見出し画像

ループの幸福

 1093322回目の9月8日がやってきた。

 僕は朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ベッドから起き上がった。
 毎日、目覚めて最初にやるのは「今日が何日目か」の確認だ。なにぶん、ループに入ってこの方、日を跨いで持ち越せるのが自分の記憶だけなものだから、数え間違いをしないよう気をつけなければならない。
 今日も、満足の行く1日を過ごしたいと思う。

 ベッドを降り、スリッパを履き、大きく伸びをし、時刻は現在午前7時5分だ。いろいろ試したが、このくらいの時間にベッドを出るのが一番終日体調が良い。
 三十を過ぎるとちょっとしたことで身体の具合が悪くなるので、コントロールを確実にするためにも細かく時間を守らなければならない。もちろん時間だけではなく、一つ一つの行動も大切だ。

 朝食はコーンフレーク。パンでもごはんでもいけない。ミルクを適量注ぎ、ふやける前にいただく。コーヒーも豆の量を間違えないよう気をつけ、きちんと手回しミルで挽き、慎重に湯を注いで淹れる。
 今日という日を完璧に過ごすために、僕はありとあらゆる可能性を試して、ここにたどり着いたのだ。

 髭を剃る。実は電動髭剃りの刃が少しだけ悪くなっていて、剃り方を間違えるとあごに怪我をしてしまう。だから十分注意しなければならない。普通だったら替刃を買ってきて済ませるところだが、残念ながらループの中だとそうもいかない。
 歯を磨き、顔を洗い、トイレを済まし、スーツを着込み、カバンを持ち、忘れ物がないか確認し(もう100万回以上も同じことを繰り返しているのだからそうそう忘れようがないのだが、験担ぎのようなものだ)、そしてようやく、僕は家を出て会社へ向かう。

 百万回も同じ満員電車に乗っていると、攻略法も見えてくる。どのあたりの車両に行けば比較的余裕があるか。乗っている面々が不快ではないか。今日も前から3番目の車両の2つ目のドアから乗車して、わりかし快適な通勤を楽しんだ。この場所なら文庫本を開く余裕すらあるのだ。

 そう、話はそれるが、本というものはループ生活にはうってつけである。何しろどこから読み始めるかは僕の自由なのだから、日を重ねるほどたくさん読むことができるのだ。
 それを悟った最初の頃、300回は会社をさぼり、家で本を読むという選択をし、家の積読本を全て読破した。

 さらにその後は、電子書籍を買っては読み続ける、を繰り返し、興味のある本はほとんど読み尽くしてしまった。さらには映画も、配信のレンタルで手当たり次第に観賞し続けた。
 語学の学習にも向いている。ループに入って以来、三ヶ国語は覚えた。残念なのは話す機会はほぼゼロに近く、周囲の人に褒めてもらえるチャンスも皆無、というところだろうか。原書で本を読めたり、映画を字幕なしで観られる、ぐらいのメリットしかないので、これ以上勉強する気にはなれなかった。

 ちなみにループ生活に不向きなのがドラマとゲームである。ドラマは9月8日以降の放送分が一切見られないのでストレスがたまるばかりだ。ゲームに至っては、1日24時間以上プレイできない以上、かなり短い作品以外はクリアできない。だがまあ、これぐらいの不自由は許容すべきだろう。

 話を戻そう。電車の中のどこに誰がいるか、何が起きるかも既に把握している。スリや痴漢がいつ動くかも全てわかっているから、被害者を助けることも簡単だ。実際、今まで何度もそれを試してみた。まるで勇者にでもなった気がして悪くない。けれどそれなりに手間なので、今日はやめておくことにした。
 電車を降り、会社へ向かう。今、この道を歩いている人々の全てを、僕は記憶している。過去に無数に繰り返してきたループの間、それぞれの人に試しに声をかけてみたことがあるからだ。この道だけでなく、会社の中でも、帰りに立ち寄る本屋の中でも、どこに誰がいて何をしているのかを把握している。意味などない。ただ繰り返していると、自ずとそうなっていただけのことだ。

 途中、コンビニに一旦寄って缶コーヒーを飲んでから、特定の時間に特定の道を歩いていると、背後から声をかけられる。これも何万回も繰り返してきたバリエーションの中のひとつだ。

「天堂さん。おはようございます」

 声の主は、同僚の川窪さんだ。
 僕も彼女も今の会社へは転職組で、先輩後輩の観念が薄いため、厳密に言えば彼女の方が若干歳下なのだが、お互い敬語で会話している。

「そうだ。この間お話しした、あの映画もう観ました?」

 もちろん、この日に彼女が何を喋るかも、全てわかっている。映画の話か、最近結婚した兄の話か、最近通い始めたジムの話だ。その辺の話題が、僕の表情の違いを受けて順を変えながら登場するだけである。次に話題がどんな展開をするかまで既にわかりきっているから、会話に緊張感は一切ない。
 僕は、今回は親しく応答するパターンでいくことに決めた。

「実はまだ観てないんです。面白かったですか?」

「まあまあって感じでした。あの、プロットはヒッチコックあたりにありそうなすごくシンプルなサスペンス なんですけど、主演のあの人、何て名前でしたっけ、この前ヒーロー役やってたあの人の演技がすごくよかったですね。こんな芝居できるんだって意外で」

 僕は興味ありそうな表情で頷くよう、気をつけている。彼女は古典的な映画から最近のハリウッド大作まで満遍なく観ているので、割りと映画に詳しくて意見も面白いのだが、さすがに10万回近く同じ流れで話を繰り返されると、うっかりすると聞き流してしまいそうになる。

   *     *

 僕が入り込んでいるループは、非常にわかりやすいものだ。同じ9月8日を、とにかく何度も何度も繰り返す。寝て起きたらまた同じ朝になっているし、無理やり完徹しようとしても必ず眠ってしまう。

 どうしてこんなことになったのかは自分なりに色々と考えたが、全然心当たりがない。原因は全く不明だ。何か特別なことをした覚えはないのだが、突然入り込んで出られなくなった。
 真相を解き明かすため勉強でもしてみるかと思って電子書籍で買える物理学の本を斜め読んでみたが、思いっきり文系の僕の頭脳で理解できることはさしてなかった。

 手当たり次第に観たループものの海外SF映画に出てきたセリフ、「時空連続体の間隙にはまり込んでしまう」という言い回しだけは、印象に残っていて、これが一番僕の感覚に近い気がしている。
 道に落としたコインが、アスファルトの割れ目のようなところにぽろりと落ち込んでしまって取れなくなった。そんな感じだ。本当ならスムーズに連続しているはずの道、ほぼすべての人々はその道を普通に歩いているはずなのに、たった一人だけ、うっかりすぽん、とひび割れに落ちてしまった。誰も落ちたことに気づいてくれない。

 ゲームに喩えるなら、一種のバグのようなものだろう。壊れたデータの合間にはまり込んでしまったら、どうしようもない。ゲームならリセットできるだろうが、こちらは現実なので、打開手段はどこにもない。

 ただ、僕には多分そういうSF映画の主人公と、若干異なっているところがある。

   *     *

「天堂さんって完璧主義者ですよね」

 昼休み、社食で定食を選んでいると、後ろからやってきた川窪さんが開口一番そう言った。この会話の流れも熟知しているが、あえてきちんと乗ってあげることにする。

「そうですか?」

「そうですよ。天堂さんが作った書類とか見るとすごい思いますもん。書式もしっかりしていて、読みやすくて、無駄な文章が一切ないというか。芸術的……っていうのとも違うな。非人間的というか」

 毎回思うが、非人間的、というのは褒め言葉なのか。
 彼女が言っている書類は、僕がループにはまる前に作ったものだから、別にループの効果で内容が完璧に練り上げられた、とかいうわけではない。単純に僕の素の性格が出ているだけだろう。彼女は微笑んだ。

「定食選ぶだけでもすごく真剣な表情で……何事にも万全を期すんだろうなって思って」

 確かに、そうかもしれない。完璧で、完全でありたいと常に思うのだ。
 僕らはそのまま、テーブルに注文したものを持って行き、向かい合って食べることにした。このテーブルで、このサバの味噌煮定食をこの時間から食べるのが一番安定して午後を過ごせる選択だと、過去の繰り返しの中ですでにわかっている。

「ほら、今のもですよ」

 向かいにきつねうどんを載せたお盆を置いて腰を下ろすと、川窪さんはそう話しかけてきた。

「割り箸の割り方もすごく慎重で、綺麗に真っ二つに割れるように均等に力をかけてる。完璧主義」

「癖なんですよ」

 僕は苦笑しながら応じる。このテーブルに据え付けられている割り箸の中でどれが一番綺麗に均等に割れるか、これも僕は把握している。ループに陥る前は、この完璧主義の若干強迫神経症めいた自分に悩むこともあった。

 目の前に座っている川窪さんの顔を、僕は改まって眺めてみた。この9月8日を無限と言えるほど繰り返す中で、彼女とも様々な関わりあい方をしてきた。
 彼女が実は僕に好意を抱いているということも、知っている。一日の最後に彼女と付き合うことになることも、過去に数え切れないほどあった。繰り返していればいずれは、短時間で勝負を決めることが可能になる。恋愛シミュレーションゲームのようなものだ。この場所へ行ってこのプレゼントを渡しここで食事をしてこの台詞を言えば、クリア。

 最初の頃はそうした努力に喜びもあったが、もはやそのことには何の感情も抱かなくなった。
 なぜなら、この僕のいる世界において恋愛は何の意味も持たないからだ。
 人間関係に積み重ねはありえない。この一日をかけてどれだけ努力をして相互理解を深めたところで、翌日にはリセットされる。目の前の彼女がどれだけ僕のことを好きだとしても、良いことは何もない。だから、そういう無益な期待は捨てることに決めたのだ。

 僕らは食事を終え、自分たちのオフィスに戻る。今日は、真面目に働くことにした。
 別に手を抜こうが真剣にやろうが、どうせまた同じ日に戻る。その日ごとの気分で、過去にはふざけて他人の仕事を邪魔したり、ちょっとしたことに苛立ったふりをして窓からパソコンを投げ捨てたりもしてみた。突然立ち上がって上司にビンタしたり、ウィスキーを突然かっくらったりもしてみた。
 そうして、「絶対にやってはいけない」と常識では考えられているようなことは大概試してみたのだが、実際やってみてわかったのは、意外と最終的にはなんとかなる、ということだった。人間、そう簡単に破滅できないものだ。

 僕は仕事中もちらちらと、近くの席に座る川窪さんの顔を見た。彼女も時折、僕を見つめ返してきた。
 僕は私物の携帯から、彼女にメッセージを送った。

「今日、終わってから食事にいきましょう」

 わざと有無を言わさぬ調子で書いたのは、絶対に断られないと知っていたからだ。案の定、数分後にOKの返事がきた。

 僕らは仕事が終わってから、連れ立って会社近くのフレンチレストランに来た。彼女は席が空いているかしきりに心配していた(確かに人気店なので普段は予約なしには入れない)が、もちろん僕は、確信を持ってこのタイミングでこの店に来ていた。当然、一切待たされることなく我々は席に通された。

 席に座るなり彼女は嬉しそうに、ラッキーですね、と言った。そこで、僕は脈絡なく、こう尋ねた。

「川窪さん、『恋はデジャ・ブ』って観たことあります?」 

 川窪さんはきょとんとした。

「ああ、はい、もちろん。ビル・マーレイがムカつくレポーターやってる……同じ一日が繰り返される村に閉じ込められる話ですよね。名作」

 映画ファンの間では良く知られている作品だ。このループにはまり込んで以来、あれこれ観たループものの映画の中では確かに比較的、よくできていた。僕は肩を竦める。

「でも、僕はあれ、納得いっていないんです」

「納得? どうしたんですか急に」

 僕は赤ワインを一口飲みながら言った。

「主人公は長い時間ループを繰り返して、あの村での生活を完璧に把握していたじゃないですか。それなのにどうして、ループから脱しようと思ったんだろう、って」

「え? それは普通……」

「あれに限らず、ループものの主人公ってみんなそうじゃないですか。ループから脱したがる。あれが以前から、不思議なんです」

 僕がそう言っても、川窪さんは不可思議そうに小首を傾げるばかりだった。やはりわかってもらえないらしい。僕は笑いながら、さらにこう言った。

「実は、僕は今あの主人公と同じようにループに嵌っているんですよ」

 彼女は一瞬面食らった表情を浮かべたが、すぐに冗談だと思ったのか、口元に笑みを浮かべて切り返してきた。お互い軽く、酔いも入ってきている。

「へえ。何回目なんですか?」

「もう110万回目くらいかな」

「それじゃあの主人公よりずっと多いじゃないですか。大変ですね」

「それが、そうでもないんですよ」

 僕はスープを口に運びながら答えた。

「だって、何もかもがわかっているのだから」

「何もかも?」

「そうですよ。何もかもわかっているということは、何の不安もないということでもあるんですよ。我々の日常生活が不安や危険でいっぱいなのは、結局、いつ何が起こるかわからないからでしょう? でもずっとループを繰り返し、試行錯誤を行なっていれば、いつどこで何が起こるか、少なくとも自分の周りでは全て把握することができる。そうすれば自ずと、不安がなくなる。全然大変じゃないです。安心安全」

 僕がそう話すのを、川窪さんは愉快そうに聞いている。やはり笑い話として聞いている様子だ。

「でも、大体ああいう映画や小説って、そのループの状況を『退屈だ』って表現するじゃないですか。天堂さんは大丈夫なんですか?」

「僕は全然。むしろ幸福です。混沌状態だった自分の周りを、完璧に整えることができるのですから。不確定要素がない。自分の思い通りにできる。もっともっとループしたいくらいです。ループすればするほど、僕は『完全な存在』に近づいていく。完璧で完全な調和が、一番美しいと思うので」

 あえて宗教家然とした言葉遣いを選んだが、ぎりぎり冗談と受け止めてもらえるよう語る。すると彼女は言った。

「それはつまり、神様ってこと?」

「かもしれないですね。預言者とか、奇蹟を起こしたとかっていうのはループの中で生きていたからかもしれませんよ。雷が落ちるってわかっている場所と時間に立ち会って、そこを指さしたら誰でも奇蹟が起こせますよ。無限回ループを繰り返して世界の全てを把握すれば、人は神様になれるんです。聖書に書いてあるキリストの事跡はたぶん、全部ループで説明がつく」

「じゃあ、やってみせて」

 彼女はワインを口に運びながら、そう笑った。僕はうーん、と首をひねるポーズを見せてから、

「ほら、あそこで年配の男性と女性が食事をとってますよね。あの人たちは、今から三十分ほどで喧嘩して、コースの途中で帰ります」

「そんなどうでもいい預言! それじゃ宗教は起こせないでしょ」

 川窪さんは大いに笑った。本当にそうなるのだけれど。
 あいにく、このレストラン内では閉店まで待ってもこれといった事件が起こらないから仕方ない。わかりやすく地震でも起きてくれればよかったのだが。彼女は、サーモンのムニエルを丁寧に切り分けながら言う。

「その調子じゃ天堂さんは、神様にはなれそうにないですね」

「ええ。だって僕にわかるのは、この9月8日のことだけですから。言ってみれば『9月8日の神様』です。その他のことは何にもわかりません」

「明日も、明後日も来ないから」

「そういうこと。でも安心だし、幸福です」

 そうかなあ、と言いながら、彼女はサーモンをゆっくりと食べていた。
 彼女は、完璧主義者である僕の前だからとても気をつけてさっきから食事をしている。僕はこれから先、何をやると彼女がどう反応するのか、全て知っている。この食事はすでに五万回近く行なっているから。今日聞いた話も、すでに聞いたことがあることばかりだ。何と言えば彼女が笑い、何と言えば怒り、何と言えば悲しむかまで、全てわかっている。

 何も怖くない。何の懸念もない。僕は心から安心して、彼女との食事を楽しんでいる。これを幸福と呼ばずして、何と呼ぶのだろう。

 帰り道、駅まで彼女と連れ立って歩いた。すっかり酔いの回った彼女は、僕の言った「冗談」をしきりにからかってくる。ご機嫌だ。僕は、何も言い返さない。
 彼女とは路線が違うので、駅構内で別れた。別れ際、彼女は何か言いたげに僕の顔を見ていたが、すぐにやめて、それから笑顔で言った。

「じゃあ、また明日」

 僕も、また明日、と言った。
 僕はそのまままっすぐ乗り慣れた電車に乗り、帰宅した。家についてからは酔い覚ましに冷えた炭酸水を飲み、ぼんやりした頭で読んでいた本の続きを眺めた。なかなか頭に入ってこない。すぐに諦める。

 風呂を沸かし、入り、出て、時計を見る。翌日の体調が一番よくなるのは23時40分にベッドに入ったときだ。「次の今日」を万全にするにはどうすればいいのか、僕は完全にわかっている。わかっているのだが、まだその時刻まで30分ほどあった。僕はため息をついた。

 早過ぎるけれど、もう眠りにつくことに決めた。布団を被り、電気を消す。目を瞑る。目覚めれば、また同じ9月8日が始まる。全てを知り尽くした、何の心配もない1日を過ごせる。

 僕は幸福だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?