【北条氏規と正室・高源院殿の婚姻年齢時期を勝手に考察(妄想)してみる】

※2020.1.4時点での見解です

【北条氏規と正室・高源院殿の婚姻年齢時期を勝手に考察(妄想)してみる】

※注意※
・一般書籍及び論文に書かれているデーター+個人的妄想込のまとめ
・史料等は下記に書かれている物からの引用
・高源院殿の父・綱成正室である大頂院殿の年齢を考察するにあたり
(高源院殿母→綱成には妾は無く、大頂院殿であるという前提)
大頂院殿の母は氏綱正室・養珠院殿であるとする
(※実際には氏綱・綱成にも妾は居たかもしれないだろうな…
という見解も一応ここで明示しておきます)
・伊豆之若子=賀永=氏規であるという前提
・有名な義元の書状は年代が特定できない為、氏規妻帯説が伺える同書状の
「かみ」は恐らく寿桂尼の事を指していると個人的には思われるので、考察からは省くことにした
・が、氏規の今川家での扱い状況や元服状況・家康との関係をみるに、
妻帯説が完全には否定できない/居たとしても離縁はしていないのでは?という妄想


*年号・年齢など含む、間違いやご意見等ございましたらDM等でご連絡ください。

【参考:引用文献/論文】
・戦国北条家一族事典
・北条氏康の妻 瑞渓院 (中世から近世へ)
・戦国北条五代
・北条氏康の子供たち
・新横須賀市史 資料編 古代・中世Ⅱ
・後北条氏家臣団人名辞典
・戦国時代年表 後北条氏編
・「天文~永禄期の北条氏規について-本光院殿菩提者となるまで-」


【北条氏規おおまか年表】
・1545年(天文十四年)生
・1552年(天文二十一年)八歳で駿府・今川家へ
・1556年(弘治二年・十月二日)寿桂尼(大方之孫)記述 湯治へ
・1556年(弘治二年・十月二十八日)山科言継が寿桂尼と対面
          氏規(※賀永(ガイエイ))に太刀・勅筆の短冊三枚を贈る
・1556年(弘治二年・十月二十八日)伊豆之若子賀永 祝言
・1557年(弘治三年・一月二日)伊豆之若子賀永 宴に列席


【氏規は、いつ頃小田原へ帰還したのか?】

妹・早川殿の婚姻が1554年(天文二十三年・七月)だが、
氏真からの助五郎(氏規)宛知行がなされている事から、
氏規は「1562年(永禄五年・六月二十三日)」まで駿府に居た事が分かっている。

氏規発給の初見朱印状は、「1564年(永禄七年・六月八日)」。
この為、【1564年(永禄七年・五月)】までに小田原に帰還したと考えられる。


【氏規正室・高源院殿の年齢(婚姻年齢)を考察/妄想してみる】

高源院殿の父は「北条綱成」母は綱成の妾の存在が見当たらない事から、
北条氏綱の娘「大頂院殿」とした上で、考察してみる。

大頂院殿は1558年に没している事が判明しているが、生年は記載が無い。
兄弟・妹の中で、生年が判明している人物をまとめると、

氏康・1515年
為昌・1520年
氏尭・1522年
ちよ・1526年

いずれも氏綱正室・養珠院(生年不明・1527年没)の出生だとすると、
可能性的には1517~18、24年が考えられる。生年が不明の養珠院出生子は他にもいる為、
1517~18が妥当と思われる。

夫となる北条綱成は1515年生まれ、綱成との間に生まれる氏繁が1536年生まれの為、
1533年~35年に綱成と婚姻したとして、婚姻・出産適齢期的に16~17と考察できる。


【大頂院殿はいつ、高源院殿を産んだのか?】

大頂院殿の出生を1517-18と仮定した上で、判明している1558年没として計算すると
「41-2」で没した事になる。
氏繁以外に、一男・二女の存在があるが生没年が判明しているのは氏繁のみである。

高源院殿が次女であるという前提で、

①大頂院殿が産めるであろう年齢を34~5で産んだ場合は、
1551年前後に高源院殿が産まれたという仮説が成り立つ。

②不謹慎だが、高齢出産による死亡の場合は41-2で高源院殿が誕生となり、
1557~8年に高源院殿が産まれたという仮説が成り立つ。


【氏規と高源院殿はいつ婚姻したのか?】

氏規は1564年に小田原に帰還しているので、必然的に1564年以降。
1566年(永禄九年)に玉縄城主であった、北条為昌の菩提者の地位を
綱成から継承している事、翌年1567年(永禄十年)に三浦郡支配を引き継いでいる事から、
1565~1566年前後に婚姻しているとみられる。

1566年としてこの時、氏規22歳。上記の①と②で当てはめるなら、

①氏規22歳 高源院殿16歳
②氏規22歳 高源院殿8-9歳

という2つのケースに絞れると思う。


【氏規と高源院殿の嫡子・氏盛について】

氏盛の生誕は1577年と判明しているので、

①高源院殿27歳前後で出産
②高源院殿19歳前後で出産

出産適齢期的には①が遅いくらい、②は平均的に妥当と思われる。
氏盛以降も三男三女が氏規の子として挙げられているので、
子供の数的にも年齢的には②の可能性が高い。
だが、氏規には1595年時点で妾の存在も確認されるので、
全員が高源院殿の子ではない可能性がある事、
①の高源院殿の年齢を踏まえての妾の存在とも考えられる。
どちらにしても、高源院殿が長命であるので(没・70歳前後)健康体だったと思われ、
高齢出産・多産の可能性も非常に高いであろうことも、明記しておく。


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@azsinxx
あづ🍨


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