【北条氏政+兄弟衆の生没年+元服+婚姻+第一子誕生時期まとめ】

※2020.2.24時の見解です

【北条氏政+兄弟衆の生没年+元服+婚姻+第一子誕生時期まとめ】

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・一般書籍/論文等をかいつまんでまとめ+個人的妄想考察。
・引用/転用は自己責任でお願いいたします(される場合、
この記事のリンク記載もしくは引用RTをお願いいたします)
・信憑性が薄い説も記載しています。
・個人の趣味でまとめ+考察したものなので、大丈夫だと思いますが、
決して鵜呑みにはなさらないようお願いいたします。
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●北条氏政と黄梅院(南殿)夫婦●


【生没年】
北条氏政→天文八(1539)~九(1540)年/天正十八(1590)年没
黄梅院(南殿)
天文十二年(1543年)生/永禄十二(1569)年没 


【元服】
天文二十二年(1553年)
・兄「天用院」の死去が天文二十一(1552)年
・元服後の初見史料→「天文二十三(1554)年六月」
・仮名「新九郎」初見→「天文二十四(1555)年十二月」


【婚姻】
天文二十三(1554)年十二月(氏政→15~16歳/黄梅院→12歳)


【第一子】
弘治元年(1555)十一月

●北条氏政と鳳翔院●


元亀二(1571)年 本城の局による戦勝祈願(御せんさま(瑞渓院)の記述)
天正三(1575)年 瑞渓院が大病を患う
天正十(1582)年「相州御道者日記」御せんさまの記述=鳳翔院殿と仮定

天正三(1575)年~天正十(1582)年に婚姻か。

〇「鳳翔院殿」は氏政正室では無いのではないか?
伝心庵過去帳の信憑性の有無が判断できない為、推測でしかないが、
瑞渓院が内政を仕切れていたとすれば、氏政が正室を娶る可能性は低いと思われる事、
瑞渓院と同日に自害しており、法名に「宗」がつく事から、
北条家の中でも血縁内もしくは近い存在かつ、瑞渓院と非常に親しい間柄(主従)で、
子息の内の母(氏康側室=氏照が妾腹出と仮定+氏照の名前が瑞渓院殿の要望
(今川氏輝を受け継いだものと仮定)だとしたら、氏照の北条家内立場的に氏照の母で妾→側室に
上がれる立場であり、瑞渓院と近しい存在(今川家から随行した侍女)だとも想像できる。
(ただし「宗」がつく法則性については確証が無いという事、鳳翔院殿が氏政室でも
この法則が当てはまる&氏政の他の側室の可能性もある)
あくまで、妄想考察として記載しておく。


●北条氏照と大石比佐夫婦●


【生没年】
北条氏照→天文十一(1542)年生/天正十八(1590)年没
大石比佐→天文十六(1547)年生/天正十八(1590)年没


【元服】
弘治元年(1556(5/2))~永禄三年(1559(11/10))の間に元服か。
※年齢的に1556-1557だと思われる。
(朱印状発行の花押初見が永禄四年(1561)年三月の為、1561年前の元服は確定)

・弘治二(1556)年五月に大石所領「鈴鹿明神社」再興=幼名「藤菊丸」
・印「如意成就」初見→永禄二(1559)年11月より領国支配開始

※弘治三(1557)年三月に狩野泰光・庄式部小輔の二名の文書がある為、この時期まだ
氏照は小田原に居たと思われる。


【婚姻】
永禄二(1559)年11月前後に婚姻(氏照→18歳/比佐→13歳)


【第一子】
霊照院殿
・元亀元(1570)年相模国下溝村日営造営(新編相模風土記稿の記述※要検討)
・夫の「山中頼元」が天正十四(1586)年独立して小田原城配属になっている為、それ以前の婚姻か。
・霊照院殿死去が天正十六(1588)年の為、上記と合わせると氏照と比佐が婚姻してから大分経ってから出生の可能性もある。


●北条氏規と高源院夫婦●


【生没年】
北条氏規→天文十四(1545)年生/慶長五(1600)年没
高源院殿→天文二十(1551)年生/寛永五(1628)年没
もしくは、弘治三(1557)~永禄元(1557)年生/寛永五(1628)年没

※https://privatter.net/p/5352125を参照。


【元服】
弘治二(1556)年~永禄二(1559)年


【婚姻】
永禄八(1565)年~永禄九(1566)年(氏規21~22歳/高源院→16歳もしくは8-9歳)


【第一子】
北条氏盛→天正五(1577)年生


●藤田(北条)氏邦と藤田大福夫婦●


【生没年】
藤田(北条)氏邦→天文十七(1548)年生/慶長二(1597)年没
藤田大福→天文十(1541)年生/文禄二(1593)年没


【元服】
・永禄五(1562)年十月~永禄七(1564)年六月
(幼名・乙千代の終見~新太郎初見)
年齢的に、永禄五(1562)年末~永禄六(1563)年元服か


【婚姻】
永禄五(1562)年末~永禄七(1564)年六月前(氏邦→15~17歳/大福→22~24歳)


【第一子】
東国丸→天正十一(1583)年死去。
法名が「童子」であることから、14以下と推定して、
1570年前の生まれか。長子で以降も子供が三人いる事、
大福御前の出産年齢的に厳しくなる為、大福御前の出生年もしくは、
子息の数や実在には再考が必要か。


●参考●
・戦国北条家一族事典
・北条氏康の妻 瑞渓院 (中世から近世へ)
・戦国北条五代
・北条氏康の子供たち
・後北条氏家臣団人名辞典
・戦国時代年表 後北条氏編
・「天文~永禄期の北条氏規について-本光院殿菩提者となるまで-」
・八王子城主・北条氏照―氏照文書からみた関東の戦国
・戦国史研究74号


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