薬味杏
薬味杏が書いた短編小説を集めました。
「また泣かされたのか」 ロバのジュンペイは私に優しい声で言った。私が十歳の頃の話だ。 誰に話しても信じてもらえない。信じてもらう気もないから酔った時しか話さないせいかもしれないが。でも確かに、私の実家で飼っていたロバのジュンペイは喋ったのだ。 私が頷くと、ジュンペイはゆっくり大きく首を上下に振った。怒っているのか哀れんでいるのかはわからない。ただその優しい目で私のことを見ていた。私はジュンペイに、何をされたのかを懸命に話した。だが彼は、必ずしも私の味方とは限らなかっ
1. わたしの弟が翼人症候群と診断されたのは、十一月十日のことだった。わたしは母さんと一緒に、付き添って病院へ行った。 「典型的な症状ですね」 白い板のような顔をした医者は、弟の背中を診ながら言った。弟の肩胛骨は、素人のわたしが見てもはっきり分かるほど異常に盛り上がっていて、弟は触られる度にじんじんと伝わってくる痛みを堪えて俯いていた。 「これはこのまま進行すると、場合によっては骨が皮膚を突き破って外に出てきます。そうでない場合でも、肩胛骨の形成に支障が起きて、突起は
1093322回目の9月8日がやってきた。 僕は朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ベッドから起き上がった。 毎日、目覚めて最初にやるのは「今日が何日目か」の確認だ。なにぶん、ループに入ってこの方、日を跨いで持ち越せるのが自分の記憶だけなものだから、数え間違いをしないよう気をつけなければならない。 今日も、満足の行く1日を過ごしたいと思う。 ベッドを降り、スリッパを履き、大きく伸びをし、時刻は現在午前7時5分だ。いろいろ試したが、このくらいの時間にベッドを出る
「上板橋の駅前まで」 俺は乗り込んですぐに運転手に伝えると、すぐ腕組みをして黙り込んだ。 今は午前一時半、悲しいことに飲み会終わりでも何でもなく、ただただ残業の結果、この時間である。疲れ果てているときにタクシーの運ちゃんと会話できるほど、俺は人間ができていない。 なかなか経路を訊いてこないなと思って俺が顔を上げると、バックミラー越しに彼と目があった。眼鏡をかけた、初老の男のようだった。 「シートベルト着用のご協力お願いいたします。ご希望の経路はおありですか」 よ
このたびは、私どもの製品をお買い求めにお越しいただき、ありがとうございます。私がご案内させていただきます。 ははあ、もう来週にはお父様、お母様になられるわけですね。おめでたい限りでございます。私も仕事柄、生まれたばかりのお子さんにお会いすることが多いものですから、お祝い事も慣れっこになってしまいました。ははは。しかし、何度繰り返してもいいものでございますな。 さて、早速ですが、製品のご説明をば。お使いになられたことは? なるほど、奥様はお使いですが、旦那様はお持ちで
1. 「ジャスティン! 何してるの早く起きなさい、ジャスティン!」 ママの怒鳴り声を聞いてぼくはベッドの上で飛び上がった。毎日一言も違わず同じセリフだ。おかげでぼくは古本屋で買ったニーチェの『権力への意志』を取り落とした。表紙の角が折れ曲がってしまっている。いつの間にかに寝てしまっていたらしかった。本が退屈だったせいだ。頭に手をやると、髪は嵐の中の小麦畑ぐらいの惨状だった。今日も学校でバカにされる。 狭くてきしむ階段を駆け下りて家具と調味料でごちゃごちゃのキッチンへ行
「葬儀にもコツってものがあるんですかね」 妻の葬儀が終わった後、葬儀会館で僕は義父に訊いた。僕も義父も、パイプ椅子に腰掛けていた。間違いなくその場に相応しくない問いだった。 義父は異常者を見る目で一瞬僕を眺めたが、すぐに愁嘆場ゆえの混乱から出たものと考えたか、優しい表情に戻って答えた。 「そりゃああるんじゃないかな。私もまだ父といろはの葬儀しか出していないから、コツと言えるほどのものは掴めていないが」 いろはというのは僕の妻であり、義父の娘の名前だ。まだ三十四歳な