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北条義時の日記『ライバルが片づくトキめきの魔法』①

1199年(建久10年)


1199年2月6日

二代鎌倉殿、頼家サマの業務開始。頼朝様が亡くなってから、ずっとバタバタ。落ち着かないけど仕事はたまってく。
鎌倉殿は役職が左中将になり、天皇から「これまで通り全国をしっかり守ってね」って手紙をもらった。
大丈夫。全部ちゃんと手配できてる。ちゃんとやれる。

1199年3月2日

頼朝様の四十九日。ゆっくりシノびたいけど、そうも言ってられない。
早く頼家サマの新体制を安定させないと。息子だからって、実力ない二代目の言うことにハイハイ従うほど鎌倉武士は甘くない。
まぁ、頼朝様も実力っていうより運の良さで乗りきってきたとこあったけど...

1199年4月12日

訴えゴトを頼家サマに直接もっていくのを禁止した。重役13人の誰かが取りつぐ。オレもそのひとり。
なんでもかんでもトップが決められるものじゃないし、もし遊び仲間をヒイキしてるなんてウワサが立ったら一発でアウトだから。
頼家サマを守るため。わかってくれるよな。

1199年4月20日

頼家サマがトンデモない命令をだした。
「お気に入りの5人は鎌倉でどんなムチャやってもOK。一般人が逆らったら処分。あと、この5人以外は許可なくオレの前に顔だすな」と。
13人ルールの仕返しのつもりか?ガキが!
いかん。本音を表に出しちゃダメ。ここだけここだけ。

1199年6月30日

サンマン姫が亡くなった。オレのメイっこ。まだ14歳なのに。
京都から医者を呼んだけどダメだった。「もっと早くみせてくれれば」って、オマエが来るのイヤがってたから遅くなったんだろ。手遅れ医者が。
政子姉がすごく落ちこんでる。大姫、頼朝様に続いてだからなぁ。
京都なんて...

1199年7月20日

信じられない話を聞いた。頼家サマが安達カゲモリの妻を、夫の出張中に連れ去ったと。
正気か?カゲモリは頼朝様のイチの家来、というより親友だった藤九郎殿の息子だぞ。
どうせバカなトリマキ連中と酔っぱらって、フザケ半分でやったんだろ。自分の立場をわかってない!

1199年8月19日

頼家サマがトリマキ連中に安達カゲモリを殺せと命令。妻をとられてウラんでますよとマヌケな告げ口をしたバカがいた。
政子姉が「カゲモリになんの罪があるか聞かせなさい。理由もないのに殺すというなら、まず私を殺しなさい」と体を張って止めてくれた。
鎌倉中が大騒動。

1199年8月20日

政子姉が頼家サマを叱った。「カゲモリを殺そうなんて、どうかしてる。トップにあるまじきこと。仕事しないで女遊びばかり。周りにバカしかいないから、こんなことになるんです!ちゃんとした者を敬意をもってソバに置きなさい」と。
ちったぁ反省してくれればいいけどね。

1199年10月25日

御所でダベッてたら、結城トモミツが「忠義ある侍は2人の主人に仕えないって言うよなぁ。頼朝様が亡くなったとき、オレも出家して引退しちゃえば良かった。最近の政治はロクでもなくって情けねぇ」と言っちゃった。
気持ちはよくわかる。でも声が大きい。あぶねぇって。

1199年10月27日

結城トモミツと話してたら、妹アワが飛びこんできた。
「トモミツ、あなた殺されるわよ。頼家のバカには従えないとか、頼家の世はクソだとか言ってると梶原カゲトキがチクったから」と。
そこまでは言ってない!でもやっぱり。
三浦義村の家に避難させた。カゲトキめ...

1199年10月28日

昨晩、義村の家で梶原カゲトキをどうするか相談。ブッ殺しちまおうぜ!って話もでた。けどまずは、カゲトキをソバに置いとくとロクなことになりませんよって手紙を頼家サマに出すことにした。
手紙の署名は66人も集まった。嫌われてんなぁ。
あれっ、オレ名前書いたっけ?

1199年11月10日

カゲトキを訴える手紙を預けた大江広元殿に和田ヨシモリ殿が「頼家サマはなんて言ってた?」と訊いたら「まだ渡してない」と。
「なにビビってんだよ!」
「梶原殿を気の毒に思っただけ」
「ウソつけ、ビビり!」
「今渡しに行くよ!」
50過ぎのオジサン2人が口ゲンカ。

1199年12月18日

梶原カゲトキを鎌倉から追放することが正式に決まった。
訴えを読んだ頼家サマが「言いたいことがあるなら言え」と訊いたけど、カゲトキはなにも答えられなかった。いやもしかしたら、あえて言い訳しなかったのかな。どうなんだろ。
カゲトキの家はすぐにブチ壊された。

1200年(正治2年)


1200年1月20日

梶原カゲトキが、ムホンを起こすため京都に向かったとの報告。地元でおとなしくしてたんじゃないのかよ。
すぐにカゲトキを討つための兵をだした。
カゲトキは西のほうに仲間がいるし、貴族にも知り合いが多いから、京都に入られるとヤッカイ。早くつかまえないとマズイ。

1200年1月21日

昨晩、梶原カゲトキを討ちとった。静岡で地元の武士が見つけて激しい戦いに。最後は地元チームが数で圧倒して、梶原一族ミナゴロシ。
しかしなんでカゲトキが通ること知ってたんだ?静岡にはオヤジの知り合い多いけど...手を回したか?
頼家サマもマサカの展開だろうな。

1200年1月23日

三浦ヨシズミ殿が亡くなった。梶原カゲトキが死んだばかりなのに。
13人で頼家サマを支えると決めてから9ヶ月しかたってないよ。もう2人も欠けた。
でもまだ、11人いる!
互いに信用できないところはあるけど、力を合わせてトラブルを乗りこえ、鎌倉号を進めるしかない!

1200年2月6日

カゲトキの仲間を捕まえた者にホウビをやろうとしたら、それをネタんだヤツが「実際は畠山シゲタダが取り押さえたんだ」と抗議。
畠山殿に確かめたら「そんなことはない。男の嫉妬に付き合わされて迷惑」と。
畠山殿カッコいい!本当はいつもの怪力で手伝ったらしいけど。

1200年5月12日

頼家サマが坊主14人のケサをハギ取って焼かせた。色が自分のイメージカラーと同じ黒なのが許せないって。イミガワカラナイ。
「バカなことやると天罰くだりますよ。そもそも私の衣は燃えません」と言った坊さんのケサは本当に燃えず、それを着て去っていった。エスパー?

1200年5月28日

宮城で土地の境界争い。地域責任者の畠山シゲタダ殿が判断を保留したので、頼家サマが裁くことに。
頼家サマは地図の真ん中に線を引いて「ココで分ける。どっちが得したかは運次第。今後もこうやって決める。嫌なら訴えるな」と。
うーん、大胆かつ合理的...なワケあるか!

1200年6月29日

梶原カゲトキの息子カゲタカの妻は、政子姉のお気に入り。夫が殺されてからオビえて過ごしてたが、財産はそのままで良いと決まった。姉さん、やるなぁ。
この前亡くなった岡崎ヨシザネ殿の、子孫に土地を残してやりたいって最後の願いもカナえてあげてた。やるなぁ、姉さん。

1200年9月2日

みんなで海遊び。
和田ヨシモリ殿の息子ヨシヒデは水泳名人。ワザを見せることになり海に飛びこんだ。全然でてこないんで心配してたら、サメ3匹つかまえて上がってきた。絵になる男だなぁ。
ヨシヒデは巴御前との子ってウワサだけど本当かな?和田殿は教えてくれないんだもん。

1200年12月28日

源平の戦いのあとに与えられた土地は1人5ヘクタールまで、超えた分は取りあげて、土地を持ってないトリマキ連中に配ると頼家サマが言いだした。
なに考えてんだよ。いや、なんも考えてないだろ!
重役みんなでとめて今回は中止に。けど来年春にはやるぞと言い張ってる。

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