【松田憲秀と大石左馬助、北条氏照の大石家養子入りについての考察】
松田憲秀=大石左馬助か?についてのまとめと、氏照生母についての考察。
2021.5.29時点での見解です
【後北条氏家臣団人名辞典】や【後北条氏の武蔵支配と地域領主】に
「大石左馬助」という人物が、北条家筆頭家老「松田憲秀」であるという説が提唱されている。
大石といえば、北条氏照が養子に入った先として挙げられるだろう。
今回「松田憲秀」は「大石左馬助」なのか?北条(大石)氏照との関係性とは?について、手持ちの資料まとめと、そこから少しだけ私見を書かせて頂こうと思う。
尚、調査のまとめ(考察)という体で出させて頂いているので、無責任を承知で、明確な結論は提示していない事をご了承願いたい。
【大石左馬助=松田憲秀とされている根拠】
大石左馬助が史料上に出てくるのは、氏照家臣の「布施」「横地」と共に出している、永禄四年三月六日【氏照奉行人連署判物(石川文書)】一通のみで、他にこの判物を元に写された文書が一通存在している。
この大石左馬助が松田憲秀と比定されている根拠については、官途名【左馬助】を当時、松田憲秀が名乗っている事、大石系図のみでの確認になるが、大石家歴代で【左馬助】を名乗った人物が居ない事から、他家から大石家入りしたと考えられる事、の二点だと思われる。
【大石高仲=〝左馬助〟高仲か=松田憲秀か】
「高仲」という人間が永禄六年六月十八日「虎柏神社文書」にて社領を安堵しており、前記以外に提唱されている(清瀬市史等)説として、高仲=大石左馬助という物がある。
理由としては、前述の大石左馬助の花押と型が同じである事が挙げられている。
ただし、これしか根拠が無い事(素人目線だが、花押比較をした際同じ型だという確証は得られなかったので、詳しい方のご教示を待ちたい)実際、高仲としか記載が無いので、更に深い検討が必要だと思われる。
高仲という名前のみについて挙げるなら「駿河守系二代目 大石憲仲」の子として「大石高仲」がおり、享楽五年阿弥陀三尊立像を造立、胎内名に「大石大学助」「源高仲」とあり、同名から大石家との関係性が感じられる。また、高仲=憲秀(もしくは他の松田氏)かという部分も、虎柏神社が三田領であり、松田家の支配領に三田領があった事、三田家の指南もしていた事からも関係性が無いとは言いきれ無い。
【松田憲秀と大石家を取り巻く動向を年代順に追ってみる】
まず、北条家と大石家の動向から。
弘治元年(1555年)四月(?)
大石家当主・大石綱周が小田原へ訪れる。
※ただし、同時代史料ではない、異本小田原記の記述となる
弘治元年(1555年)十一月二十二日
北条藤菊丸が足利義氏の元服式に参加
弘治二年(1556年)五月二日
北条藤菊丸、鈴鹿明神社再建の棟札に大旦那として見える
弘治三年(1557年)
七月~十一月まで、氏康が大石領の支配に関与
永禄二年(1559年)十一月十日
氏照朱印状初見
永禄三年(1561年)三月二日
氏照花押初見
そして、松田憲秀の動向。
永禄元年(1558年)四月十日
義氏の鶴岡八幡宮参詣、式に参加する
同年二十八日、小田原で行われた宴会にも参加
永禄二年(1559年)二月十二日
「北条家所領役帳」で宗哲に次ぐ所領高順(二番目)
永禄七年(1564年)五月十六日
原胤貞に条書を与える
さらに、大石左馬助の動向。
永禄四年(1561念)三月六日
【氏照奉行人連署判物(石川文書)】
上記を踏まえると、松田憲秀としての活動時期1559年2月~1564年が空いており、
その間1561年に大石左馬助が現れるという事になる。
これだけでは決定打にはならないが、大石左馬助=松田憲秀という路線で仮説を立ててみる。
更に氏照の動向を追加してみると、以前考察した氏照の生年・元服時期は、
・生年→1544~1545
・元服→1558
となり、氏照の元服前に氏康の直接支配がなされていた状況の整合性が多少取れる。
大石左馬助が活動していた1561年は、北条氏から離反した三田氏との戦いの重要な時期であり、元服はしていても、まだ初陣も果たしていない上に支配に不安定な氏照を補佐する為、布施や横地と共に氏照に付けられたと考えられる(氏邦や氏規と異なり、氏照に氏康側近が多目に付けられた理由の一つだろうか)
辻褄合わせとなったが、大石左馬助=松田憲秀と仮定した上で、
何故彼が「大石」を名乗る事になったのかを考察してみるが、その前に、
【何故氏照が大石家を継ぐ事になったか】
についてを考察してみたい。
大石家に氏照が養子となった理由については、
・大石家当主である綱周に男子が居なかった(或いは幼少であった)
・武蔵進出、支配において北条家が大石家を取り込む必要があった
事から、両者の思惑が一致した事もあり、北条家から【正室出】の養子が欲しいと、大石家側から打診があったという説が近年、提唱されている。
しかし、大石家は本家以外にも大石信濃守が存在している事、綱周が元々大石総領家の出では無く、駿河守家から養子に入った説もある事から、大石家から北条家に養子を求めたかどうか、仮に求めてきたとしても大石三家一族の総意であったかどうかについては、検討の余地があると思う。
実際、北条家から養子が出た結果にはなっているので、上記の疑問は別にして、仮に大石家から正室出の男子を求めてきた場合、北条家側で出せる人物は氏規のみとなり(氏照が側室出の可能性については、前リンク先参照)現時点では氏政の後継ぎ候補であり、今川家との婚姻状況が重なって天秤にかけた場合、北条家からとしては他家の養子として氏規を出す事は出来ず、氏照を瑞渓院の子として養子縁組させる事で(正室出の根拠ともされている「氏輝」と同音の名前が付けられた事も関係しているだろうか)大石家の要望に沿った形になったと考えられる。
話をここで元に戻し、松田憲秀が大石左馬助として大石家に入った理由を考察すると、氏照が正室出として大石家に入る事になったものの、大石家の条件を完全に飲めなかった北条家側から、筆頭家老出の憲秀も氏照の支配が安定するまでという条件で、大石家に差し出したか、三田氏の動向も踏まえて、関係の深い松田氏が選ばれたと考えられる。
【松田氏と氏照の関係性を考える】
氏照の生母が側室、と仮説を立てた上で、その生母は誰かという事、松田氏の関係性を提示してみたい。
氏照の生年や長幼順からして、氏康の最初の側室であっただろう。
最初の側室で瑞渓院の強い要望(選定)という事もあり、選ばれる可能性が
【松田家・遠山家・大道寺家】のいわゆる、北条家の筆頭家老の一族の可能性が高い(松田家が三家の中で上)
松田氏と仮定した上で考えると、憲秀が一族の北条宗哲に次ぐ所領高順である事、氏照の意向で、後に松田家から大石家に養子が入った事(照基)も関係しているだろうか。
ただし、松田氏の系図には該当する女性が見当たらない事も併せて記載しておく。
(憲秀が氏政とほぼ同年代という堀尾古記による提唱及び、母親の北条綱成妹の年代を考えると、父・盛秀の妹がいればその年代の娘か、親族の松田氏だろうか。あくまで仮説である)
【参考】
清瀬市史3・資料編 古代・中世
戦国北条家一族事典
北条氏康の子供たち
武蔵大石氏
大石氏の研究
後北条氏の武蔵支配と地域領主
北条氏康の家臣団
戦国時代年表後北条氏編
北条氏照(中世関東武士の研究)