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何故生まれてきたのか、何をしたくて生まれてきたのか、そして人生のゴールが何なのかに気付いてしまった話。

今、ここを見つけて読んでくださったあなた。
自分が何故生まれてきたのか。何をしに生まれてきたのか。そして自分の人生のゴールは何かを、しっかり判って生きていらっしゃいますか?
私はまったく判っていませんでした。
この約半世紀の間、ただただ時間の流れに流されるように、握りしめていた色々な概念に縛られるように生きてきました。
そして、いったい自分は何を為すために生まれてきたんだろうと、漠然としたモヤモヤを抱えながら、それを模索するような気持ちで日々を過ごしていました。


だけど。
さきほど突然、自分が何故生まれてきたのかに気がついてしまいました。キッカケは、自分がいつも頭の片隅で無意識に考えている内容に気づいたこと。

それは、

「私は本を出したい。いつになったら本が出せるのだろうか。」

という想い。

いつもいつもそう思っていて、それが私が生まれてきた目的で、果たしたい使命なのだろうかと頭でずっと考えていたのですが。
さきほどもそんなことをぼんやりと考えていて、そしてその不自然さにふと気がついたのです。

「・・・・・・あれ? これ、なんかおかしいな。」

そうです。本を出したいという想いはとてもとてもおかしくて不自然で、私にとってはもう違和感しかない。そのことに、ふと、ようやく、気がついてしまったのです。


これは私の個人的な話になりますが。
私は幼い頃から本を読むことも、文書を作ることも大好きで、小さな頃からよく自作の物語を書いて過ごしていました。
今のようにパソコンもなかったので、日がな一日時間があればノートに鉛筆でびっしりと文字を書き、指先にはペンだこが出来ていました。

学校に通うのは嫌いでしたが、新しい知識を得ることや何かを出来るようになること、文書の読み書きは好きでした。

パソコンを手に入れてからも物語などを書き続け、今はこのnoteにいろんなことを書いて楽しんでいますが、私の頭の中では本当に無意識に

”いずれ本を出さなければ”

という強迫観念にも似た想いが消えることなく静かにくすぶっていました。
そう、本に出来るような作品を書くこともなく、です。

そのことも自分で自覚していました。
本を出さなければという想いと、それに反比例するようにそういった作品を書かずに、本にはならないような書き方を続ける自分の行動。
そこには不自然な乖離がありました。判っているのにそうしている自分。
そのことが、ますます私自身を焦燥に駆り立てる悪循環。
私の無意識はおかしなことになっていたのです。

さきほども、いつものように”いつになったら私は本を出せるのだろう”と、本を出せない自分を責めるような気持ちが浮かんでいました。
そして、今まで自覚することが出来なかったその不自然さを、初めて、ようやく、自覚することが出来たのです。

「あれ? 本を出さなければいけないと思うのはどうしてだろう?」

ふと、我に返ったような気持ちになりました。
”本を出す”というのは、ただの結果です。何らかの媒体に作品としての文書をまとめる行為だと考えれば、こうしてnoteに文書を書けている時点で、私の”やりたいこと”は叶っているのに、何故私は、それではダメだと思っているのだろう、と。

そこには、つまらない、くだらない、こんな価値観がくっついていただけでした。

ー何か”立派なこと”を成し遂げなければ価値がない
ー何か”世間からの称賛”を受けなければ価値がない

本を出してベストセラー作家と呼ばれる人は、世間から”先生”と称賛されてなんだかスゴイ人のように見える。価値があるように思える。
私の頭に響いていた”本を出さねば”という想いには、それがくっついているように思ったのです。

じゃあ、私は立派なことを成し遂げるために生まれたのだろうか。
それとも、世間からの称賛を受けるために生まれたのだろうか。

もしもベストセラー作家になって、世間から先生と呼ばれるようになったら、それが私の人生のゴールなのだろうか。そうであれば、この想いはきっと正解だ。
そう考えて、想像してみました。
そこで理解しました。
もし、世間から立派な本だと称賛されても、先生と呼ばれても、多分私は嬉しくないのです。そのために生まれたわけでも、そのために生きている訳でもない、とハッキリ判りました。
もしそうなって嬉しいことがあるとしたら、それは私の紡ぐ物語の世界に触れた人が、その世界の中で楽しく遊んで喜んでくれたり、作品に触れる時間を満喫したりしてくれた場合で、ベストセラーになることによって楽しんでくれる人が増えるとしたらそれが喜びに直結するし、作品を世に出している人の多くはきっと称賛などより素朴に楽しんでもらえることの方を喜びに感じるのではないか、とも感じました。

では、何故素直にそう思えていなかったのだろう、と不思議に思ったのですが、その時、思い出したのは幼少期に学校で読むように推奨された”偉人伝記”でした。
”立派な人”という特別な人間が居るのだと教えられ、そうなることが価値あることのように、繰り返し繰り返し教え込まれる子ども時代。
そういう立派な大人になるように謂わば洗脳を受けながら子ども時代を過ごしてしまった結果、こうして脳裏におかしな価値観がこびりついてしまっていたのではないかと理解してしまったのです。

私は既に幼少期から、”何故生まれてきたのか”を既に実践していたことに気がつきました。
だって、人生のゴールはもう明白で、おそらく誰であってもそのゴールは全く同じ。

つまり、少なくとも私自身の人生のゴールラインは”死を迎えること”。
その時点をゴールに設定して、私は生まれてきている筈なのです。

そして、そのゴール地点に到着するまでの間に何をするか。

それこそが、私が生まれてきた理由であり、何をやりたくて生まれてきたかの答えなのです。

私は幼少期より、自分が好きなことは何なのかを知っていたにもかかわらず、それが出来ない事務職を続けていました。
ずっと人に雇われ、指示されたことを行う人生を続けていましたが、積み重ねていくうちにどうにも耐えられなくなりました。こんなに文書を書くことが好きなのに、それが活かせずそれがやれない日々の虚しさ。
事務職についた私は、目の前に敷かれたレールの中から自分で選び取ったつもりでいましたが、本当はレールのない道が幾らでもあることに、気付いていないだけでした。

仕事をしながらも、もちろんこういった媒体を使って文書は書きづづけていましたが、人生の大半を自分がやりたい訳ではないことに消費することがつら過ぎました。
同様に、本を出さねばならないという想いも、自分が本当にやりたいことではなく、自分がやりたいことと子どもの頃に洗脳された価値観をすり合わせた上で、落とし所として編み出した苦肉の策に過ぎなかったのです。

そのことに気がついた瞬間、本を出さなければならないと何故あんなに頑なに思っていたのかの理由がわかり、そして何故本を出すための行動を自分が敢えて取らずにいたのかも理解しました。
本を出したければ、小説でもなんでも書いて色々な場所に応募しまくればいいという知識だって持っているのですから、手当たり次第に書いたものを応募すれば良かったのです。小説だけではなく、絵本を描いても良かったですし、「小説家になろう」というサイトがあってそこに書いていけば漫画の原作として採用される可能性があることも知っていました。
知っているのに、それらの行動を完全にスルーしていました。
それは、私自身の本当の想いが”出版がゴールではない”ということを知っていたからでした。

人の本音は行動に現れる、といいます。
頭の中では本を出さねばと念仏のように唱えていたとしても、私の行動はそうしなくても良い媒体を見つけて書きたいものをちょこちょこ書き、そして宣伝行為はほぼ全くしていませんでした。
だって、本当は困るのです。そんな本来自分自身のものではない目標が叶ってしまったら。一生自分自身の望みではないものを自分の望みだと誤解しながら生きるために生まれてきては居ないから。

自分自身と乖離した状態から、自分自身の想いだけで生きることが出来るように。
そのために、私の行動は敢えて本を出すアクションを起こさないように努めていました。出せてしまったらきっと、勘違いをしたまま人生のゴールを迎えてしまうから。それだけはどうしても避けたいと、きっと私の心の奥深くでは判っていたのだと思います。

私が生まれてきた理由。
それは、日々の他愛ない時間を私自身で過ごし、私らしく表現すること。

私がやりたかったことは、そうやって生きる心の境地を護ること。

何か評価される人になりたかった訳ではなかったし、何事かを為したい訳でもなかったのです。
もし、あのままそれをゴールに生き続けていたら、きっととっても後悔したのだろうなと、今の私は感じています。

今日は重陽の節句でしたが、私の人生でとてもとても大切なことに、やっと、ようやく気がつけた大切な日になりました。