。
それが最近またオカシい。
畠山シゲヤスが地元から鎌倉に出てきた。稲毛シゲナリが呼んだって。
シゲナリがカラむとヤな予感しかしないんだけど。

1205年6月21日

父さんと義母さんから呼び出し。畠山父子がムホンと平賀トモマサからタレコミだと。
「ありえない!シゲタダは父さんの義理の息子ですよ。ちゃんと調べないと後悔する!」と言って帰った。
そしたらウチまで追いかけてきて、お前も北条を裏切るのかと。仕方ない...のか。

1205年6月22日

早朝、三浦義村が畠山シゲヤスを殺した。
その後、シゲタダを討つために出陣。大将はオレとトキフサ。
昼、畠山軍とぶつかった。あっちは百騎あまり。こっちは何十倍。
4時間以上の激闘になったが、勝負はハナからみえてる。
あっちこっちで友人どうしが殺しあい。ああっ...

1205年6月23日

昼すぎに鎌倉に戻った。
父さん、どうして「どうだった?」なんて気軽にきけるんだ。
シゲタダはたった百数十騎だった。
その人数でムホンを起こすはずなく、明らかに言いがかりだったわけで。
父さん、シゲタダは親友だったんだぞ。
きのう息子が産まれた。でも祝う気になれないよ。

1205年6月29日

鶴岡八幡宮の坊さんを呼んで、1日中お経をあげてもらった。
心に決めたことがあるから。オレは必ずやるよ。
この前、稲毛シゲナリを片づけた。ヤツがチョロチョロと動いたせいでシゲタダは死んだ。
ただ、その後ろに義母さんと平賀トモマサがいたことはわかってる。あと...

1205年7月8日

畠山殿たちの土地を、テガラを立てた者で分けあった。
残酷だよね。けど、これ以上ムダな争いを起こさないためにも、こういうことはしっかりやっとかないと。
ホウビの割り振りは政子姉が決めた。実朝様が幼いうちはこれからも姉さんが仕切る。
父さんには口を出させない。

1205年閏7月19日

義母さんが実朝様を殺して平賀トモマサを将軍にしようとタクラんでるとのウワサが。
すぐに父さんの家にいる実朝様を救いに行き、オレの家に避難させた。
間に合って良かった。実朝様はこっちにいる。父さんの味方は誰もいなくなった。
深夜、父さんは引退宣言して出家。

1205年閏7月20日

今朝、父さんは伊豆に旅立った。
これは事実上の追放なわけで。
父さんは近頃ホントに情けなかった。ここを出てってもらうのはそんな父さん見たくないからさ!
今日、シッケンになった。
平賀トモマサをブッ殺せって命令を出した。ヤツのしたことは消しゴムでは消せない。

1205年8月2日

京都から報告。平賀トモマサを片づけたと。
上皇の屋敷で囲碁をしてるときに軍勢のことを聞いたトモマサは「私を殺しにくるみたい。逃げられないよなぁ。お世話になりました」と冷静に別れのアイサツ。
家に帰ったとこを刺客たちがシトメた。
ビビらなかったのはエラいよ。

1205年9月2日

『新古今和歌集』が京都から届いた。後鳥羽上皇が製作総指揮のウタの本。
正式発売前だけど、コネでゲットだぜ!
和歌が大好きな実朝様は、頼朝様のウタも入ってるこの本が読みたくてたまらなかったみたい。
お父さんの和歌だ!ってホホを真っ赤にして喜んでる。良かったね。

1205年12月2日

頼家の忘れガタミのゼンザイが、鶴岡八幡宮のトップ、ソンギョウの弟子になった。
政子姉の手配。
甘いかなぁ。みんなを落ちつかせるにはイイのかなぁ。ドッチだろ。10年後くらいにわかるのかな。
先月も姉さんは稲毛シゲナリの孫娘を自分の義理の娘にして守ってあげてた。


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