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「人魚隠しし灯篭流し」第七話

【第一話はこちら】



 医者は紙とペンを取り出し、ウイルスと細胞の絵を描きながら文に説明し始めた。

「ウイルスが感染する時は、ウイルスの表面抗原と人の細胞の表面抗原が合致する必要があります。例外はありますが基本は細胞の表面に結合しないと入り込めないですからねえ。鱗生病の原因となるウイルスの表面抗原が、ある遺伝子を持っている人に感染しやすいような抗原であるとしたら、特定の一族にのみ異常に感染するというのも理論上は成立する。例えば白血球に感染するとして、白血球の表面抗原のうち人種間で多様性を認めるものが存在し、その抗原を持つ人にだけ感染しやすいウイルスがあるとするとあり得ない話ではない。そんなものが本当に実在するかは別としての、仮定の話ですが」
「……あの、じゃあ、人魚族が特別かかりやすくて、通常状態でほぼ必ずかかるっていう仮定でいくと、虎一郎が感染していないということの方に何か特殊な原因があるかもしれないってことですか?」

 文が食い気味に問いかけると、医者は深く頷いた。
 感染する者と、感染していない者の違い。それが分かれば鱗生病の予防策も見つかるかもしれない――と、文は期待を抱く。

「まぁ、これはそもそもほぼ私の妄想ですから、あまり真に受けないでほしいのですが。人魚族は年々閉鎖的な一族になっていますから実体が掴めなくてですねえ。何かしら人魚族の間に感染を促す特殊な風習などがあって、それが原因で感染者の数が増えているということなら理解できるのですが確かめようがないので、他の要因を妄想してしまうのですよお。ふはは」
「……私、ちょっと中から人魚族を観察してみます」

 立ち上がって宣言した。
 医者は人魚族の屋敷に入れず、会うこともできない。であれば、人魚族の普段の生活を見ることができるのは文だけだ。内側に招かれている文にしかできないことである。

「おお、頼もしい。いいのですか」
「そのつもりで私に話しましたよね?」
「ほほほ。その通りです。貴女には否が応でも人魚族の実体を明らかにし、こちらに報告してもらいたい」

 文は深く頷いた。やっと、死ぬ前に何か残すことができそうな気がする。
 医者は面白そうに目を細めた。

「その勇気と行動力。貴女、学者が向いているかもしれませんね」
「学者……。私、そこまで頭良くないですよ。それに学者なんて女がすることじゃないでしょう」
「さあどうでしょう。文さんが島を出る頃には、時代が変わっているかもしれませんよ。文さんの将来が楽しみです」

 島を出る前提で話をしてくる医者。意地でも茂がいる本土に帰るつもりのない文は少し不快に思った。

「先が長くない者に未来の話をするのはあまりよくないと思いますが……」
「先が長くない? 私、いつそんなことを言いましたか?」
「進行の速さに差があるとはいえ、発症したら死に至るんでしょう。鱗生病は」
「ああ、まあ、そうですねえ。しかし文さん、貴女は問題ないです。現に斑点、消えているでしょう」

 医者に指摘され、袖を捲って腕を見る。紅い斑点がなくなっていた。
 そういえば、医者にもらった痒み止めを一度も使っていない。いつの間にか痒さがなくなっていたからだ。

「……何で……」
「言ったはずです。貴女は人と違うと」

 意味深げに笑う医者の眼鏡が光っている。
 どういう意味かと問う前に、医者の後ろにある時計が目に入った。
 もうすぐ日暮れだ。文は慌てて走り出す。

「ごめんなさい、私一旦帰ります! 虎一郎、行こう!」

 文が早口でそう言って手招きすると、座っていた虎一郎が付いてきた。
 二人で走って人魚族の屋敷に戻る。日が暮れかけていて、日中よりは少し涼しかった。

 :

 離れ屋から入って珊瑚たちがいるはずの屋敷の方に向かうと、中年女性が待ち構えるように立っていた。
 文のことを視界に捉えた長年女性は、蛆虫を見たかのような表情をする。

「きったないねぇ! 先に風呂に入りな」

 吐き捨てるように言われた。
 この島に来てから文は湯に浸かっていない。珊瑚が用意してくれた濡れたタオルで体や髪を拭くだけだった。久しぶりに風呂に入れるのかと期待が高まる。

「やったね、虎一郎」

 虎一郎も嬉しいだろうと思って振り返る。
 しかし一緒に走ってきたはずの虎一郎はそこにはいなかった。離れ屋に着くまではずっと付いてきていたはずなので、何か急用ができたのかもしれない。

「何だい、虎一郎って。架空の友達か? 頭がおかしくなったのかい」

 中年女性が不審がって聞いてきた。
 あれ? と思いつつも、あまりわけの分からないことを言うと苛立たせてしまう気がして、何でもないですと笑って誤魔化した。

 案内されたのは狭い五右衛門風呂だった。湯気が出ていて熱そうだ。
 風呂桶を使って体と髪から付着している血を流した後、教えられた通りに浮き蓋に足を乗せ、足で板をお湯の中へ踏み沈めながら入る。鉄の釜に直火でお湯を沸かしているので、直接足を付けると危ないらしい。
 中年女性は風呂の外でずっと立っているようだった。文が出てくるのをずっとそこで待っているつもりらしい。

「……おばさん、わざわざ待っててくれてありがとうございます」
「おばさん、だぁ?」
「ごめんなさい、お名前を知らないので、なんと呼べばいいのか……」

 戸で隔たれた向こう側で、大きな溜め息が聞こえた。

「七海《ななみ》だよ」
「七海さん……。私は文といいます」
「知っているよ。今日聞いたからね」
「すみません……」

 常時不機嫌な七海に何となく謝った後、目を瞑って湯の熱さを堪能した。銀鱗島に来てからの疲れが一気に抜けていく感じがした。入浴でしか得られない爽快感がある。

「あたしもねぇ、自死しようとしたことはあるよ。それで生き残っちまった。アンタと同じさ」

 長く湯に浸かっている文に向かって、外の七海がぽつりと言った。
 釜の中の文は目を開き、そちらに顔を向ける。

「何で死のうとしたんですか?」
「……アンタ、配慮に欠けるって言われないかい。そんなもの言いたくないに決まっているだろう。アンタだって自殺未遂をした理由、言いたかないだろ」

 その通りだったので沈黙した。
 まだ人に話せる程には立ち直れていない。それに、珊瑚が言うにはこの島の人間は決まった相手以外と結ばれることに相当な嫌悪感を持つらしい。折角疑いが晴れて生かされたというのに、七海にこれを言うのは悪手だろう。

「ごめんなさい。軽率でした」

 素直に謝罪し、湯から上がる。髪の毛の水分を絞り、ほかほかの濡れた体を布で拭いていた時、七海が何を思ったのか打ち明けてきた。

「もう二百年程前の話だよ。あたしが最後に死のうとしたのは。ちょうど第一子を産んでから、十四年が経った頃だった」

 十四年。一人目の子供が十四歳の時ということは、子供が文と同い年だった頃ということである。

「人魚族には結構な頻度で奇形児が生まれてくる。あたしの一人目の子供も例に漏れず奇形児だった。当時の人魚族は奇形児が生まれたら殺すか捨てるか。あたしの子供も、殺せと命じられた」

 あまりにも残酷な話だ。軽々しく聞くべきではなかったと激しく後悔する。

「あたしはね、それに抗ったんだよ。若い頃のあたしは馬鹿だったんだ。一族を相手に歯向かえると自惚れていた。実際、あたしは一人目の子を別の屋敷に隠して育て上げた。十四年間、ずっと」
「それが、見つかってしまった……ということですか?」
「ああ。屋敷の他の者からはこっ酷い仕置きを受けたし、お爺様には子と決別するために自らの手で殺めろと言われた。もう、道は残っていなかったんだ」

 平然と喋っていた七海の語尾が突然、震え始めた。

「だから、だからあたしは……一緒に死のうと思った。愛しい我が子を殺すしかないのなら、あたしも一緒にこの世を去ろうと思った。一緒に海の中に沈んだんだ。なのに――死んだのはあの子だけだった」
「…………」
「目を覚ます頃にあたしは海辺に引き上げられていて、あたしだけが助かっていた。見事、無様な死に損ないというわけ! アンタと一緒さ。あは、あははは、ハハハハハハハハハ!」

 離れ屋の傍で笑われた時、何がおかしいのだろうと思った。人の不幸を笑う七海は何と醜いのかと。
 しかし、違ったのだ。七海が醜いのではなく、醜く歪んでしまった理由がある。

 体を拭き終え、用意された着物を身に着けた文は、がらりと戸を開けた。

「ごめんなさい。辛いことを思い出させて」

 何と言っていいか分からなくて、七海と目を合わせることができない。

「人魚族の中には、姿形が変わっている子供だけじゃなく、姿は正常でも異常な行動を起こす子供も生まれる。そいつらを皆ひっくるめて、人魚族の間で何と呼んでいるか知っているかい」
「……分かりません」
「〝化け物〟だよ。自分たちが勝手に孕んで勝手にこの世に産み落としておいて、満足がいかなければ化け物扱いだ! ハハハ、随分勝手だとは思わないかい。親というのは、子供に何があっても与えて育て上げるために産むんじゃないのかい。そんな覚悟もないのに、簡単に捨てるくせに、親にならないでほしいね!」

 荒々しく吐き捨てた七海は、ようやく落ち着いたように隣にいる文を横目で見た。

「話しすぎたね。アンタがあの子と同じ年齢だと言うから、嫌なことを思い返しちまった。……まあいい、付いてきな。飯を食わせてやる」

 連れて行かれたのは珊瑚に与えてもらった部屋よりも小さな和室だった。四畳ほどしかない。そこには既に小さなお盆と卵や煮物、白米などの食事が用意されていた。
 親切に食事を用意されたことで逆に不安を覚える。毒でも入っているのでは、と箸を手に取るのを躊躇っていると、「何も入れちゃいないよ」と後ろから七海が言ってきた。

「あたしがアンタの指導係ということになってる。何かあればあたしに聞きな。アンタはもうこそこそしなくていい。この屋敷の使用人として働くんだよ。これは命令だ。食事も一日一食は出してやる。その代わり、朝は早いよ。朝食の準備と掃除があるからね」
「ありがとうございます。……あの、珊瑚さんは今どこにいるんですか?」
「ああもう、珊瑚珊瑚うるさいねえ、飽きもせず。珊瑚はもう解放されているよ。アンタの部屋の場所は教えているから、そのうち遊びに来るんじゃないかい」

 面倒そうに教えてくれた七海は、今日はもう休んでいいと言って部屋を出ていった。
 小さな部屋に残された文は座布団の上に正座し、勇気を出して用意された煮物を食べてみる。変な味はしない。何か混ざっているということはなさそうだ。……それにしても。

(やっぱりお腹、空かないなぁ……)

 医者は心因性のものだと言っていた。
 確かに精神的に滅入ってしまってもおかしくない程には衝撃的なことが起こり過ぎている。しかしそれだけだろうか、と文は自分のお腹を擦る。
 文はこの島に来てからあまり食べていない。それでも十分に動けている。まるで、体に食事が必要ではなくなったかのような――。

(私が本物の神様って、どういう意味だったんだろう)

 医者は何か知っているような口ぶりだった。
 こちらを惑わせるようなことばかり言って、決定的なことまでは教えてこない。からかって遊んでいるのでは? とすら感じる。
 彼の冗談と考えるのが一番自然ではあるが、あえて彼が本当のことを言っていると仮定すると、文はこの島が祀る神様、人魚族の一員である可能性がある。
 文は両親の本当の子供ではなく拾われた子だ。何らかの理由で幼少期に銀鱗島から本土に迷い込んだとしても不思議ではない。
 そう考えると虎一郎が文のことを母親と呼ぶのも、血縁があるが故の勘違いなのかもしれない。

 思考しながら用意された食事を無理やり口の中に含み、咀嚼していた文は、ふと部屋に立てかけられた鏡に目がいった。

 その鏡の中に映る文の顔、目の中が金色に光っている。

「え……っ!?」

 驚いて鏡に近寄るが、その頃には文の目は元に戻っていた。
 見間違い? いや、違う。確かに金色に光っていた。

 鏡を持って唖然とする文の後ろで襖が開く音がした。
 振り返ると、顔の一部を包帯でぐるぐる巻きにされた珊瑚がそこに立っている。

「珊瑚さん! 無事だったのね!」

 鏡を放って駆け寄った。
 珊瑚の様子が何かおかしい。いつものような笑顔は浮かべておらず、ぼうっと虚ろな目で文を見つめ、力ない笑い方をする。

「……文ちゃん……文ちゃんこそ、無事でよかった……」
「……珊瑚さん、どうしたの? その顔……」
「……抉られたの」
「抉られた?」
「目玉を……」

 珊瑚がぶるぶる震えながら顔を押さえる。
 文は一瞬、言葉を失った。数秒して怒りが芽生えてきた。

「何でそんなことされたの!? 屋敷の人達は私が犯人じゃないって認めてくれたんじゃ……!」
「文ちゃんが犯人じゃなくても、よそ者を招き入れるのはよくないことだもの。自業自得よ」
「そんな……っ!」
「大丈夫。わたくしは人間とは違って傷が早く治るの。一ヶ月も経てば元通りよ」

 懸命に口角を上げて元気そうなふりをする珊瑚を、文は思わず力強く抱き締めた。

「こんなの間違ってるよ。いくら早く治るからって、痛いのは変わらない。家族にこんな風に扱われたっていう、心の傷も治らない」

 ――この家は間違っている。人魚族全体が、歪んでいる。
 珊瑚の綺麗な丸い頭を文は撫で続けた。
 すると、しばらくして嗚咽が聞こえてきた。珊瑚が泣いている。ずっと怖くて痛くて苦しかったのだろう。
 文は珊瑚が泣き止むまで、ずっと珊瑚の傍にいた。

 外が暗くなり月が出る頃、もう冷めきってしまった煮物やご飯を分け合いながら、珊瑚と文はゆっくり話をした。

「このお家のこと、どこまで聞いた?」

 珊瑚が少し気まずそうに問いかけてくる。
 文は正直に、虎一郎や七海から聞いた話を伝えることにした。

「お爺さんが神様だっていうことと、人魚族の女性はお爺さんとの間に子を産むってことと……子供は健康体では生まれてこなくて、最悪の場合捨てられたり殺されたりしてしまうってことかな」
「そう。じゃあほとんど聞いちゃったのね。文ちゃんに気味悪がられたくなかったのだけど……わたくしも、産んだのはお爺様との間の子よ。でもわたくしはよその人間の血を引いているからか、子供は全員、一人を除いて元気だったの。鱗生病にも誰一人なってない。それも叔母様がわたくしのことを嫌いな理由だと思う。叔母様の子は、ほとんど死んでしまったから……」

 七海が珊瑚の顔を叩いていた朝の光景が蘇る。
 暴力的な女性だとは感じていたが、そのような背景があったらしい。

「お爺様にも会ったのでしょう。何もされなかった?」

 珊瑚が心配そうに覗き込んでくる。

「名前を聞かれて、紙に書かれたよ」
「やっぱり。名を書いた紙をその者の分身とする支配がお爺様の神としての力なの。あれは人魚族の中でもお爺様しか使えない力。だから皆、お爺様には逆らえない」
「もしかして、珊瑚の名前が書かれた紙もあのお爺様が持っているの?」
「人魚族には、子供の頃に名付けの儀式というのがあって、そこで名前を付けられてしまうの。与えられた名前を自ら名乗って、お爺様に紙に書かれてしまえば終わり。もう逃れることはできない。……文ちゃん、ごめんね。止められなくて」

 事情を知った文は、珊瑚の震える手を握った。
 以前、この屋敷にいて珊瑚は幸せなのだろうかと疑問に思ったことがある。しかし珊瑚にとっては幸か不幸かなど考える余地はないのだ。選択肢など最初から与えられていない。文も珊瑚も、ここからは逃げられない。

「――でもわたくし、少し嬉しい」
「……え?」
「だってずっと一人ぼっちだったんだもの。このお屋敷で、人間の血が混ざった不純物はわたくしだけだから、生まれてからずっーと白い目で見られてきたの。そこに文ちゃんがやってきてくれて、わたくしと同じ運命を背負ってくれて……少しだけほっとしてる。これからはずっと一緒よ」

 虚ろな瞳で微笑む珊瑚を見て、――わずかに寒気を感じた。
 珊瑚は何も悪いことは言っていないのに、その目の奥に狂気が揺らいでいる気がして口籠る。
 きっと暗闇だから、赤い目が光っていて恐ろしく感じるだけだ。文はそう思いながら珊瑚の手を握り続けた。


 その夜も、人魚族の屋敷からは三名の死者が出た。
 死体は前回、前々回と同様、派手に喰い荒らされていた。



 【第三章 海雲族】

 それから三日間、文は人魚族の屋敷で奴隷のように働かされた。炊事や洗濯、子育ての手伝い、雪隠や風呂場の掃除まで幅広く任され、朝から晩まで雑巾や籠を持って走り回った。
 不思議と疲れは感じない。ろくに食べもせずに機械のようにずっと動き回っているため体力があると思われたのか、何故かさらに仕事が増えてしまった。

 ひぐらしが鳴く頃、夕食の準備に行こうと廊下を歩いていると、廊下の先で七海と複数の人魚族たちが浮かない顔で話し合っているのが見えた。
 おそらく怪異にどう対処するかという主旨の議論をしているのだろう。
 人魚族の屋敷では、三日経ってもまだ犠牲者が出ている。一人、三人、また三人という感じで、一日目程大量の死人が出ることはないが必ず誰かが喰われているらしい。死体の片付けも案の定文がやることになっているので数だけは知っている。
 一族は怪異の侵入経路の捜索を始めているらしいが、一向に手がかりは掴めないそうだ。

 七海とすれ違いざま、急に襟首を掴まれて引き戻される。
 何だと思って振り向くと、七海が短く命令してきた。

「文。アンタ、今日から夜中に離れで見張りをやりな」
「え……私がですか?」
「あたし達はね、怪異が離れ屋の近くから入ってきてるんじゃないかと疑っているんだよ。最初の殺人も、その次の殺人も離れ屋の中だったからね」

 最も疑わしい離れ屋の見張りは怖がって誰もやりたがらないからお前がやれ、ということだろう。
 どうせ拒否権などないので、文は俯いて「分かりました」と返事した。

「言っておくがうっかり眠るんじゃないよ。ずっと起きておくんだ。何か見つけたら殺せ。刃物くらいなら渡しておいてやる」
「怪異って、刃物での攻撃が効くものでしょうか……」

 山の怪異と近くで対面した時、頭がぐわんぐわんと揺れるような感覚がして体も震え、とても反撃しようというような思考には至れなかった。それどころか、目が合っただけで精神に異常をきたした。あれに対抗できる気はしない。

「効くに決まってるだろ。怪異と言っても、あれは元は――」

 七海は何か言いかけて、はっとしたように口を閉ざす。

「……よそ者に聞かせられるのはここまでだ。もし今夜怪異を殺して侵入経路を特定したら、飯を一食増やしてやる。精々励むんだね」

 文は去っていく七海の背中を見届けてから、はぁと溜め息を吐いた。
 今夜は帆次と約束をしているのにどうしたものか。いつもの庭で待ち合わせるつもりだったが行けそうにない。
 帆次は離れ屋にいる文を見つけてくれるだろうか。いや、それどころか帆次が怪しい侵入者として捕まってしまう可能性もある。
 珊瑚は海雲族を嫌っていた。ということは、人魚族全体が海雲族を嫌っているはずだ。この島全体で差別の対象となっている海雲族の次期当主がこんな状況で屋敷に入ってきたらどんな理由であれきっと殺されてしまう。
 何か連絡手段があればいいのだがそれもない。

(帆次のあの足なら疑われても逃げ切れる……と思いたいけど)

 海雲族は人を超越した身体能力を持っている。あの跳躍力があれば捕まりはしないと自分に言い聞かせて不安を押し殺し、文は炊事場へ向かった。


「文ちゃん、文ちゃん」

 炊事場にいる使用人の手伝いをしていると、窓の外からひょこっと珊瑚が顔を出して嬉しそうに話しかけてくる。
 その顔からは既に包帯が外れ、目も元通りになっていた。人魚族の回復力には驚くものがある。

「外にアオハダの実が成っていたの。熟してるから生で食べられるわ。はい、あーん」

 食事の準備で両手が塞がっている文の口に、珊瑚がわざわざ実を入れてくる。甘酸っぱい味が口の中に広がった。

「ありがとう。おいしいね」
「文ちゃん、一食しか食べてないからお腹空いてるんじゃないかと思って……。叔母様には内緒ね」

 あれから三日、珊瑚はいつもこうして文に何か持ってきてくれるようになった。こき使われている文のことを可哀想に思っているのかもしれない。

「本当、大変なことになっちゃったわよね……。まさか毎晩死人が出るなんて」

 珊瑚が浮かない顔をして俯く。

「祭りまでに怪異が捕まって、丸く収まるといいのだけれど……」

 そういえば、人魚族の主催する祭りが近いと言っていた。
 人魚族の数が減ってしまえばその予定も崩れてしまうだろう。

「結局、そのお祭りって何をするの? 準備で何か手伝えることがあればやるよ。……って、今は七海さんから預かった仕事で手一杯なんだけどね」

 申し出てから、そんな余裕はないかと自覚し苦笑する。
 珊瑚は丁寧に説明してくれた。

「灯篭流しって分かる? 水に関することで亡くなった死者の魂を弔うために、火を灯した灯篭を海に流すものなんだけど……」
「うん、やったことはないけど聞いたことはあるよ」
「祭りの日は、霧海村から灯篭が流れてくるのよ。その流れてきた灯篭を回収して、そこに結ばれている文を確認してから神殿に祀るの。あとは、蔵にある神輿にお爺様を乗せて担いで、祭礼行列が練り歩いたり……。出店も出るし、人魚族による舞いもあるから毎年盛り上がるわ。まぁ、灯篭に関しては、近年はほとんど流れ着かなくなっちゃって、零個の時もあるんだけど」

 霧海村は他の過疎地域と同じく人がいなくなっており、今ではほぼ廃村だと聞いている。
 加えて、世代交代により村の伝統を守る者もいなくなっているのだろう。


【次話】


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