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鎌倉殿の日記『源頼朝アワー 幕府開いていいトモ!』④

1185年(元暦2年)


1185年3月8日

義経から急ぎの使者。「先月18日に合戦が始まり初戦は大勝利!ヤシマに向かいました」とのこと。
で?と使者に訊いたら「途中で抜けたのでその先は知りません。後ろ見たら火が出てたんで、勝ったんじゃないですかねぇ」なんて言うから、みんなでコケた。
最後まで見てから来いよ!

1185年3月11日

カバに手紙を書いた。
九州に着いたけど、食べ物が全然なく士気がダダ下がり、和田ヨシモリたちがもう帰るとワガママ言って困ってると泣き言を並べてきたンで、その返事。
ナダメつつ気合を入れ直した。
1月にも似たことを言ってきたけど、カバの軍はそんなにマズいのか?

1185年4月11日

義経から手紙。先月24日、ダンの浦でついに平家を滅ぼした!源氏840、平氏500の船で海上決戦、昼頃に勝利!
アントク前天皇を助けられず、クサナギの剣をなくしたのはイタいけど。
とにかく平家を根絶やしに!
チョー気持ちいい!
感動して、なンも言えねぇ...

1185年4月15日

オレが頼んでないのに、勝手に朝廷から役職もらったヤツらは帰ってくんな、そのまま京都にいろとの手紙を出した。
ついでにソイツら一人一人の気にくわないところも書いてやった。
ハゲ、ブサイク、ウスラバカ、デブ、ビビリ、下等生物...などなど。
悪口って止まンない!

1185年4月21日

梶原カゲトキから速達。ダンの浦の戦いの報告、ってゆーかポエム?
夢がどうとか、巨大な亀がどうとか、白い鳩がどうとか...戦いの詳しい話は?
後半は義経へのグチ。自分一人のテガラ顔で周りの意見きかないから、もう近くにいるのもヤだって。
アイツも悪口止まンないね。

1185年5月7日

先月29日に「義経は勝手ばかりしていると聞いた。オレの仲間だと思うヤツは今後、義経の言うことに従うな」という手紙を出した。
そしたら義経アセッたのか、逆らうつもりは全くないって言い訳の手紙がきた。
今さら遅ぇンだよ!いつも丁寧に報告寄こしてたカバを見習え。

1185年5月15日

義経から使者。「京都から平ムネモリを連れてきました。もうすぐ小田原です。明日、鎌倉に入ります」だと。
「義経は鎌倉に来ンじゃねぇ。オレがいいと言うまで、そこらで待ってろ」と返事した。
ムネモリの身がらは、時政のオヤジに引き取りに行ってもらった。

1185年5月24日

コシゴエで足止めさせてる義経から大江広元ンとこに手紙。
ヨシナカ、平家を倒してホめられると思ったら、チクリ野郎のせいで、ホウビをもらうどころか会うこともできずに毎日泣いてます。家族じゃないですか。
なんてことがクドクド書いてあった。ケッ、返事はやらない。

1185年6月7日

平ムネモリと直接会っていいか大江広元に相談したら、今は立場が違うからヤめろと言われた。
ヒキヨシカズを通じて「ウラみがあるわけじゃございやせんが、浮き世のギリってヤツでこういう次第となりました」と伝えた。
ムネモリは「命ばかりはお助けを」だと。情けねぇ。

1185年6月9日

義経を京都に帰らせた。
会えばわかってくれるはず、兄弟なんだから。
などとしきりに言ってたらしいが、会わなかった。
そしたら最後に「もういいよ、頼朝をウラんでるヤツは義経に従え!」と捨てゼリフを吐いたらしい。
ホレ見ろ、本性だしやがった。
ヤツの土地は没収!

1185年8月4日

ユキイエ叔父は平家との戦いではナンの役にも立たなかったうえ、一時はヨシナカの味方をしやがった。
とっくに殺されてたってモンクはねぇくらいなのをホッといてやったのに、ムホンを起こそうとしてると聞いた。
もう許さねぇ。
ユキイエを討てって命令を出した。

1185年8月24日

九州からシモコウベユキヒラが帰ってきた。
酒だ土産の弓だと景気いいんで、九州じゃ食い物すらなかったらしいがナンか悪いことでもしたんか?と訊いたら、「ヨロイもカブトも売って戦った。土産がないのは恥なんで服と交換した」と。
疑ってゴメン。最近オレ性格悪いな...

1185年9月21日

カバから使者。「9月中に九州から京都に入ります。8月中にって言われてたのに台風で遅れてすみません」と。
オレの命令にちゃんと従おうとするカバはエレぇ。
この前、義経にはユキイエ叔父を討てと命じた。
さて、コイツは言うこときくかな。しっかり見張ってっかんな。

1185年10月6日

京都で義経を見張ってた梶原カゲスエが帰ってきた。「鎌倉からの使者として義経に会いにいったら、病気だからと追い返されました。数日後に会えましたが、弱ってるんでユキイエ討つのはムリと」
ヤロー、ユキイエとグルだな。仮病まで使いやがって。そっちがその気なら...

1185年10月22日

京都から使者。17日にトサノボウが義経を襲撃したが失敗。
ナニやってんだよ、くそッ!義経ヤるって自分から手ェ挙げたくせに。あんなヤツに任せンじゃなかった。
さらに、朝廷が義経に、オレを討てって命令を出したらしい。
ハァ?マジで言ってンの?ドイツもコイツも!

1185年10月29日

もう他のヤツに任せてらンない。義経とユキイエを討つため、オレ自身が京都に行く。
ドヒサネヒラ、千葉ツネタネたちと出陣した。4日前には先発隊が出陣済み。
御家人たちは誰に従ってンのか、義経にハッキリ分からせてやるよ。
ついでに朝廷にも落とし前つけさせてやる。

1185年11月7日

義経とユキイエは九州に逃げたとの報告。
誰もアイツらの味方にならなかったンだと。
当たりメェだろ。なんで自分たちの言うこときくと思ったンだよ。
それにしても今回の朝廷の態度は許せねェ。どうしてくれるか見てろ。
いつまでもバカどもと遊んでるヒマはないので、鎌倉に帰る。

1185年11月12日

今回の義経の反乱みたいにナンか起こるたびに関東から出陣するのメンドいし、カネもかかって大変だよねって大江広元に相談したら「地方ごとに地頭ってのを置いて、そこの警備を任せたらどうです?」と。
ヒロモト天才!...まだちゃんと理解できてないけど。

1185年11月15日

朝廷から使者。「なんて聞いたか知らないけど、義経に頼朝を討てって命令出したのは、ホンキじゃないよ。出さなきゃ目の前で自殺するぞとオドされて仕方なかったんだよ」とかクドクド言い訳。
「フザけたことヌかすな。ゴシラカワは日本一の大テングだ」と言ってやった。

1185年12月15日

京都にいる時政のオヤジから速達。奈良で捕まえた義経の愛人シズカを取り調べしたと。
義経は九州に逃げる途中、嵐で死んだってウワサあったけど、まだ生きてるのがハッキリした。
やっぱね。まぁ簡単に死ぬタマじゃないよな。
最近調子悪かった息子のマンジュが元気になった。

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