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「人魚隠しし灯篭流し」第一話

【あらすじ】
 母の思惑に巻き込まれて絶望し、入水自殺を図った主人公の文は、目を覚ますと銀鱗島という因習の残る離島に流れ着いていた。
 銀鱗島では鱗生病《りんせいびょう》という死に至る病が流行っており、文も来て早々にそれを患う。残り時間が少ない中、文は銀鱗島内で差別を受けている海雲族の次期当主や、島唯一の医者と病の原因を解明するため協力関係を結ぶ。

 果たして鱗生病の原因とは何か? 島が祀る人魚とは?
 怪異が渦巻く島の謎を解き明かす、因習村×和風ホラーミステリー。


 【序章 ある老婆の話】

 そこの若い衆。見ぃへん顔やね。どこから来はったん。

 東京? 新聞記者?……ああ、あの島か。あの島に行くんは、やめといた方がええ。そもそも行く手段がないしな。この距離を泳げるんやったら別やけど。ここから眺めとる分には近う見えるけど、実際行こうとしたらお船がいるで。
 それに、先の戦争では少しの間戦地になったみたいやけど、元々あそこは立ち入り禁止や。足を踏み入れると二度と戻ってこれんて噂があって、村の人間はだぁれも入ろうとせん。実際、あそこで戦った兵隊さんは消息を絶っとって、捜索もされてへんらしい。

 あそこは、うちの村とまだ陸続きになっとった頃に、例のあれを封印した場所なんよ。……ああ、そんなことも知らんと来たんか。新聞記者言うても、大した情報網はないんやねえ。何? まだ新人? ああ、そうか、話の種が欲しくて必死なんやね。ええよ、あんたはわしの孫に似とるから、聞かせたる。

 あそこにはなぁ、神さんが棲んどるんや。

 うちの村の山の上に、古びた鳥居があるやろ。元々あそこで祀っとった神さんを島に移動させて、災いを収めたんや。
 灯篭流し、て分かる? 水に関することで亡くなった死者の魂を弔うために、火を灯した灯篭を、海に流すやつ。うちの村では水難事故が多くて、伝統的に灯篭流しをしとってんけど、その頃から灯篭流しの意味合いは変わってしもうたらしぃてな。

 あの島に閉じ込めた神さんに許しを請うために、毎年村人全員が謝罪の文《ふみ》書いて、組み紐で結んで流すんよ。組み紐は、うちの村有名やろ。伝統工芸とも言われとる。職人さんが作りはったそれで結ぶんや。

 ああ、それは知っとるんか。村のことは調べてきはったんやね。礼儀はある子や。
 わしも子供の頃は書かされた。その頃はまだ文字もよう書かれへんかったけど、親に教えられて、真似してよう意味も分からんまま謝罪の手紙を書いて、あの島に向かって流したわ。
 でも、当時の村の若い娘に、変わったもんを島へ流した子がおってな。……ふ、そないに前のめりにならんでも。わしの話ばっかり聞いとらんと、お茶も飲みなさい。折角出したんに、冷めてまうわ。

 恋文や。その娘は、神さんに向かって恋文を書いたんや。

 それも一度や二度やない。幼い頃から何年も続けて、毎年謝罪文やなくて恋文を送っとったらしい。
 それが発覚する前から、わしはその娘のことを知っとった。その娘の家は酷い言われようやったからね。戦地へ向かった夫を除けば六人家族で、子の五人とも女の子やったんよ。男の子はお国のために兵隊に出せるけど、女の子はそうもいかんやろ。子は沢山おるのにお国に貢献できてへんいうてあの家はずっと白い目で見られとった。畑に嫌がらせもされとった。
 でも、娘さんは強かった。過激言うんが正しいんかな。病弱な母親の代わりに、畑を荒らした犯人をつき止めて家を燃やした。それから村人はその娘のことを気味悪がって、なんもせんようになった。

 その後や。娘さんが送ってるんが恋文やて発覚したんは。娘さんの妹が、家に置いてあった灯篭流し用の文の組み紐を解いて開けたんや。何でも、自分が送る予定の文と間違えたらしい。謝罪文に誤字があったことに気付いて、慌てて直そうとしたんやて。でも、中から出てきたんは恋文やった。
 口の軽い子やったから、そのことは一気に村中に広まった。
 正気やない、お前が謝罪せえへんかったせいで村が襲われたらどうしてくれるんや、言うて村人たちからは非難轟々やった。わしも当時は神さんがお怒りになるんちゃうかってひやひやさせられたわ。

 ただ、娘さんはその頃から何やおかしかってん。気が触れたみたいにぼうっとしとることが多なって、村人に暴言を吐かれても虚空を見つめてはは、はは、て笑いよるんや。そのうち娘さんのお腹が大きくなってきて――そう、娘さんは妊娠しとった。皆戦争に駆り出されとる時期やから、そないな相手なんかおらんはずやのに、娘さんのお腹はどんどん大きくなっていく。 酷い妊娠悪阻で、何度も嘔吐しとった。
 その後、娘さんは死んだ。寝床で一人静かに死んどったらしい。娘さんの死体の下には、卵があったんやて。信じられる? 卵。ぎょうさん、卵があったって。いや、わしは見てへんよ。そんな話、気持ち悪いやんか。怖くて近寄れんわ。人づてに聞いただけ。何やその顔。わしのこと疑ってるんか?
 その卵どうしたって? さあ、わしは直接は関わってへんから詳しいことは分からんけど……何か不吉なことが起こっても困る言うて、しばらくはその卵を祀っとったんちゃうかな。戦争が終わった頃に、闇市で売られたとも聞いとる。確かやないけどね。

 それからまたしばらくして、村の子供が神隠しに遭うようになった。村の子供言うても、もうほとんどおらんかったけど。
 神さんが子供を攫うんや。我が子を捜しに来るんやて。子供を攫って、名前を奪って、その子の大切にしていた記憶も奪ってしまう。そして、その子供が我が子でないことが分かれば、呆気なく殺してしまうんや。
 え? 攫う前に分からへんのかって? さあ、分からへんのちゃう。神さんは人間を見分けられんらしいよ。わしらも、同じ種類の虫並べられても違い分からんやろ。そういうもんや。

 祀れば何でも神さんやからね。あれは、人に幸福をもたらすような、有り難い存在やない。もっと言い表せんような、化け物や。
 わしは戦地で我が子を、長男を亡くした。骨も帰ってこうへんかった。しかも、大日本帝国は戦争に負けた。やからわしはな、二度とあんな思いはしとうなかった。自分の孫の命だけは惜しかったんや。一人にされとうなかった。やから身代わりにしたんや。わしの家の、隣の家に住んどった子供を身代わりにした。怖いね、人間は。わしはそこの家の人とは仲良うしてて、戦時中の食糧が少ない時期も食べれる草を分け合って協力しててんけど、いざとなるとやっぱり我が子の方が恋しかった。どれだけ非人道的でもええと思った。
 え? いきなり何の話やって? ふふ、何の話やろか。神さんがわしの家まで我が子を迎えに来た時の話よ。ああ、また信じてへんね。ええよ、信じてくれんくても。
 ただ、その夜、家の戸の外で、神さんはわしにはっきりこう言った。「こをかえせ」と。わしはな、その時自分の孫を抱えて、孫の息の音が聞こえへんように顔をわしの服に埋めさせて、ここにはおりません、て返したんや。隣に焼けた家があります、その家の隣に、子が住んでいますって。
 戸の前にいた「何か」はずるりずるりと音を立ててわしの家の前を去っていった。しばらくして、ずうっと静かやったのに、ようやくいつもみたいに夏の虫の声が聞こえてきたんや。ほら、虫の声とか蛙の声、今も聞こえとるやろ。田舎特有の音や。夜を静かにしてくれん。
 虫の声聞いて安心したわしは、そこでやっと隣の家の子の顔を思い出して、なんや罪悪感が湧いてきて、様子を見に海辺まで行ったんや。
 わしはその時、見た。浜辺で、子供を攫ってあの島まで連れて行こうとする神さんの使いの姿を。


 ――――……あれは、人魚やった。



 【第一章 入水自殺】


 水の音がする。海の底にいるような、波に誘われるような。ざあざあ、ざあざあ、という音もすれば、こぽこぽぷくぷくと泡沫の音も聞こえる。最近は特に酷い。
 千代子《ちよこ》は立って顔を横に傾け、片足で何度か跳ねた。風呂で耳に水が入った時にする動作だ。それでも水の音は消えない。
 母に伝えると、母は顔を顰めながら注意してきた。

「気味の悪いこと言わないで。内陸なのに海の音が聞こえるわけないじゃない」

 千代子は栃木に住んでいる。海など行ったこともない。そのうえ、母には千代子に聞こえる音が聞こえないらしい。あまり変なことを言っていると医者に連れて行かれそうになるので、千代子はそれ以上何も言わなかった。
 食卓に母の作った夕食が置かれる。鉄鋼関係の会社に勤める生真面目な父は新聞を広げて、千代子たちとは一切会話を交わさない。食卓の横の台の上に置かれた新しい白黒のテレビでは、昨年できたばかりの東京タワーの様子が放送されていた。
 母はエプロンを解いて、小さな箱を千代子に渡してきた。

「お父さんが職場で頂いたんですって。太平洋側の海に近いところにある、霧海村《きりうみむら》っていう村の伝統工芸品らしいわ。折角だから、貴女もちょっとは女の子らしいものを身に付けなさい。もう十四歳なんだから」

 箱を開けると、色彩豊かな可愛らしい組み紐が並べられていた。美しく染め上げられた絹糸を組み糸として組み上げられたものだ。
 千代子は父にお礼を言って組み紐を箱から取り出し、肩甲骨の辺りまである長い黒髪を結んだ。髪を伸ばしたのは母に言われたからだ。
 スカート以外履けなくなったのも、常に紅を塗るようになったのも、何か買う時可愛い色の物を選ぶようになったのも、母に言われたから。

「これ、可愛いですね」

 箱の中を眺めて言うと、千代子が可愛らしいものに興味を示したのが嬉しいのか、母は笑って手を叩いた。

「ええ、可愛いわ。今度それ付けてしげるさんに挨拶していらっしゃい。きっと気に入るわよ」

 茂とは父の仕事のツテで出会った今年四十五歳になる男だ。戦後に織物販売業で財を成した成金で、まだ十四歳の千代子のことを大層気に入っており、将来は結婚したいと申し出ている。千代子の母は、富のある茂に気に入られるためにまだ幼い千代子に女性らしさを日々強要していた。
 千代子は、茂の千代子に向ける嫌らしい目付きや、同級生の男の子たちとは違うはりのない肌、紫っぽい歯肉の色、きつい香水で誤魔化した体臭が苦手だ。茂の顔を思い出しただけでぞわりと寒気がして、母に曖昧に笑い返してその話題から逃げるように汁物を啜った。

「そうだ、茂さんがお盆に別荘に誘ってくださっているのだけれど、別荘があるのは霧海村の隣町らしいわよ。ついでに霧海村まで茂さんと遊びに行くのはどうかしら」
「もうほぼ廃村だって聞いたけどなあ」

 黙って魚の骨を取っていた父が、ここでようやく口を開く。

「でも、千代子は昔から海に行きたがっていたし」
「盆に海は行っちゃだめだろう」
「少し遠くから見るだけよ」
「俺は仕事だから行けんぞ」
「もう、分かってるわよ。私と千代子で行ってきますから」

 父と母の間で勝手に話が進み、結局八月は霧海村とやらへ向かうことになった。
 白黒テレビから、ザザ……と嫌なノイズが走る。千代子は何だか落ち着かなくなってテレビの電源を消してしまった。
 母はまだ嬉しそうだ。

「とびきり可愛くしていくのよ、千代子。新しいお洋服買ってあげる。千代子はお着物が似合うから、着物でもいいかもね」

 逆らわなければ母は優しい。思い通りに事が進んでいる時は優しい。千代子は「はい。お母様」と笑顔を作った。


 ――水の音がする。さざめく波の音が遠くから聞こえる。水しぶきが跳ねる音が響き渡る。
 嗚呼――帰りたい。水の音がうるさく聞こえる度に、千代子は行ったこともないはずの海への郷愁を覚えた。



 :

 そびえ立つ木々に囲まれた森の中。小川を流れる水音がかき消されるほど、セミの鳴き声がうるさかった。
 茂の別荘がある町は栃木よりも暑い。ジリジリと太陽が照り付け、地面からの熱気を感じる。
 広大な敷地では樹木がざわめき、蒸し暑い風が吹く。白い柱と赤い屋根を持つ別荘は、陽光を受けて輝き、熱気を吸い込んでいるようだった。ベランダには縞模様の日よけがあるがとても外に出る気にはなれない。

 ぼんやり窓の外を眺めていると、ふとあるものに目を引かれた。
 大きな山が見える。その上部に、強引に取り壊されたようないくつかの鳥居があった。

「あちらが霧海村ですか?」

 無口な千代子から質問されたのが嬉しいのか、茂が身を乗り出して答える。

「千代子は目がいいね。そうだよ、あっちが霧海村だ」
「あの山の鳥居は何でしょうか」
「神社が密集しているところかな? 元々あそこには人魚の神様を祀っていたそうだよ。大昔、あそこに住んでいた神様を銀鱗島に移動させたせいで、霧海村は灯篭流しをして毎年神様に謝らなくてはならなくなった」

 銀鱗島というのは、霧海村の向こうにある離島の名前だ。

「謝るのですか? 神様に?」
「そう、村の人間が神様を銀鱗島に運んでしばらくして、霧海村では謎の病が流行りだしたようでね。最初は、膝や足が震えて歩けなくなったり、尿失禁が起こったりするだけなんだけど……そのうち全身の筋力が低下して動けなくなって、ほとんどの人が死に至ったらしい。祟りだと騒がれて一時期は大変だったようだよ」
「……人魚の神様は、島へ行くのが嫌だったのでしょうか」
「さあ。ただ、新しい神社の建設が途中で終わってしまったことが祟りの原因だったんじゃないかとは言われているね。本当はきちんと完成してから神様を移動させるべきところを、途中で移動させた上に、建設も終わらぬうちに戻ってきてしまったようで」

 千代子は黙り込み、何故それほど大事な建設が頓挫したのだろうと考える。茂は千代子が怯えていると思ったのか、安心させるように優しく頭を撫でてきた。

「ふふ、怖がらせてしまったね。大丈夫だよ。神の祟りなんて非現実的で馬鹿らしい話だ。原因不明と言われた南部の病も、最近は工場廃液による水質汚染が原因ではないかと噂されているし。霧海村の流行り病も何かの汚染が原因だったのではないかな?」

 千代子を見下ろす熱っぽい目も、その毛むくじゃらの太い指もおぞましい。娘でもおかしくないほど年の離れた子供を、何故そんな目で見ることができるのだろうと不思議で仕方ない。

 帰りたくなってきた千代子の肩を茂が抱き寄せる。
 母が商店街に出かけているうちに距離を詰められている気がして、千代子の口角は引きつるのだった。


 夕方になっても、町は蒸し暑かった。母と茂と近くを流れる川で釣りをして遊んだ千代子は、一日太陽の下にいたことで疲れ果て、別荘に戻ってすぐ風呂に浸かって川の匂いを消した。
 別荘にはいくつか部屋があり、千代子は母と一緒の部屋で眠ることになっている。
 茂の機嫌を取りながら、あと何泊かすれば自分の家へ帰れるはずだ。そう思いながら早々に布団に入った千代子の隣で、何故か母が荷物を纏め始めていた。

「お母様……?」

 千代子は不審に思って上体を起こす。こんな時間にどこへ行くのだろう。

「千代子、お母さん帰るから。盆が終わったら、茂さんと一緒に帰ってくるのよ」

 母は不気味な程の笑顔を浮かべて言った。

「最初は痛いと思うけれど、逃げたらだめよ」

 立ち上がる母の鞄は軽そうで、最初から何泊もするつもりはなかったことが分かる。千代子は咄嗟に母の服の裾を掴む。

「お母さんも一緒に泊まるのではないのですか?」
「あのね、千代子。千代子は早く茂さんのものにならなくてはいけないの。そのために、お母さんがここにいたら邪魔でしょう」

 〝茂さんのものに〟――その意味を遅れて理解した千代子は絶句した。
 続けて、母が青い顔で意味の分からないことをブツブツと呟く。

「もう、もう、だめなの。お母さん一人では耐えられない。だって何度も迎えに来るのよ、海から。千代子のために引っ越したのに、それでも来るの。もう、もう、だめよ。このままじゃお父さんが……お母さんまで殺されてしまう。早く、千代子がこちらのものだって示さないと……」

 千代子は思わず掴んでいた裾を離した。いつもの母とは様子が違う。――何かに怯えている?
 千代子がその異様さに圧倒されて何も言えずにいるうちに、母は部屋から出ていってしまった。しばらく呆然としていた千代子ははっとして、慌てて自分も荷物を纏めようとする。

 千代子と両親の間に血の繋がりはない。千代子は彼女たちに拾われた戦争孤児だ。空襲でまだ赤子だった実子を亡くした彼女たちの心の穴を埋めるように、都合よく現れた親なき子である。しかし血縁がないからといって母と父が千代子を他人として扱ったことはない。
 それが、茂が現れた辺りから、母の様子はおかしくなっていった。てっきり金に目が眩んだものと思っていたが、何か他の事情があるのかもしれない。

 母を追いかけようと部屋の扉を開けた時、目の前に茂が立っていた。今、千代子の部屋に入ろうとしていたのだ。千代子はぞっとして身を震わせる。

「どこへ行くのかな?」
「お……お母さんが帰るって……」
「千代子はここにいないと駄目じゃないか」

 にたり。嫌らしい笑みを浮かべる、父と同じくらい年の離れた男。
 身の危険を察知して逃げようとした千代子の二の腕を茂が掴んだ。

「教えてもらったよ? 千代子は女性の体になったって」

 千代子が初経を迎えたのはつい二ヶ月前のことだ。母に相談すると、良いことだそうでお祝いされた。母以外には教えていない。母以外に話すようなことでもない。だからこそ分かってしまう――母が茂に千代子のことを教えたのだと。
 恥ずかしさと悲しみと怒りで頭がいっぱいなって体の力が抜けた千代子を、茂は強引に布団へ押しやった。

「やだ、やだやだやだやだっやめてください!!」

 千代子がどれだけ叫んでも茂がやめることはなかった。
 最初こそ激しく抵抗したものの、力で敵わない恐怖でだんだん手足は動かなくなり、最後には諦めが残った。
 早く終わってほしい、まだか、まだかと思っているうちに、事は済んでいた。

 千代子にとっては大きな出来事だった。しかし茂の方は何事もなかったかのように背を向け、呆然とする千代子の隣でいびきをかき始めた。
 千代子の胸に、空っぽの心だけが残った。

 鞄に入っていた服を被って別荘を抜け出し、無我夢中で走り続けた。
 裸足のまま土と草の上を走った。足の裏から血が出てきても、不思議と痛みは感じなかった。

 潮の香りがする。顔を上げると目の前に海が広がっていた。いつの間にか霧海村の浜辺までやってきていたらしい。

 初めて見る海だ。波が押し寄せる。何度も何度も。波打ち際を見つめているうちに、不思議な高揚感を覚えた。一歩一歩と海に近付く。
 遠くに銀鱗島が見えた。人など住んでいない島だと聞いたのに、ちらちらと小さな灯りが揺れている。その灯りに誘われるように、海に足を浸からせる。

 その瞬間、全てを捨てたい衝動に駆られた。

(……もういいや)

 おぞましい記憶が頭の中で繰り返される。あの行為自体も怖かったが、何より悲しかったのは、父にも言わないでほしいと頼んだはずの秘密を、母が茂に教えてしまっていたことだった。
 母は千代子のことを道具としか見ていない。もう、栃木の家には帰れない。帰りたくない。

 体が水に沈むごとに、まるで故郷に帰ってきたかのような心地よさがあった。

 水の音はもう聞こえない。



【次話】


第二話:https://note.com/awaawaawayuki/n/nadd3f0f45fb1
第三話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n0bafbbc41ee2
第四話:https://note.com/awaawaawayuki/n/n3b370ab542d1
第五話:https://note.com/awaawaawayuki/n/na26ad05d316d
第六話:https://note.com/awaawaawayuki/n/na9383d021eba
第七話:追加予定
第八話:
第九話:

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