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【古文書訳】武田晴信文書(天文十七年(1548年)三月七日【村上義清に大勝したよ(嘘)】
:原文
【向山所迄一札披見、仍村上義清逆心附而、去月朔日出馬候処、不慮遂一戦、得大利候、随而伊奈郡地下人少々相替就企逆儀、為其成敗、當郡迄納馬候、兼又氏康追日入魂申候条、宜預馳走者可為喜悦候、猶向山又七郎可申越候、恐々謹言 三月七日 晴信(花押) 真月斎】
:意訳
【向山の所に届いた手紙を見ました。村上義清が逆心したので、先月出馬した所、思いがけず一戦を遂げ、大勝利しました。伊奈郡で百姓や町
【鶴岡八幡宮社参記】をつまみ食い
永禄元年、足利義氏が鶴岡八幡宮に参詣した時及び、北条氏康邸で行われた儀式の様子が【鶴岡八幡宮社参記】(引用:北区市史)に描かれている。
その時の膳の内容・参加者を、つまみ食い程度にまとめてみた。
(亀足・金銀等飾りは除く)
※調査したが不明な物/事もあり(→?で記載)ご教示頂けますと幸いです。
未刻(13-15時)に義氏が氏康邸に来たとされる。
●御一献之次第●
海月(クラゲ)・塩・三盞・熨斗
【北条家当主と子息の正妻まとめ】
※()内は正妻の父親
※?は同時代史料で確証が取れない物及び、
人により、見解が分かれるもの
※北条家に属している間の婚姻のみ
※養子縁組は養父に属する
参考
【戦国北条家一族事典】【北条氏康とその時代】【後北条氏家臣団人名辞典】
●北条家五代当主と正妻
伊勢盛時 南陽院殿(不明:小笠原政清?)
北条氏綱 養珠院殿(不明:横井相模守?)
勝光院殿?(近衛尚通)
北条氏康 瑞渓院殿(
【古文書訳】北条氏康文書の「御前」の調査と、北条氏政・南殿(黄梅院)子息の出生順を再考察
北条氏康が妊娠中の某御前の病状、北条幻庵に報告、祈祷の依頼を出している書状がある。
この「御前」が誰なのかを検証、考察してみたい。
【原文】収録元(小田原市史1060号/戦国遺文1535)
一昨日者遂面上候、仍御前御煩、一昨日朝より豊前療治被申候、彼薬相当、自昨日熱気散候、殊夜中今朝者すきと能候、然ニ産之脈証自今朝出来、腰腹心も其分ニ候、無力御入り時分窮屈ニ候、雖然、今度之煩能時分得減気、不思
【古文書訳】北条氏照文書(天正十二年(八月十二日)【素晴らしい鷹を頂きたい】
北条氏照文書(天正十二年(八月十二日)より。
永禄期より蘆名氏への取次を任された北条氏照。
相手に対し細かく状況を説明し、配慮を示しつつも本音(本性)が窺える文。
*「無所残成于壚=田畠を掘り返して作物を全滅させる」の部分は、
高村不期さん(ツイッターアカウント:@buqimingri)よりご教示頂きました、ありがとうございます。
【原文】
大平致帰国付而、乍便啓達、抑其以来令絶音間、意外令
【松田憲秀と大石左馬助、北条氏照の大石家養子入りについての考察】
松田憲秀=大石左馬助か?についてのまとめと、氏照生母についての考察。
2021.5.29時点での見解です
【後北条氏家臣団人名辞典】や【後北条氏の武蔵支配と地域領主】に
「大石左馬助」という人物が、北条家筆頭家老「松田憲秀」であるという説が提唱されている。
大石といえば、北条氏照が養子に入った先として挙げられるだろう。
今回「松田憲秀」は「大石左馬助」なのか?北条(大石)氏照との関係性とは?
【古文書訳】北条氏照朱印状①【鯉を獲って来い!】
天正六年 五月晦日 大橋播磨守宛より。
氏照が鯉を獲るように指示したもの。
【北条氏照朱印状(大橋家文書)】
■(於カ)其地鯉を可為取候、為御進上之■間、
如此被仰出候、今日取候をハ、■(明カ)朝可上、明日、
昼取候をハ、明晩進上可申、いつれもいきなから進上■■(可致)者也、
平野如申可致之■(状)、■(仍)如件、
寅(天正六年) 五月晦日 大橋播磨守殿
→現代訳
【其の地にて鯉を獲るよう
【北条氏照は正室出か?生年・元服年齢の考察】
※2021.3.14時点での見解です
北条氏照の出生について、通説では【正室出】【1542年天文11年出生】が最有力となっているが、はたしてそうだろうか?
その疑問を、前回投降した内容に沿いつつ、瑞渓院所生と思われる子息や、同時代史料、一般書籍から引用・考察してみた。
(断定や批判では無く、あくまで素人の考察として受け止めて頂ければ幸いです)
【氏照の兄弟姉妹から考察してみる】
氏照の兄弟
【北条氏政+兄弟衆の生没年+元服+婚姻+第一子誕生時期まとめ】
※2020.2.24時の見解です
【北条氏政+兄弟衆の生没年+元服+婚姻+第一子誕生時期まとめ】
※※※
・一般書籍/論文等をかいつまんでまとめ+個人的妄想考察。
・引用/転用は自己責任でお願いいたします(される場合、
この記事のリンク記載もしくは引用RTをお願いいたします)
・信憑性が薄い説も記載しています。
・個人の趣味でまとめ+考察したものなので、大丈夫だと思いますが、
決して鵜呑みには
【北条氏規と正室・高源院殿の婚姻年齢時期を勝手に考察(妄想)してみる】
※2020.1.4時点での見解です
【北条氏規と正室・高源院殿の婚姻年齢時期を勝手に考察(妄想)してみる】
※注意※
・一般書籍及び論文に書かれているデーター+個人的妄想込のまとめ
・史料等は下記に書かれている物からの引用
・高源院殿の父・綱成正室である大頂院殿の年齢を考察するにあたり
(高源院殿母→綱成には妾は無く、大頂院殿であるという前提)
大頂院殿の母は氏綱正室・養珠院殿であるとする
(
【北条氏直と督姫【高祖の守り】】
「武辺咄聞書」からの意訳。
北条氏が降伏を決め、小田原城が開城した後、氏直は高野山へと行く事になった。督姫と別れる際、氏直は肌に身に着けていたお守りを取り出し「このお守りは【高祖の守り】といい、北条家代々の宝物である。五代の祖、早雲は伊豆より相模の地を攻めた際、勝栗を半分食し、もう残りの半分を鎧の引合に収め、出陣した。そしてその夜、見事小田原の城を攻め取る事が出来たのだ。その時残したもう半分の勝