【古文書訳】北条氏康文書の「御前」の調査と、北条氏政・南殿(黄梅院)子息の出生順を再考察


北条氏康が妊娠中の某御前の病状、北条幻庵に報告、祈祷の依頼を出している書状がある。
この「御前」が誰なのかを検証、考察してみたい。

【原文】収録元(小田原市史1060号/戦国遺文1535)

一昨日者遂面上候、仍御前御煩、一昨日朝より豊前療治被申候、彼薬相当、自昨日熱気散候、殊夜中今朝者すきと能候、然ニ産之脈証自今朝出来、腰腹心も其分ニ候、無力御入り時分窮屈ニ候、雖然、今度之煩能時分得減気、不思議仕合候、祈祷今日結願候、又誕生平安之祈念可申付候、箱根正恵坊学者之由候、其分候哉、然者、明日巳刻以前被下候様、
今夜中使を可被指上候、自此方者無案内候間、其方へ申候、恐々謹言、 
七月朔日 氏康拝  (切封墨引) 幻庵参 太清軒 

※戦国遺文では「幻庵参 太清軒」/禮(礼)紙上書/が氏康書状とは別の物かという記載アリ 

【意訳】

一昨日、やっと面会が出来ました。御前の病、一昨日朝より豊前が治療をし、彼の薬のおかげで昨日より熱が下がり、夜中から朝にかけてすっきりと良くなり、産の脈が朝から出て腰も腹もそのようだとの事。御入りになる頃は力も無く身動きも出来ませんでしたが、この度の病、丁度良い頃に元気になり、不思議な事です。
祈祷は今日が最後の日です。さらに誕生平安の祈念を申し付けます。箱根正恵坊が学者との事で、そのようにお願いできるでしょうか。明日午前十時以前にお願いできるよう、今夜中使いを差し上げて下さい。此方には伝手がないので、貴方へ申します。

【状況】
妊娠中(出産目前か)の某御前が熱を出し、豊前に治療をお願いした所、元気になり、丁度出産の兆候が出た。快癒の祈祷をお願いしていたが、今度は無事の出産を願い、箱根正恵坊に安産祈祷してもらうよう、依頼を氏康が幻庵に仲介を願ったもの。

【書状の年代検証】
氏康=太清軒の書状はこの書状を含めて、2通しか確認できず、氏康本人か確定出来ない物の、幻庵に依頼できる立場であり、文章の内容からしても氏康で断定出来ると思われる。

豊前=左京助か山城守かは不明だが、この次期に山城守が北条家中の治療に当たっており、古河公方(義氏)と北条家の連絡役や、知行地や屋敷を宛がわれていることから、山城守と断定。豊前山城守は1569(永禄12年)の三増峠合戦で討死。

氏康=太清軒とした前提で、氏政に家督を譲ったのが1559(永禄2年)末~
豊前=山城守とした前提で、治療に当たれるのが~1569(永禄12年)


上記を踏まえると、この書状は
【1560(永禄3年)~1569(永禄12年)】と確定出来る。

書状の内容を見るに、氏康が小田原に居る頃に出された物だと考えられるので、1561(永禄4年)の三田攻め時期は除外される。更に大雑把だが、1564(永禄7年)~足利義氏が鎌倉に移住している事、1566(永禄9年)~山城守の動向が頻出する事から、1564~1569年の確率が高いだろうか(捕捉だが、この時期に氏政親子が病快癒の礼を言っていた患者は、恐らくこの時期に大病を患っていた、氏照の可能性があるだろう)


【御前は誰か】
御前=当主正妻 と確定するなら、氏康正妻「瑞渓院殿」か氏政正妻「南殿(黄梅院)」。

一応、その他にも氏康(一門)関係者でこの前後の時期に出産の可能性がある人物を割り出してみる(出生や年齢等は一般書籍より引用)


芳春院殿(氏康妹/足利晴氏室) 
夫の晴氏が1560(永禄3年)に死去、翌年に芳春院殿が死去している。氏康からは御台と呼ばれている事から、可能性は低い。

長林院殿(氏康娘/太田氏資室)
夫の氏資は1567(永禄10年)に死去。1557(弘治3年)~1560(永禄3年)に婚姻として、一人娘の「小少将」は1558(永禄元年)~1566(永禄9年)生まれか。

蔵春院殿(氏康娘/今川氏真室)
長女の出生が1567(永禄10年)

新光院殿(氏康娘/北条氏繁室)
1559(永禄2年)氏勝出生 直重(永禄年間生まれ)

鶴松院殿(宗哲娘/吉良氏朝室)
1568(永禄11年)氏広出生。


上記を踏まえると、この中で可能性があるのは小田原に近い、氏繁室・新光院殿だろうか。
ただし、書状の「一昨日ようやく面会が出来た事と、一昨日から豊前が治療を開始した」という出来事と氏康への通達、祈祷の依頼がほぼ同時進行している事から、小田原城内での出来事と考えられる。

そうすると、瑞渓院殿(氏康室)、南殿(黄梅院/氏政室)で確定出来、年齢的にも出産が難しい瑞渓院殿ではなく、南殿だと確定できる。

氏政当人(父親)の変わり、もしくは不在の変わりに氏康が祈祷を依頼したものだろう。

以下、御前=南殿 とした上で時期と該当する子供を割り出してみる。


【北条氏政と南殿の子(私見)長幼順と出生年代】

近年の研究見解によると、氏直・源五郎・氏房が妾の子であるとされている。
確定/納得出来る要素が私見では得られない事、今回はこの検証は趣旨と逸れてしまうので、氏直・源五郎・氏房を南殿の子とした上で、書状の年代を出してみたい。

※国王=氏直・菊王=氏房とする。

長男・某 1555(弘治元年)※早世
長女・芳桂院殿 1557(弘治3年)
次女・竜寿院殿 1560(永禄3年)
次男・氏直(国王)1562(永禄5年)
三男・源五郎(国増)1564(永禄7年)
四男・氏房(菊王)1566(永禄9年)

出生の間隔も「一ないし二年空ける」というケースもこれなら問題が無い物となる。

この中で、出生年が確定しているのは三男「源五郎」のみで、
後は南殿の父親である武田信玄(晴信)の願文と、元服年齢、婚姻状況、他家資料等から割り出すものとなっている。

願文全て、南殿の出生に合わせて出しているかどうかは疑問だが、願文と対応している子供を私見と照らし合わせると、

・長女・芳桂院殿 1557(弘治3年)
・次女・竜寿院殿 1560(永禄3年)
・四男・氏房(菊王)1566(永禄9年)
になる。

:竜寿院殿出生は、は永禄3年か9年か?

1560(永禄3年)の子は、その後の記録に無い為、早世したという見解が出されているが、娘であれば記録に残らない可能性もあるし、竜寿院殿の婚姻時期が1577(天正5年)とするなら、18歳となり、適齢期ともいえるだろう。

:氏房の出生は永禄9年

氏房の年齢は天正8(1580年)にまだ未元服だった事から、永禄8年で当時16で未元服は遅いと思われ、15と仮定した事による。その為、永禄9年出生が濃厚となる。


【総論:書状に対応する、氏政と南殿の子は誰か】

総合し、対応する人物は、

次女・竜寿院殿 1560(永禄3年)
次男・氏直(国王)1562(永禄5年)
三男・源五郎(国増)1564(永禄7年)
四男・氏房(菊王)1566(永禄9年)

なおかつ、豊前山城守の動向と氏康書状「七月朔日」と永禄3年・晴信願文の「今茲秋」~と出された日付「七月吉日」を踏まえると、竜寿院殿は七月には産まれておらず、
三男・源五郎(国増)1564(永禄7年)
四男・氏房(菊王)1566(永禄9年)
で、どちらかといえば1566年(永禄9年)の氏房出生が可能性としては高いだろうか。

もし氏直の出生年齢が定説より若くなり、氏直、源五郎いずれか(もしくは両方)が、南殿の出ではなかった場合、未だ南殿から男子が誕生していなかった氏康が心配して祈祷を出したとも考えられるだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?