「人魚隠しし灯篭流し」第八話
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少しだけ銀鱗島の祭りに興味が出た文は、盛り付けをしながら意気込んだ。
「ちょっと怖いけど、祭りまでには怪異をやっつけられるように私も頑張るよ」
「……ええ? 文ちゃんが頑張る必要なんてないのよ? 怪異については家の人達が対処してくれているから」
「実は、私も今夜見張りを頼まれてるんだよね」
そう打ち明けると、珊瑚の表情が分かりやすく曇る。
「それ、大丈夫なの、文ちゃん」
「命じられちゃったから仕方ないよ。どうにか頑張ってみる」
「どこ? まさか、離れ?」
文はあっさりと肯定する。珊瑚の眉が寄った。
「文ちゃんはやっぱり、自分の命に対して無頓着すぎると思うわ。どうして断らなかったの?」
生きることに無頓着――少し前の文であればそうだっただろう。
しかし今はそうではない。〝珊瑚や帆次のために鱗生病の原因を解明する〟という目的が文の生きる意味になってくれている。
「大丈夫。今すぐ死にたいとはもう思ってないから」
安心させるためにそう言って微笑むが、珊瑚は最後まで心配そうな顔をしていた。
:
夏の夜の闇が立ち込めている。
誰もいない離れ屋は静かで、虫の声しか耳に届かない。
寝転がると眠ってしまいそうなので、部屋の畳の中心で正座し、朝が来るのを待った。掃除したとはいえ床にはまだ古い血がこびり付いており、遺体から血を取ったあの日のことを思い出す。
文は緊張を解すため、すうっと息を吸い込んでからゆっくり吐いた。
何もなければそれでいい。今夜他のところで殺人が起きれば怪異の侵入場所が離れ屋の近くにはないと分かる。
その時、背後で畳が軋むような音が聞こえた。
咄嗟に斧を構えて立ち上がり振り返る。
しかしそこにいたのは怪異ではなく――驚いた顔をする帆次だった。
「は、帆次? びっくりしたぁ……」
「驚いたのはこっちだよ。いつもの場所にいねぇと思ったら、何で斧なんか持ってこんなとこいんだ?」
文はほっとしながら構えた斧を下ろす。
「どうしてこの場所が分かったの?」
「お前の匂いを辿った」
海雲族は嗅覚も優れているらしい。
文は帆次がいることで安心感を覚えて脱力した。文一人であれば怪異に立ち向かえずとも、帆次とであれば初めて怪異と対面したあの夜のように逃げ切ることができるだろう。
帆次は髪を掻きながら不審そうに辺りを見回す。
「この屋敷全体に血の匂いが充満してんな。何かあったか?」
「毎晩殺人事件が起こっているの。人魚族が必ず一人喰われてる」
「はあ?」
「怪異が中に入り込んでるとかで、私がここの見張りを任された」
帆次が畳の上で胡座をかくので、文も再び正座した。
「私、しばらく帆次のところには行けない。人魚族に支配されてしまっているから」
「支配? あの、紙に名前書かれるやつか?」
「知ってるの?」
「この島じゃ有名な話だ。神様には支配の力が宿っているってな。つーか、それだけなら別に文ちゃんは問題ねぇんじゃねーの? 本名じゃねぇし」
「……うん?」
本名ではないという言葉の意味がうまく飲み込めず聞き返す。
「この島で付けられた仮名だろ、〝文〟は」
「……え? 何言ってるの? 私は文だよ」
「そうじゃなくて、■■子だっただろ、お前の名前は」
――こぽこぽこぽ。耳の中で水泡のような音がして、帆次の声が一瞬聞き取りづらくなった。
「ごめん、なんて言った?」
少し顔を近付けて聞くと、帆次が顔を顰めた。
そして、忌々しそうに舌打ちをする。
「あのクソ親父、本気で名前奪ったのかよ」
だから早く島出ろって言ったんだよ、と帆次が文を睨みながら意味の分からない文句を言ってくる。
文は狼狽した。
「こうなったら海雲族の俺が真の名を教えても意味ねえ。誰か他に名前が変わる前のお前のこと知ってる奴いねぇの?」
「……帆次、本当に何言ってるの」
「あ~……だよなぁ。理解できねぇよな。あの親父がここまでお前をこの島に留めようとするってことは、やっぱりお前は……」
――――帆次が何か言いかけた時、ぎしりと別の何かの音がした。
「文、そいつ、誰」
数日ぶりに聞く声だった。
暗闇の中、ぽつんと長身の虎一郎が佇んでいる。
その白い髪は数日会わなかっただけでもうすっかり伸びきり、床に付いていた。
久しぶりに虎一郎に会えたことが嬉しく、帆次を紹介しようとした文は、ふと虎一郎のある部分に目が行って口を閉ざす。
虎一郎の着ている着物の大きさが、虎一郎の体に全く合っていない。
まるで誰かから衣服を剥ぎ取ったような不自然さがある。
文の頭に、今朝片付けた遺体の姿が蘇る。
一つだけ、不自然に何も身に纏っていない遺体があった。
「……虎一郎、何で夜中にこんなところにいるの?」
嫌な予感を覚えて恐る恐る問いかけた。
そもそもこの男は普段どこにいるのか。
この三日間文は屋敷中を駆け回っているが、虎一郎とは一度もすれ違ったことがない。
「ご飯食べてから、文に会いに来た」
にこりと笑うその口元に、獣のような牙が見えた。
月明かりが差し込んで虎一郎の顔がはっきりしてくると共に、文ははっと息を飲んだ。
虎一郎の口には、血液がべったりと付着している。
「……ご飯って、何を食べてきたの?」
心臓が嫌な音を立てる。言葉を口から発するだけで精一杯だった。
虎一郎がこてんと首を傾げる。その赤い二つの目が闇の中で爛々と光っており、血も凍るような不気味さを感じた。
――その目はまるで、あの日山の中に見た怪異のような色をしている。
「文、何でそんな顔するの? 僕と会えて嬉しくないの? ずっと捜してたんだよ。僕、この屋敷の人間に見つかったら殺されちゃうから、こっそり動けるのは夜だけなんだ。この三日間、文がどの部屋にいるかずっと捜してた。ねぇ、偉いでしょ。褒めて」
「し、質問に答えて。何を食べたの」
「この屋敷の人だよ」
衝撃でひゅっと息を吸い込む。
あの惨状を作り上げたのは、一緒に死体を運んでくれた虎一郎だったのだ。
「……どうしてそんな、残酷なこと……」
喰い荒らされ、惨い有り様になっていた遺体の山。
虎一郎があんなものを作ったとは信じられないままに後退る。文は、自分のことを母親だと言って無邪気に懐いてくれる虎一郎に対し、気付かぬうちに愛着を抱いてしまっていた。しかしその愛着がこの一瞬で崩れ去っていくのを感じる。
虎一郎が文の中で〝理解のできない生き物〟に変貌してしまった。
「残酷? この屋敷の他の人だって、お魚食べてるよ。食べることの何が残酷?」
文はその問いに口籠る。
「ねぇ文、文までそんなこと言わないでよ。そんな目しないでよ。このお屋敷の他の人もね、昔そういう顔して僕のこと化け物扱いしたんだ。僕は昔から何でも食べてしまうから、化け物なんだって。でも文はこんな僕でも受け入れてくれるでしょ? 文は僕の〝本物の母様〟なんだから」
七海が、異常な行動を起こす子供は化け物と呼ばれて捨てられるか殺されると言っていた。
虎一郎もその、異常な行動を起こす子供の一人だったのだろう。だから一族の一員として認められず、名前もなかったのだ。
「こいつはお前の母親じゃねぇよ。得られなかった愛情をこいつに求めんな」
何も言えずに立ち竦む文の横で、帆次が口を挟んできた。
途端、虎一郎の目がつり上がる。
「君は何? さっき、島を出ろって話してたよね? 僕から文を奪うつもり?」
「いつまでもここにいるべきじゃねぇんだよ、こいつは」
帆次がそう吐き捨てた次の瞬間、強い風が吹いた。
それは虎一郎が素早く移動したことによって発生した風だった。
横を見れば、虎一郎が帆次の喉元に噛み付いている。帆次の血が噴き出し、畳の上にぼとぼとと落ちる。文は「ひっ」と短い悲鳴を漏らした。
「やめて! お願い、やめて……っ!」
必死に虎一郎の体にしがみつき止めようとするが、虎一郎の力は一向に抜けず、帆次が床に倒れ込んだ。まだ息はあるがこの出血はすぐにどうにかしなければまずい。
「帆次! 帆次ぃ……!!」
混乱して泣きながら帆次の首を押さえる文。その頬を虎一郎の血塗れの手が覆い、文の顔を上を向かせる。
「君は一生僕のものだよ。この島から出ることは許さない」
「……っう、うう……」
「やっと見つけた母様なんだから。文を僕から奪おうとする奴は、僕が一人残らず喰い殺してあげる」
泣きじゃくる文が見えていないのかそれを見ても何も感じないのか、虎一郎は満面の笑みを浮かべて囁いてきた。
絶望して動けなくなった文の沈黙を打ち破ったのは、この場にはいなかったはずの第三者だった。
「――――文ちゃんから離れなさい!」
虎一郎に勢いよく体当たりし、体勢を崩させたのは珊瑚だ。
フーッフーッと荒い息を吐いて虎一郎を睨み付けている。
珊瑚を視界に捕らえた虎一郎の表情が変わった。まるで顔が剥がれ落ちのっぺらぼうにでもなったかのように、何も無い――〝無〟の表情になった。
「何が母様よ! 貴方はわたくしの子供でしょう……!?」
珊瑚の言葉に驚いて虎一郎をもう一度見る。
虎一郎は無表情のままギリギリと歯を食いしばっていた。
「……母親じゃない……お前なんか……」
地の底から這いずり出てきたかのような、恨みの念が籠もった低い声だ。
「僕を何十年も穴の底に閉じ込めて、一度も会いに来なかったお前が、僕の母親を名乗るな!!」
その反応で点と点が繋がる心地がした。
珊瑚は以前、自分の子供は〝一人を除いて〟健康体だったと言っていた。珊瑚が産んだ子供の中で、唯一この一族で言うところの〝化け物〟だったのが虎一郎だったのだろう。
迫害されて閉じ込められた虎一郎に初めて優しく手を差し伸べたのが文だったのだ。だから虎一郎は文を母親にすることにした。
本物の母親が自分をこんな状況にするはずがないと。珊瑚ではなく、文こそが本物の母親であると思い込むことで、自分の心を救おうとした。
「ああでもしないと貴方は殺されていたのよ!」
「うるさい! うるさい……!」
「病的な食欲があるうえに、同種を見境なく食べる貴方を野放しにしていたらいずれ人魚族が滅びる! だから殺せと言われたの! だから、貴方を生かすには貴方を閉じ込めるしかなかった……!」
珊瑚が悲鳴のような声で訴えかけ続けるうちに、虎一郎は呻きながら逃げ去っていった。
珊瑚とこれ以上顔を合わせていたくなかったのか、珊瑚のことが恐ろしかったのか――虎一郎の心境は分からないが、何だか酷く辛そうな顔をしていたように見えた。
本当は実の母親である珊瑚から望む愛情が欲しかったのかもしれないと思うと、とても虎一郎に斧を向けて追いかける気にはなれなかった。
「う……」
下から声がしてそちらを向く。
幸いにも帆次の首の傷口の血が固まり始めている。意識はないようだが、人間を超越した治癒能力だ。帆次が海雲族でよかったと安堵した。
帆次が息をしていることを確認してからふと珊瑚を見上げると、珊瑚が冷たい目で文と帆次を見下ろしていた。
その手には、文が七海からもらった斧がある。
「退いて、文ちゃん。そいつにとどめを刺すわ」
珊瑚の姿が、目が、恐ろしい顔が、数日前斧を持って文を殺そうとしてきた七海の姿と重なる。
文は咄嗟に帆次を揺り動かした。自分よりも大きな体を運んで逃げるのは無理だ。帆次に起きて逃げてもらわねば殺されてしまう。
「薄汚い侵入者。そいつがわたくしの息子を穴の底から出したのよ」
「それは違う! 虎一郎のことを出してしまったのは私だよ!」
「……そいつを庇うの?」
珊瑚の声が怒気を帯びている。
文は怯みそうになりながらも言い返した。
「庇ってるんじゃない。本当に私なの。私が虎一郎に水やご飯を与えてしまった……きっと虎一郎は、そのせいで穴の底から出てしまったのだと思う」
珊瑚の表情はそれを聞いても全く変わらず、冷たい目で帆次を見下ろしている。
「よく分かったわね。あの子は人一倍成長が早いの。少し食事をするだけで急激に成長するし、人間を超えた力を身に着けてしまう。だからまだ力の弱い幼少期に、ぎりぎりまで飢えさせてあの穴の中に閉じ込めた。なのに……出てきてしまったのだから仕方ないわ」
「本当にごめんなさい、軽率だった、全部私のせい、だから帆次はっ」
「文ちゃんは悪くない」
そこでようやく、珊瑚が文の方に視線を向けた。
文を安心させようとしているのか、その顔は優しく微笑んでいる。
「そいつを全ての元凶ということにすれば丸く収まる。だから、退いて頂戴」
珊瑚は文の行動が全ての始まりだったとよく理解した上で、それを隠蔽し、帆次に罪を押し付けようとしているのだ。おそらく、文を庇うために。
何度揺らしても帆次は起きない。文は必死に叫んだ。
「待って珊瑚さん、私そんなことされても嬉しくない!」
しかし文の言い分など無視して、珊瑚は斧を振り上げた。
その目に憎しみが籠もっていることに気付く。ああそうか――珊瑚は文を庇いたいだけでなく、帆次のことを殺したいのだ。
それほどまでに彼女は海雲族を嫌悪している。
「忌まわしい生き残り。こんな奴らも、霧海村の連中も、この島に来た時点で全員殺しておくべきだったのよ」
ぶつぶつと何かに取り憑かれたように呟いた珊瑚は震える声で叫びながら斧を振り下ろした。
「お前らがこの島に来なければ、わたくしがこの屋敷に生まれることもなかったのに!」
血が滴った。
その血は帆次の血ではない。
頭上の珊瑚がはっとしたような顔をして悲鳴を上げる。
殺されかけた帆次を庇い、文が体で斧を受け止めたのだ。
「ふみちゃ、文ちゃん……っ! いや、嫌ぁぁぁぁぁ! わ、わた、わたくし、文ちゃんを殺してしまった……!」
動揺したのか斧を手放して後退った珊瑚は、血塗れの文を見て血の気が引いたのか白目をむいて畳の上に倒れ込んでしまった。
不思議と痛くない。しかし血は止まらない。斧を受けたのは肩から胸にかけての部分だ。助からないかもしれない。
文はひとまず帆次を逃さなければならないと思い、必死に帆次の腕を持って引きずった。血がぼたぼたと垂れ落ち畳を汚していく。
(やっぱりそうだったんだ……)
先程の珊瑚の言葉で、疑惑が確信に近付いた。
(この推測が正しければ、私はきっと……)
何とか帆次を外まで連れ出したところで、帆次の意識が戻った。
ほっとして声をかけようとしたが出血量が多く言葉を発することができなかった。
血だらけの文を目にした帆次はすぐに状況を理解したのか、さっきまで倒れていたくせに文を抱えて空へと跳び上がる。
帆次の向こうに満月が見えた。
夏の蒸し暑い空の中、文は自分を運ぶ帆次の金色の瞳を見てやはりそうかと確信する。
きっと今、文も金色の目をしているだろう。
「帆次、私、帆次の妹かもしれない……」
斧で切り付けられたというのに既に血が止まり始めている。
その驚異的な治癒能力は帆次と全く同じ、おそらく海雲族のみが持つ力だった。
「はあ?」
急に何言ってんだ、と言いたげな目で文に目をやった帆次は、文の顔を見てはっと黙り込む。おそらく文の瞳がまた金色に光っているのだ。
そして体も治ってきている。文が人ではないと言われても納得せざるを得ないだろう。
「ずっと、帆次のこと懐かしい感じがするって思ってた」
「…………」
「きっとお母さんのお腹の中で一緒だったんだね……」
文は戦争孤児だ。栃木にいる母親は本物の母親ではない。
そして、血の繋がらない祖母からはおかしな話を聞いたことがある。
終戦後の闇市で、ある卵を売っている店があったと。
その店には悪い噂が流れていて、誰もあまり近付かなかったらしい。
それは、そこで売られているのは人魚の卵で、その卵からかえった子は、その店の近くの海に捨てられるという内容だった。
様々な真偽の分からない噂話が飛び交っていた時期だ。祖母はその話を信じていなかったらしい。しかし、偶然にも文はその店の近くで見つけて拾った赤子だったという。
:
照明器具の中の炎がゆらゆらと揺れている。
いつも来ている広い畳の間で止血してもらいながら、文は自分の予想が正しいかどうか確かめるため帆次に複数の質問をした。
「このお屋敷はいつも静かだよね。他の海雲族の人達はいなくなっちゃったの?」
「ああ。海雲族が霧海村からこっちに来た頃、病が爆発的に広がった少し後に、海雲族が原因ではないかと疑った島民と人魚族が海雲族を同時に襲ったらしい。その時に海雲族のほとんどが殺されて、力の強い者だけが生き残った。飢饉や病の際は人は皆不安になるし、原因を探したがる。そんな時に馬鹿にも分かりやすい原因と解決策を作り上げ、海雲族の大量虐殺を主導した人魚族は人々から崇められた。そして、自分たちこそが神だとのたまい始めた」
「やっぱり……海雲族が、霧海村で祀られていた本物の人魚の神様の一族ってこと?」
海雲族が神であるということは、文も神であるということである。恥ずかしい妄想を言っていないだろうかと不安に思いつつ帆次を見つめると、帆次がゆっくりと頷いた。
文は自分の予想が合っていたことにひとまずほっとし、息を吐いた。
「大量虐殺で母数が減ったせいで、その後数百年かけて海雲族はどんどん減って滅亡の危機に陥った。だから親父は数少ない血縁の中から自分の後継者を見つけるため、本土にいる自分の子供を捜し始めたんだ」
「その、お父さん……? が捜してた本土にいる子供っていうのが、私達のことで合ってる?」
あの時見た海雲族の見目麗しい当主を父親と表現するのには何か違和感があるが、他に呼び方がないのでお父さんと呼んでみた。
「ああ。親父が愛した女の中に、一人だけ人間の女性がいて、そいつは霧海村に住んでた。何でも霧海村の伝統である灯篭流しの灯篭に、毎年恋文を結んで流してきたんだと。それがとんでもなく美しい字と内容で、親父の琴線に触れたらしい。親父は今でもその手紙を全部大切に仕舞ってあるくらいその女が好きだった。――それが俺らの母親だ。文っつーのは、その女の名前で、彼女はもう死んでる」
「…………」
「人間の母体には神の子を宿すというのがきついものだったんだろう。こうして卵を、俺らを産めただけでも奇跡だ。卵の中で無事にかえって成長できたのは二つだけだったと聞いてる。それが俺と文ちゃんなんだろうな。だから親父は文ちゃんに執着してるわけだ。愛した女が遺した形見みたいなもんだから」
海雲族だけ鱗生病が重症化しないというのも、そもそも神に人間の病が通用しないからだろう。
あの医者は文の体を調べた時に異様さを感じて、海雲族の者だと勘付いたのだ。彼は代々続く病院の跡取りである。そのうえ、先代がこの島の過去の記録を多く残しているようだった。霧海村から来た神の話と、その後何が起こったか、真実を知っていてもおかしくはない。
「でも私、これまで普通の人間だったよ。転んだら足を擦りむいて怪我してたし、特別治りが早かった覚えはない……。目の色もずっと黒だったし」
「それは……」
帆次が何か言いかけて、気まずそうに目を逸らした。
「……お前、もしかして死のうとしてたのって、誰かに無理やり何かされたとかか?」
はっとして黙り込む。
すると、一瞬にして帆次の顔に憤激の色が漲った。
「そうかよ。そういうことかよ」
「……ごめん、それとこれと、何の関係があるの?」
「俺ら一族の力が目覚める条件は、生殖行動を行うことだ」
文が海の中に入ったのは、茂との情事の後だった。人魚の力があるということは海の中でも生きていけるということ、なのかもしれない。これで、本土から距離のある銀鱗島に生きたまま流れ着いたことにも説明がつく。
(あいつのせいで死にたくなったのに、あいつのせいで生き残った……)
文はぎりっと歯を食いしばった。
文の心を追い詰めた茂はきっとこれからも本土でのうのうと生きていく。それが許せない。憎しみなんて心の内にあったところでどうにもならず、自分を苦しめるだけだと分かっているのに、どうしても彼が許せない。
――黒い気持ちで心が染まり上がりそうになった時、帆次が文を強い力で抱き寄せた。
「大丈夫だ。怖くない」
その優しい声のおかげで現実に戻ってきた心地がした。
負の感情に呑み込まれそうになっていた文のことを帆次が引き戻してくれたのだ。
帆次の腕の中は酷く安心する。
気付けばぼろぼろと涙が溢れていた。
「文ちゃんには神が味方に付いてる。くそ親父に何があったか全部言ってやる。親父は容赦ねぇから、文ちゃんに嫌なことした奴はきっと死ぬより辛い目に遭う」
「……っう、ん」
「俺だって文ちゃんの味方だ。辛くなったらいつでも傍にいてやる。一応、その……兄貴なわけだし。頼ってくれよ」
忘れよう、忘れようと何度も自分に言い聞かせ、あの日の記憶を消そうとした。
しかしそうすればそうしようとする程茂の記憶は脳にこびり付き文のことを苦しめ続けた。
しかし今、誰にも吐き出せず胸の内に溜まっていたものを共有する相手ができた。それだけで少し、ほんの少しだけだが心が軽くなった。
ひとしきり泣いた文は、泣き疲れて帆次の腕の中で眠ってしまいそうになった後、はっとして飛び起きた。
「朝が来る前に屋敷に戻らないと、七海さんに殺されちゃう……!」
悠長にしている暇はない。
切り裂かれてしまった衣服の端と端を結んで体を隠し、屋敷を出ようとする。
――その時。
「文、戻ったらだめ」
部屋の隅に、長髪で白い髪の男――虎一郎がひっそりと佇んでいた。
隣の帆次も気配を感じなかったようで、はっとして身構える。
虎一郎の身にかかっている血の量が増えている気がした。
おそらくここに来る道中で誰か襲ったのだろう。
「また誰か食べたの? まさか、島の人を……?」
「違う。化け物を食べた。僕は同種が一番スキ。人間は、まずいから」
「……化け物?」
「山にいた子供たち。僕の親戚」
文は目を見開いた。
そういうことか、と思った。
珊瑚は初めて会った時、自分たちは霧海村に祀られていた神であるということをあっさり肯定した。屋敷でそのように言えと教えられたのだろう。
人魚族は霧海村からやってきた人魚の神様に成り代わろうとした存在――実際には、この島に元々いた〝神ではない何か〟である。
「帆次、分かったかもしれない」
「……ああ。俺もだ」
「この島の人達が〝怪異〟って呼んでるのは――人魚族で言う〝化け物〟のこと。人魚族は古くからこの島に生息する怪異で、その中でも身体的あるいは精神的に異常な子供は捨てられて、山に棲むようになったんだと思う」
怪異が捜しているのは――母親か、同年代の遊び相手。だからずっと島を練り歩いているのだ。子供を好むというのもそういうことだろう。
人魚族はおそらく、人の形を模倣している怪異である。人の形になれないものを、自分たちの都合で奇形としているのかもしれない。
「虎一郎。これから私がお願いすること、聞いてくれる?」
目の前にいるのは化け物だ。人ではない。
しかし話が通じる。まだ望みを捨てるべきではないと思った。
案の定、虎一郎は嬉しそうに微笑む。
「うん、文、大好きだから。文の言うことなら何でも聞く」
「……じゃあ、私が食べないでって言った存在は食べないで。屋敷にいる人達には今後一切手を出しちゃだめ」
「……でも、皆もお魚を……」
「理屈じゃないの。私が嫌だから、やらないでほしい」
虎一郎はしばらく文を見つめた後、「……分かった」と小さな声で呟いた。明らかにしゅんとしているのがまるで親に叱られた子供のようで、図体は大きいが精神年齢は未熟なのだろうと感じる。
【次話】
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