【北条氏照は正室出か?生年・元服年齢の考察】

※2021.3.14時点での見解です

北条氏照の出生について、通説では【正室出】【1542年天文11年出生】が最有力となっているが、はたしてそうだろうか?

その疑問を、前回投降した内容に沿いつつ、瑞渓院所生と思われる子息や、同時代史料、一般書籍から引用・考察してみた。
(断定や批判では無く、あくまで素人の考察として受け止めて頂ければ幸いです)

【氏照の兄弟姉妹から考察してみる】


氏照の兄弟・近しい年代の姉妹の元服・生年を考察すると、
確定しているのは現状氏規のみで1545(天文14年)。
その他前後の子息については、下記になるだろう。


●瑞渓院(1518年(永正15年)生)の婚姻を【19歳・天文5年(1536年)】とした上での子息出生年。


【天用院】 1552年(天文21年)死去。
過去帳において、嫡男・時期当主に与えられる「新九郎」表記がある事から、瑞渓院出の嫡男である事は確定。
14-5で元服として、16で死去と仮定した上で逆算すると【1537(天文6)~1538(天文7)】出生が妥当か。

【氏政】 
天用院が産まれて一年間を空けると想定。【1539(天文8)-1540(天文9)】
元服年齢との兼ね合い的にも、どちらかだと思われる。
通説では1539年が有力となっている。元服後確認が取れる天文23年前に元服したとして、
1553年(天文22年)元服。新九郎初見が1555年12月。
14-15で元服したとなると、どちらも想定範囲内だろう。

【氏規】
1545年(天文14年)生まれで、瑞渓院所生である事は同時代史料から確定。
元服年齢を考察すると、初見の朱印状が1564年(永禄7年6月)
義元からの書状(助五郎表記あり)が1560年(永禄3年前)として、
1558~9年で14、15歳で元服なら年齢的にも合うだろう。
尚、弘治元年2~3(1556-57)年の「言継卿記」にある、
伊豆之若子賀永=氏規という可能性もあるが、「大方之孫相州北条次男」と氏規を指しているので、
その表記を違う物(相州→伊豆)にする事は不自然であり、仮に賀永=氏規として、祝言=元服だった場合、12歳で元服と比較的早い事から、可能性は低いと思われる。


【新光院(七曲)殿】→長女の可能性が高い。
正室出かどうか、氏繁嫡男とされる氏舜が新光院殿の子であるかによっても
婚姻時期や生年が左右されるため、ここでは【新光院殿が正室所生】【嫡男・氏舜も新光院殿の子】
である事を前提にして考察してみる。
天用院殿と氏政が誕生した事で、側室が置かれた可能性もあるが、
氏繁との関係性も踏まえると正室出の女性が選ばれるだろうか。


唯一判明しているのが次男となされる氏勝出生の【1559年(永禄2年)】よって、1558年(永禄元年)以前に婚姻は確定している。
嫡男の氏舜が出生したのが1556-7年(弘治2-3年)と仮定してみると、
1554~5年(天文23ー弘治元年)に15歳位で氏繁に嫁いだとして、出生は1540年前後となる。
その場合、氏政と同年で側室出の可能性、もしくは正室所生の【1540(天文9)-1541(天文10)】が考えられるだろう。


早川殿 【1547年(天文16年)】

瑞渓院殿所生をまとめる。

①-②の組み合わせは何処に軸を置くかで相互変動あり


瑞渓院殿婚姻【天文5年(1536年)】


天用院 【①1537(天文6) ②1538(天文7)】嫡男確定
氏政【①1539(天文8) ②1540(天文9)】長兄の死により当主「新九郎」となるので正室出確定
新光院殿【①1540(天文9) ②1541(天文10)】氏繁との婚姻状況からして正室出の可能性が高い
氏規【1545(天文14年)】正室出確定
早川殿【1547(天文16年)】大名同士の婚姻から正室出確定か

その上で、初出文書等から北条氏照の生年と元服年齢を再考・構築してみる。


【現在の通説(一般書籍等)】

氏照の生年で通説では3つ
①天文9年(1540年)
②天文10年(1541年)
③天文11年(1542年)

通説とされている、氏政の出生(天文8年)と兼ね合いが取れない事、氏政と同母の場合は①、②とも難しい為、③が一番有力とされている。
また、③が有力視されている理由としては菩提寺「宗関寺」の寺記(没年齢49からの逆算)となっている点。
ただ、典拠が小田原編年録(1812年)である事から、この時点で③も要検討だと思われる。

氏照の元服年齢だが、藤菊丸が氏照の幼名としている上で、

・弘治元年(1555年)藤菊丸足利義氏の元服式参加
・弘治2年(1556年)藤菊丸が大石所領とされる、鈴鹿明神社の棟札に記載されている
・③の出生年を確定した上で、元服年齢を1556年-57年にしている(この場合15-16歳となる)

【同時代史料(文書等)から考察してみる(※は要検討部分アリ)】

①氏照印判状「如意成就」初出→永禄2年1559年11/10 三島神社文書
②宗哲覚書→永禄3年(1560年) ※1
③妙光院宛氏照書状→永禄3~4年※2 
④氏照初見(花押)文書→永禄4年1561年3/2 高尾山薬王院文書


※1の「けん三との」が氏照と比定されている点だが、
当時の氏照の政治(立場)状況・宗哲との関係からして別の人間の可能性がある
※2 写しかつ、収録元が八王子千人同心が著作に関わっている新編武蔵風土記稿であり、
花押が養父の大石綱周と似ている事から、氏照と大石氏(八王子)との関係性を誇張したものと思われる

上記を踏まえて、氏照が正室出として誕生可能かどうかを考察する。


【瑞渓院殿子息出生年から考察】
産まれてから1年経たないと難しい事から、
1540-1542年は難しく、正室出となれば1543年以降となるだろう。


【同時代史料のみで考察】
元服が初出の印判状~花押初出前となり、1558年に14-15で元服だとすると、1544-45年生となり、氏規より1つ上、もしくは同年となる。
その場合は正室出ではなく、側室出の可能性が強まる。
氏照が支配を始めるにあたり、重要な戦である三田攻め(1560~61年)を初陣とするなら、初陣年齢とも状況が合う。

よって、通説となっている氏照が正室出の可能性、出生年齢等は再検討の余地があると思われる。
上記に挙げた点以外で正室出とされる点の現状・側室か等の考察や、側室出の場合は誰が母親として適当か(現状、後の大石家との絡みから、松田氏が有力候補か)等については次回また取り上げようと思う。


【参考】
清瀬市史3・資料編 古代・中世
北条氏康の妻・瑞渓院
戦国北条家一族事典
北条氏康の子供たち
天文~永禄期の北条氏規について : 本光院殿菩提者となるまで
埼玉県史料叢書12
小田原編年録内・北条系図(コピー)
北条家過去帳・北条家系図(平塚市史付録)
他、講演会レジュメ


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