見出し画像

「人魚隠しし灯篭流し」第九話


【第一話はコチラ】


 帆次がぐいっと文の肩を掴んで引っ張ってきた。

「おい、文ちゃん。そいつが約束を守ると思ってんのか? そいつは怪異なんだろ」
「……分からない。でも、一度は信じてみなければ何も始まらないと思う」

 文たちから見れば殺生の罪でも、虎一郎からすればただ食事をしただけ。その認識の違いをこれから改めていければ、虎一郎と島の人間が共存する未来も来るかもしれない。

「文に触るな」

 虎一郎の目がつり上がったため、慌てて帆次を庇うように立つ。

「虎一郎、この人のことも食べたり、攻撃したりしてはだめ」
「何で? 僕、そいつ嫌い」
「この人は私の兄だよ。つまり、貴方が私を母親とするなら、この人は伯父にあたる人。丁寧に接してほしい」
「……文が言うなら……。でも、そいつ、文を島から追い出そうとした。それは許せない」
「あれは追い出そうとしてたんじゃなくて、きっと心配してくれてたの。ね?」

 帆次の方に視線を送ると、帆次が「ああ」と返事した。

「この島は危険だ。怪異が住んでるからな。謎の病も流行っているし、よそ者が生きていける環境じゃない。……まぁ、杞憂だったらしいが」

 まさか文が海雲族の一員だとは思っていなかったのだろう。
 きまりが悪いのか、帆次が頭を掻く。

「それに、例え文ちゃんが鱗生病で死なねぇにしても、俺は文ちゃんが島に居続けることには反対だ」
「……どうして? 私、ここの家族なんでしょ? 本土には帰りたくない」

 文は鱗生病でいずれ死ぬという前提があって今日まで生きてきた。しかし、ここに来て急にこの先の未来ができてしまった。これから先のこともきちんと考えなければならない。
 しかし、茂や自分を裏切った母の元に帰ることを選ぶ気にはなれなかった。
 それでも帆次は反対してくる。

「ここより本土の方が沢山の人間がいるし、未来の選択肢も多くて自由だ。ここにいても海雲族として差別を受けるだけ。文ちゃんが腐っていくだけだ」
「……そんなことない」
「今は視野が狭くなってんだよ。戻るのはお前に変なことをした連中の元でなくてもいい。生きている限り居場所なら必ずどこかに見つかる。それがこんな辛気臭い島である必要はねぇって言ってんだ。この一族の次期当主になる俺と違って、お前は自由なんだから」

 遠ざけるような物言いだ。帆次なりに文のことを考えての発言だろう。
 文は着物の裾をぎゅっと握って俯いた。

 ――栃木の父親ともう一生会えないのは嫌だ。それに母親だって、あの時ただ精神的に滅入ってしまっていただけかもしれない。母親のことはまだ許せないが、直接会ってあの別荘での真意を話す機会があってもいいだろう。
 栃木のあの家に帰りたいとまではやはりまだ思えない。けれど、一度戻るくらいならしてみたい気持ちが出てきた。

「そのためには、まず親父から名前を取り返さねぇとな」
「私が名前奪われてるのって本当なんだ……」
「ああ。お前はこの島に来た時、元々別の名前だった」
「全然思い出せない。お父さんは、私から名前を奪って母親の名前を付けたってことだよね」
「そうだ。今思えばあの時気付くべきだったな。親父が母さんの名前を与えるなんて、愛娘以外ありえねえって」

 帆次は苦笑しながら文の頭を撫でる。

「今はまだ考えろ。偉そうに色々言っちまったけど、名前を奪われてる限りこの島から出ることはできねえからな。親父から直接名前を奪い返すか、文ちゃんの本名を知っている誰かに聞くかしか方法はねえ。文ちゃんがその気になったら、俺も親父に掛け合ってみる」

 人魚族の紙に書いた名前を奪うという行為も、本物の神の風習を模倣したものだったのだろう。

「……分かった。よく考える」

 文は俯いていた顔を上げ、帆次の目を見て伝えた。
 帆次は満足げに笑う。

「それで虎一郎、戻ったらだめっていうのはどういうこと?」

 隣でじぃっと文の顔を凝視してきていた虎一郎に問うと、虎一郎は外を指差して言った。

「文、死んだことになってる」
「……え?」
「文にとっては多分、好都合。このまま隠れてた方がいい」

 文は半信半疑で外に出て、屋敷の外に出て目を凝らした。
 遠方を拡大して視ることができる目も、今となっては海雲族の力であると理解できるため、使用するのが怖くなかった。

 遠くにある人魚族の屋敷に灯りが付いている。
 一族の人々が焦ったように廊下を走り回っているのが小さく見えた。

 珊瑚は文を殺してしまったと勘違いして気絶したのだ。
 今頃珊瑚が目を覚まして、連続怪死事件は文が穴の底から出した虎一郎によるものだったということや、文を殺したという事実が屋敷中に広まっているのだろう。

「珊瑚さん、大丈夫かな……。どこまで正直に話したんだろう。虎一郎を生かしてたことが発覚して、今頃罰を受けてるんじゃ」

 人魚族は目玉を抉ったり腕を切り落としたりくらいなら平気でする。珊瑚が心配でならなかった。

「正直に話すという選択肢しかないよ」

 隣に立つ虎一郎の白い髪が夜風で揺れる。

「……どうして?」
「お爺様に話が行ったから」

 あの異形は珊瑚のことを支配している。正直に話せと命じられてしまえば珊瑚が逆らうことはできない。
 強張る文を安心させるように、虎一郎が文の頭を撫でた。先程帆次がしていたのを見て、安心させたい時はこうするのだと学習したのだろう。

「でも、原因となった文を自分の手で殺したってことになったから、一応許されてる」
「じゃあ……本当に私、戻らない方がいいんだね」

 文が今戻れば、屋敷の人魚族たちに珊瑚は文のことまで隠そうとしたと思われるかもしれない。

 ――『文ちゃんがやってきてくれて、わたくしと同じ運命を背負ってくれて……少しだけほっとしてる。これからはずっと一緒よ』

 しかし、このまま放っておくわけにもいかない。
 ああ言った珊瑚の顔からは、精神的に限界が近付いていることが窺えたからだ。

「……私、事態が落ち着いてきたら、珊瑚さんにこっそり会いに行ってみる」
「どうして。あの女は僕を捨てたのに」
「虎一郎にとっては最低な母親でも、私にとっては友達なの。ごめんね」

 足の裏の土を払ってから屋敷に上がると、濡羽色の上質な着物の男――帆次と文の父親が廊下にすぅっと立っていた。相変わらず、見惚れる程の端正な顔立ちだ。
 文は何と言っていいか分からず、無言で軽く会釈をする。

「さすが我が子だ。こうも怪異を手懐けるとは」

 父は文の後ろに立つ虎一郎を見て薄く笑った。
 帆次のことは人間とそう変わらないように思ったが、この男には浮世離れした雰囲気がある。見た目は人間であるのに、この男を前にしているとどうも落ち着かない。人ではない――ひしひしとそう感じる。

「……あの」
「名を返してほしいのだろう」

 父は先程の会話を聞いていたのか、文が切り出す前に言い当てた。

「私からお前の名を返すことはない」

 そして、結論を先に出してくる。

「……どうしてでしょうか」
「お前はまだ迷っている。外に出たいという確固たる意志はないだろう」

 その通りだった。
 反論できず黙っていると、父は満足げに命じてきた。

「ならば、この島に辿り着いたことを運命だと受け入れろ」
「…………」
「俺はお前を愛している。だからずっと捜していた。お前を危険な本土に戻すつもりはない。俺にいくら交渉しても無駄だ」

 帆次は文の選択肢を積極的に増やそうとしてくるが、父はそれを閉ざそうとしてくる。二人の方針の違いを感じた。
 目の前にいるのは、一度も会ったことがなかったというのに、文のことを愛していると言ってくれる神。けれど文はその愛に違和感を覚えた。人間である文の感覚からすれば、愛というのは血縁だけで決まるものではなく、培っていくものだからだ。
 それを教えてくれたのは誰だったか。亡くなった栃木の祖母の顔、優しかった頃の母の顔、父の顔が思い浮かぶ。

 不意に、目の前にいる血縁のある父が悲しそうに言った。諦めを孕んだような声だった。

「お前が自分の力で名を取り戻した時――その時選択するといい。自らの意思で、自身の未来を」

 次の瞬間、父の姿は消えた。

 思えば神に祈る時は心の中でお願いするものだ。神である父が心を読めても不思議ではない。
 文が先程栃木の両親のことを考えたということを、彼は察したのだろう。だからあんなにも悲しげだったのだ。

 文も何故か物悲しい気持ちになり、父がいなくなった後の廊下をいつまでも眺めていた。

 :

 闇の濃度が高まっていく。重たい暗幕が下ろされた茹だるような夜の中に、一人の日本人形のような美女――珊瑚がいる。

 ひたひた、ひたひた。
 珊瑚は裸足のまま虚ろな目で屋敷の廊下を歩き続けていた。

(消えてしまった。殺してしまった)

 首の裏を掻き毟りながら歩く。
 痒い。痒い痒い痒い痒い痒い。昨夜からずっと、痒い。首、足、腕、腹、背中、全身が。下半身に汗をかくので、足は余計に痒い。

(わたくしの救い。希望。いなくなってしまった)

 波打ち際に倒れていた、小さな小さな女の子。
 霧海村から流れ着いた、初めて珊瑚の体を気遣ってくれた女の子。この島でやっと見つけた、唯一の味方。
 なのに、少女は消えてしまった。失った。

(大好き。大好き、文ちゃん、大好き。大好きだった)

 ――もういない。
 この島でまた一人、苦しみ続けて生きていかねばならないという絶望だけが残された。
 また始まる。おぞましい異形の祖父と何度も体を重ね、身体全てを蹂躙され、犯され、死にそうになりながら子を産む毎日が。

「結局、こうなるのね……。わたくしに、幸せなんて訪れない」

 歩き続けているうちに、足がつっぱっるような感じがした。
 膝と足が異常に震え、珊瑚は廊下に崩れ落ちる。

(ああ、もう、だめよ。全て終わりよ。わたくしの人生、ずっとずっと辛いことばかりだった。死にたくて死にたくて、それでも生きてきたのに。その仕打ちがこれなのね。こんな運命なんだったら、もういっそ……)

 珊瑚の父親のように、霧海村からようやくやってた救世主は、王子様にはなってくれなかった。
 耐え続けて待っていたって幸せが訪れないのなら。希望がやってきても打ち砕かれるだけというのなら。

 ――――全て壊してしまえばいい。



 【第四章 銀鱗祭り】

 それから数日間、文と虎一郎は海雲族の屋敷で過ごした。
 虎一郎には普通の食事を与えたが、普通の食事では量が足りないようで、一人で山の怪異を狩りに行く日もあった。文は、彼が生き物として自分とは違うということを理解してそれを黙認した。
 毎度口の周りを血塗れにして帰ってくる虎一郎の姿を見ると複雑な気持ちになるが、他の肉食動物のように、食べなければ生きられないのだろう。文からの島民を食べないようにという指示には従っているので、それだけでも良しとすることにした。

 昼間は暑いのと、万が一人魚族の誰かに見つかることを考慮して海雲族の屋敷の外には出ないようにした。
 その代わり、夜になれば虎一郎と一緒に医者のいる病院に向かった。虎一郎がいれば怪異がいても喰ってしまうので安心である。いつの間にか、虎一郎がいつでも文の傍にいる護衛のような存在になっていた。

 赤い橋を越えた後、病院に来るまでの道にも色とりどりの提灯が吊るされ、暖かな光が石段を照らしている。いつもは真っ暗な道だが、祭りの前日であるためか夜でも明るい。
 飾られた花や幟が鮮やかに風に揺れているのを見上げながら、虎一郎と並んで歩いた。

 病院で、文は医者に人魚族の屋敷で聞いたことや見たことを全て話した。
 医者は文の話すどの話も興味深そうに聞いてくれた。

「ははあ、なるほど。あれだけ排他的な一族が一体どこで生殖しているのかと思っていましたが、仲間内だったのですねえ」
「でもこれくらい、先生は予想済みでしたよね?」
「近親婚を繰り返すことでその子供は伝染性の病気などへの耐性が低くなるという話もありますからねえ。ただ、仮説の状態であることと、確定した事柄であることとは扱い方が違います。ありがとうございます、文さん。貴方のおかげでこれを確定した事象として扱える」

 ストレートにお礼を言われ、文は少し照れながら笑った。
 虎一郎は文の隣で医者にもらった煎餅をバリバリと激しく音を立てながら食べている。米を食べる時も箸の持ち方など分かっていないようだったので、行儀については後で教える必要があるだろう。

「おいしい。先生、すき。先生も僕の母様」
「おやおや、私は男ですよお。せめて父親にしてください」

 虎一郎が医者のことまで母親扱いし始める。彼はおそらく餌をくれた者に懐くのだろう。
 文でなくても誰でもいいのだと知り、何だか少し拍子抜けだった。

 文は椅子の背もたれに背を預け、医者に出されたお茶を飲みながら窓の外を眺める。外に吊るされた提灯が揺れている。

「今夜は明るいですね」
「明日から銀鱗祭りですからね。島民が張り切って飾り付けていました」
「この島の祭り、結構盛り上がるらしいですね」
「ええ、私は不気味なので参加しませんが」
「不気味……?」
「あの、神輿に乗っている偽物の神。あれはよくないものですよ」

 神輿に乗るのは、人魚族でお爺様と呼ばれている異形だ。あの、聞くだけで吐きそうになるざらついた声を思い出し、ぞわぞわと寒気が走った。

「……私もあれは、よくないものだと思います」
「人魚族は、おそらく元々人の形をしていないのでしょうねえ。人の姿を模倣して人と共存して生きてきたのでしょう。あの偽の神は相当な高齢だ。もう人の形を作る気もないらしい」

 出会った時、珊瑚は他の姿にもなれると言っていた。珊瑚も元はあの異形のような姿をしているのだろうかと想像する。
 不思議と珊瑚なら怖くないと思った。

 窓の外で強風が吹き、病院近くに吊るされていた提灯がいくつか地面に落とされてしまった。

「拾いに行きましょうか。最近風の動きがおかしいですねえ。もしかすると、台風かもしれません」

 医者が立ち上がり、裏口から外へ出る。
 文と虎一郎もそれに付いていった。

 提灯を拾って結び直してから病院に戻ろうとした文は、虎一郎が立ち竦んでどこかをじっと見つめているのに気付く。
 湿気を含んだ風が吹き、草木が揺れた。そしてその風と共に、女の嬌声が聞こえてくる。

「ああ、あぁ、いいわ、もっと」

 ――よく聞いたことのある声だった。文の体が強張る。

「どうしたんです。文さん」

 病院に向かっていた医者が不思議そうに戻ってくる。
 文はその問いに答えず反対方向に歩み始めた。嫌な予感がする。額に汗が伝った。
 見ない方がいいかもしれない、そう思いながら、声のする方に近付く。幸いにも、虫や草や川の音が、その場に近付く文たちの足音をかき消してくれた。

 古い家屋が立ち並ぶその中に、ぼんやりとした明かりの灯った家がある。

 隙間から覗き込んだその先で――裸の珊瑚が、複数の男たちと交わっていた。

 男の体の上に跨り、喘ぎ狂っている珊瑚の姿を見て立ち竦む。
 決まった相手以外と行為に及ぶのは、邪淫の罪なのではなかったか。それを教えてくれたのは、珊瑚であるのに。

「ああ、いい、いい……っ」
「まったく、珊瑚様はこれがお好きですねえ」
「よくもまあ毎晩飽きもせず」
「今度こいつの長男を持ってきますよ。ブツがでかいんで珊瑚様も気に入るでしょう」

 髪を一つに結んだその組み紐は、文が珊瑚にあげたものである。よく似た別人ということは絶対にない。

 それだけでなく――珊瑚のうなじに、鱗が見えていて息を飲んだ。
 発症している。

 動揺してよろめき、後ろに倒れそうになった文を虎一郎が支える。
 ここまで付いてきた医者は全く動じておらず、ふむと顎に指を置いて頷く。

「ははぁ、そういうことですか」

 文はこれ以上珊瑚の狂ったような喘ぎ声を聞くのに耐えられず、虎一郎と医者を引っ張って早足でその場を離れた。

(あれは何? あんなの、珊瑚さんじゃない)

 文の知っている珊瑚は、花のような優しい笑顔を浮かべているはずだ。
 しかしあの珊瑚は――その肢体で男たちを受け止め惑わし、高い声で欲情を誘う化け物だった。

「おかしいと思ったんです。鱗生病が最近また島に増え始めたのが」

 文に引っ張られながら、医者が悠長に話を続ける。

「……どういうことですか」

 病院の中に入ったところで、文は遅れて医者に聞き返した。
 心臓がばくばくと嫌な音を立てている。
 珊瑚を囲んでいた男たちの言い草からして、珊瑚がああいったことをしていたのはあれが初めてではない。自分の知らない珊瑚の怖い部分を垣間見てしまった気がして、初めて珊瑚に拒絶感を覚えた。

「鱗生病の感染経路の一つは性行為。ここ最近の異常な広がりは、彼女が原因ということでしょう」

 あまりの衝撃のせいで、医者の分析もなかなかすっと頭に入ってこない。

「邪淫の罪というのを聞いたことがありますか」
「……この島で大罪として扱われている事柄ですよね」
「今は知られていませんが、鱗生病が性行為によって感染するというのは当時一部では囁かれていた説だったんです。今この島の人間が女性の純潔を重視するのも、当時鱗生病が大流行したことで性行為が厳しく取り締まられ始めたという経緯もあるのですよお」

 座り込んでいた文は居ても立っても居られず立ち上がった。

「珊瑚さんに、やらない方がいいって伝えなきゃ。きっとあの男の人たちに騙されてるんだ」
「わざとやっている可能性については考えないのですか?」

 しかし、医者に意味深長な質問をされて黙り込む。

「昔からあるじゃないですか。梅毒にかかった遊女が、自分の未来が明るくないことを嘆いて他の男を道連れにしようと、自身が病気であることを知っていながらそれを隠して行為に及ぶ……って話。人というのは自分が不幸であると他人の幸せを許せないものです」
「…………」
「珊瑚様は私が見てきた中でも特別に賢い女性です。そして歪んでいる。そんな彼女が、何も分からずに大罪を犯しているわけがない」

(……私もそう思う)

 頭の中で違う理由を探そうとしているだけで、文も本心では医者と同じ意見だった。

 同時に、嫌な可能性が頭に浮かんだ。
 鱗生病が爆発的に広がったのは、大昔、霧海村から村人が訪ねてきた時。
 人魚族は本来血縁者としか子をなさない。大昔の大流行も、人魚族が他種族と交わったことがきっかけなのではないか。

「……あの、仮説を言ってもいいですか」
「ええ、どうぞ。物事を観察して知り、仮説を立てることは大事ですよお」

 医者に促され、文はよろよろと歩いて椅子に座り、麦茶を飲んでから自分の予想を語り始めた。

「人魚族は元々、何らかの理由で全員感染していると仮定して。鱗生病は、人魚族が近親交配を繰り返している閉鎖的な一族だったからこそ感染が最小限に抑えられていたのではないでしょうか。でも、霧海村から人々が神様を運んできた時――おそらく、人間の中で初めて人魚族の誰かと性交渉をした者がいた」

 名を出すのに抵抗がありわざとぼやかして伝えたが、それがきっと珊瑚の両親だ。
 七海の口ぶりからすると珊瑚の父親は霧海村から来た人間で、更にはかなりの遊び人。島で性交渉をした相手は珊瑚の母だけではないだろう。その頃まだこの島が性に開放的であったのなら、感染した人間がまた別の人間と行為に及び、そしてその別の人間がまた別の人間と……と繰り返されたと考えてもおかしくはない。
 そして、霧海村から来た人間が村に戻った時、村でも流行が広がった。

「人魚族が鱗生病の病原体に特別弱いのではなくて、強いんだと思います。だから感染しても発症までが遅い。それと違って人間は、感染したらすぐに発症する。だから当時は一気に死亡者が出て騒ぎになった……ということだと思います」

 話している内に落ち着いてきて、緊張が解けてきた。
 文はいくらか冷静な気持ちで医者を見据える。

「人魚族は死体の遺棄も適当でした。それ以前の感染はそれが原因だと思います。火葬する習慣もなくて、死んだ人はそのまま捨てている。おそらく殺した奇形児もでしょう。その血に傷口が触れた人間が感染した。ただそんな機会は滅多になく、その頃はまだ島でも数少ない珍しい病気だったはずです」

 ちらりと虎一郎に視線をやった。
 辻褄は合うが、何か引っかかる。そう思いながら話を続ける。

「虎一郎が感染していないのも、穴の底にいて人魚族の人と性行為をしていなかったからでは……」
「それだけでは少し不十分です、文さん」

 それまで黙っていた医者がここでようやく口を挟んできた。

「一生のうち、出産のための性行為を過度に強いられているのは、人魚族の中でも女性だけです。先代の残した記録では、性経験が一切ないのに鱗生病で死んでいく人魚族の男が沢山いた」
「……性体験がなくても感染していたってことですか?」
「大昔、病院に来た人魚族の男のほとんどが問診で性体験の有無について無しと答えているのですよお。おそらくですが、人魚族の中でも特定の男のみが女性と交配しているのではないでしょうか」

 すぐにあの、一族からお爺様と呼ばれる異形が思い当たる。
 彼が一族の女を独り占めしているとして、感染の原因を輸血や性行為に限定すると頻度が高すぎる。
 確かに以前医者から借りた記録を読む限りでは男も百発百中で感染していたし、他にも何か原因があったと考えるのが妥当だろう。

 虎一郎に人魚族に特殊な習慣がなかったか聞こうと思ったが、長年穴の底に閉じ込められていた虎一郎に聞くのも可哀想かもしれないと口を噤む。
 しかし、文の視線に気付いたらしい虎一郎が先に言った。

「文が知っている以上の特別なことはしてないよ」
「……凄い。よく私の聞きたいことが分かったね」
「文のことなら分かる。以心伝心、ってやつ」
「でも虎一郎、ずっと穴の中にいたんでしょう? どうして人魚族の習慣について断言できるの?」
「僕、耳がいいから。穴の中で人魚族のお話、全部聞いてた」

 穴の底で一度も来ない母親を待ち続け、ただ家族の話し声に聞き耳を立てて暮らす日々は、どんなに寒かっただろう。苦しかっただろう。
 胸が締め付けられるような心地がして、文は虎一郎を抱き寄せて撫でた。虎一郎は嬉しそうに擦り寄ってくる。


次話:追加予定

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?