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目には見えない力

何か特別なことをしているわけではないのに、ふと進む道が明確になったり、どこか救われるような体験をするなど、不思議な縁やシンクロニシティを感じることはないでしょうか。

例えば、大きな壁にぶつかり、八方塞がりのような状況に直面しても、絶妙なタイミングで救われる。あるいは、大きな問題だと思い込んでいたことが、誰かの一言で、些細なことに感じられ、ほっと胸を撫でおろす、ということもあるかもしれません。

ときに、人生を左右するような、自らを後押しする力。意図しないときにやってくる圧倒的な力を、わたしは「運命感」と呼んでいます。精神世界を信じようが信じまいが、これは誰にでも備わっているもので、人生における転換期には、こうした力が強く働いているのではないかと感じます。

運命を左右するカルマ

運命を左右するような力には、カルマなど、これまで積み重ねてきた言動によるものも大きく影響し、その結果として救われるような体験をすることもありますが、立ち止まるような出来事が起こることもあるでしょう。

そして、カルマから生じた言動によって、また新たなカルマの種が生まれます。それを意識下に沈む潜在印象、サムスカーラ(行)と言います。忘れてしまった昔の出来事でも、意識の奥深くには記憶として刻まれ、やがてサムスカーラも行為の結果として現れる、と考えるのがヨーガの教えです。

現実世界で体験していることは、多義的な因果関係の上で起きているので、どのカルマ、あるいはサムスカーラが、どの体験をもたらしているのかを的確に知ることは、ほぼ不可能と言えます。それだけ、今経験していることの背景には、深くて複雑な関係が折り重なっているのです。

運命とは、主体不在の流れ

ヨーガ的な考え方の面白いところは、良いことであっても、過剰な反応をすれば、結果に対する期待という執着を生み、新たなカルマをつくると捉える点です。だからこそ、今ここに集中して、目の前のことを淡々とやることが大事であり、アーサナの目的は、そこにあるわけです。

運命には、本来、いいも悪いもないわけですから、導かれるべきところに導かれ、進むべきところに後押しされるという、「主体」不在の(自我を超えた)流れこそが、人生の本質ではないか、ということを、ここ最近、改めて、強く感じるようになりました。

そして、やはり、立ち止まる時間というのが大切なのだと思います。
立ち止まることで、握りしめていたものから手を離しやすくなり、不要なものを削ぎ落とすことの大切さが見えてくるからです。この結果として、心静かになったとき、穏やかに道がひらかれ、本来やるべきことが見えてくる。本当に大切なものが腑に落ちる。自分の居場所が見つかり安堵する。

いっぽう、苦しい状況にいてもなお立ち止まらなければ、事態は一層複雑になり、強制的に歩みを止められてしまう、というのもまた、運命の法則といえるかもしれません。

複雑に物事を考えているときというのは、運命の流れとは真逆の方向に進んでいるといえます。複雑な思考は、結果への執着によるものかもしれません。その場合、大抵、苦しみを伴うものです。いっぽう流れに身を委ねられるとき、苦しみはスッと消えていくから不思議です。

思考のループから自分を解放する

昨年からはじめたフリーダイビングは、そのことをダイレクトに教えてくれます。いい記録を出したいという期待は身体を硬直させ、息を止めることへの恐怖心もまた身体を硬直させます。海へ潜るたびに向き合わされるのは、自分の流れを阻害する余計な思考(結果への期待や恐怖への囚われ)。この執着している自分を捉えて、受け入れ、心を落ち着かせることを積み重ねることでしか、思考のループ(無意識の反応)から自分を解放することはできません。

そして解放した瞬間に、次の段階へと進む流れ、物事の奥深くへと潜る段階に導かれる。同時に、苦しみというのは、進むべき流れに乗れていないことの反応だということを、フリーダイビングをとおして改めて学んでいます。

人生という海では、苦しみも極まれば、お手上げ状態となり、その時、ふっと流れが変わるというのも、よくあることです。

大きな問題が起こる前に気づくのか、あるいはお手上げ状態になって気づくのか、その差はあれ、結局は運命に争うことはできない。それも人の宿命なのかもしれません。

世界的にも、社会的にも、個人的にも大きな変換期にいる今、見えない力に委ねることの大切さを益々実感しています。


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