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「人魚隠しし灯篭流し」第十一話(完)


【第一話はこちら】


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 燃え盛る炎は屋敷の古い木造の骨組みを次々と飲み込み、崩れ落ちる梁の音が空気を震わせていた。
 橙色の炎が猛烈な熱を放出している。火の手は屋根裏から屋敷の門まで、まるで生き物のように全体を包み込み、まだ燃え残っている戸や畳までもが次々と火に巻かれていく。周囲には焦げ臭い煙が充満しており、中を突っ切る千代子は咳き込んだ。

「珊瑚さん! 珊瑚さん、どこ!?」

 目が霞んでなかなか前が見えない。

「珊瑚さん!」

 千代子が珊瑚を呼ぶ声も、がたがたと揺れながら崩れ行く屋敷の中ではかき消されてしまう。
 時折爆発音が聞こえ、屋敷の中で何かが破裂する音が響き渡った。

 走り続けているうちに、まだ崩れていない畳の間、御簾のあった部屋から人の気配を感じた。

 ――燃え盛る室内の中心、髪を下ろした珊瑚が、何かの首を締めている。
 細長く黒い木のようなそれ。ぱっと見て何か分からなかったが、七海の話と照合すると、おそらく異形の首なのだろうと理解できる。
 それを締めるために珊瑚に使用されているのは、千代子が与えた組み紐だった。

「珊瑚さん!!」

 千代子は珊瑚に駆け寄った。
 虚ろな目をしていた珊瑚がはっとした様子で千代子を振り向く。その顔は煤だらけで、髪も燃えて毛先が乱れていた。
 珊瑚の向こうで、重ねられたいくつもの紙がぱちぱちと火の粉を上げている。

 ――もう、燃やしてしまったのだ。
 人魚族の命を握っている紙を全て。

「……珊瑚さん、私、間違ってた」

 震える声で訴える。
 どうしてこんなことを、などと全て珊瑚の責任にしてとぼけられないくらいには、千代子は珊瑚のことを知っていた。

「あの時。人魚族のお婆さんが死んだ日、私が珊瑚さんに言うべきだったのは……人魚族のお屋敷に戻ろうって言葉じゃなくて、一緒にこの島から逃げようって言葉だったんだ」

 千代子は選択を間違えた。
 目の前にいる、自分よりもずっと長く生きて苦しんできたであろう大きな少女一人を救うことすらできなかった。
 彼女はずっと千代子に救いを求めていたのに。

「ごめん。ごめんね」

 泣く資格などないというのに、千代子の目から涙が滲む。
 組み紐で首を締めながら千代子を見上げる珊瑚の目からも、ぽろりと涙が溢れた。

 珊瑚はもう動かない首から手を離し、崩れ落ちるように倒れた。
 千代子ははっとして燃え盛る紙に手を伸ばした。炎の中に、〝さんご〟と名前を書かれた紙がある。熱さに耐えながらそれを必死に掴もうとする千代子に対し、珊瑚が薄く開かれた口で言葉を紡いだ。

「文ちゃん。もういいわ」

 千代子はその気力のない目を知っている。
 彼女の目はもう、自らの人生を諦めている目だった。

 珊瑚に駆け寄ってその体を抱き寄せる。
 その体には力が入っておらず、下半身には鱗が生えていた。
 珊瑚が力なく笑って囁いた。

「わたくしはきっと地獄に落ちる。神を騙り、人を騙して病を移し、肉親を殺した」
「……私が地獄に、迎えに行くよ」
「ふふ。そんなこと言ってくれるのね、文ちゃん。やっぱり優しい」

 煙を吸い込んだのか、珊瑚は何度も咳き込む。その指先が灰となって消えゆこうとしているのを見て、珊瑚の命がもう長くないことを察した。

「珊瑚さん、何か、私に何かできることはない?」

 意識を失いかけている珊瑚に必死に呼びかける。
 珊瑚が口を動かし、何か伝えようとしている。
 千代子は珊瑚の唇に耳を近付けてその声に集中した。

「わたくしが幸せにできなかったわたくしの子を、文ちゃんが幸せにしてあげて」

 虎一郎の顔が頭に浮かぶ。

「……うん。する。絶対にする、から、だから……」

 ぼろぼろと涙が出てきて言葉にならない。しゃくり上げる千代子を見上げ、珊瑚はくすりと笑った。

「ねえ。泣かないで。楽しい話をしましょうよ。文ちゃんがきた、かんとうって、どういうところなの」

 千代子は涙を服の袖で拭いながら、栃木のことを返す。

「田舎だけど、人がいて……住宅が沢山あって……子供がいて、学校っていうところがあって」
「この島よりもたくさん?」
「うん。沢山あった」
「そっかあ。文ちゃんと一緒に、逃げられたら、きっと楽しかったでしょうね」

 灰になりつつある手を千代子の頬に添え、珊瑚の顔が近付いてくる。
 そして、珊瑚の冷たい唇が千代子の涙で濡れた唇に重なった。
 茂の時は必死に抵抗していた、千代子にとっての初めての口付けだった。

「最期だから、貴女の本当の名前おしえて」

 間近で囁くように言われ、文はゆっくりと答える。

「千代子……千代子だよ」
「千代子。素敵な名前。そっか、千代子。わたくしのこと、ずっと覚えていてね」
「……うん。絶対忘れない」

 炎は部屋全体を呑み込み、珊瑚たちを、人魚族を燃え尽くそうとしている。

「――――さようなら。わたくしの神様」

 そう言って笑った珊瑚の体は灰となり消えていった。
 彼女は最期のその瞬間だけ、ずっと捜していたものを見つけたような、あどけない笑顔を浮かべていた。

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 火の粉が夜空に舞い上がり、まるで亡霊たちが最後の別れを告げているようだった。
 あれだけ大きく、銀鱗島で存在感を放っていた屋敷が、ただの燃え殻となっている。
 千代子は空を見上げながら、煙の行き先をいつまでも目で追っていた。

「おい、文ちゃん!」

 どれくらい経った頃か、傷だらけの帆次と虎一郎が千代子の元へ走ってきた。どうやら何とか無事だったらしい。彼らの身体能力を知っているため心配はしていなかったが、元気な姿を見られて少しほっとした。

「お~ま~え~な~! 勝手な行動が過ぎるぞ?」
「……うん。ごめん」

 説教してくる帆次に素直に謝る。
 その声に元気が籠もっていなかったためか、帆次は何か察したように眉を下げた。

「……何かあったか?」
「友達が死んだ」

 帆次の隣に立っていた虎一郎が、煙臭いはずの千代子をぎゅっと抱き締めてくる。

「文、泣かないで」
「……もう泣いてないよ」

 泣いてる場合ではない。前に進まなければならない。
 ぐずっと鼻水を啜った千代子は、帆次に確認した。

「怪異はどうなったの」
「それが、戦ってる俺を見た島民が急に桑とか持って応戦してくれたんだよな」

 千代子は思わずぷっと噴き出す。

「何それ?」

 千代子がようやく笑ったことで、帆次も虎一郎もほっとした様子だった。

「何か、俺らが神だと思い込んだみてぇで」
「じゃあ、もう海雲族が差別されることもなくなるのかな。よかった」

 これからは海雲族が神として、正当に銀鱗島を統治することができるのだ。
 千代子は微笑み、背後に立っているであろう濡羽色の上質な着物を着た男に向かって声をかける。

「――私、虎一郎と一緒に本土に戻ります。お父さん」

 振り向くと、端正な顔立ちをした父の髪が風に揺れていた。
 彼はその金色の瞳でじっと千代子を見下ろした後、ぽつりと問いかけてくる。

「本当に行くのか。外の世界は危険だというのに。現にお前は一度自殺しようとしている」
「もう大丈夫です。辛くても苦しくても、私には使命がある」

 父を見据えて言い切った。

「本土に戻って鱗生病を治す方法を探します。救えなかった分救えるように」

 ――千代子にとって珊瑚は、千代子を生かし、生きる目的を与えてくれた、〝本物の神様〟だった。


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 潮の香りがする。顔を上げると目の前に海が広がっていた。

「文。かんとうってどういうところ」
「島よりも広いところだよ。人がいて、住宅が沢山あって、子供がいて、学校っていうところがあって」

 波が押し寄せる。何度も何度も。波打ち際を見つめているうちに、不思議な高揚感を覚えた。一歩一歩と海に近付く。

「文、僕のこと怒ってる?」

 突然七海の腕を切り落とした時から、虎一郎はずっとそのことを気にしていたらしい。不安げな虎一郎の、自分よりもずっと高い位置にある頭を、背伸びをして撫でた。

「過ちを犯したら、次から改めて。虎一郎は知らないだけでしょ。外の世界のこと、全部私が虎一郎に教える。私が虎一郎の〝本物の母様〟になるために」

 虎一郎の表情がぱっと明るくなった。虎一郎は分かりやすい。この素直さがあれば、本土へ連れて行ってもうまく成長させていけるだろうと思った。

「まずは、虎一郎が本当に感染したか調べないとね」
「文と一緒ならどこでも行くよ」
「先生にはさよなら言った?」
「うん。先生も僕の母様だから、また会おうって言った」
「先生はなんて?」
「〝もう会えないでしょう〟って」
「……そっか」
「〝振り返らずに進みなさい〟だって」
「うん。そうだね」

 目を凝らせば、遠くにビルの建ち並ぶ本土が見えた。

 未来へ向かうような気持ちで海に足を浸からせる。
 体が水に沈んでも、ゆっくりと息を吸うことができた。

 煩わしかった水の音はもう聞こえない。

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 【終章 ある学者の話】


 え? 東京? 新聞記者?

 記事タイトルは、『霧海村付近で神隠しに遭った女子中学生の現在』?

 ああ、はい……それ、私ですけど。当時のこと、話せることは何もありませんよ。正直記憶が曖昧で。
 すみません、この後学会で、移動しなきゃいけないので、短い時間でもいいですか?
 あれからもう三十年以上経ってるのに、オカルト記事を書いてる人が定期的に事前連絡もなしに取材に来るんですよね。貴方みたいな。
 ああ、いえ、怒ってるわけじゃないんです。

 ええ、そうですね。行方不明になった年と変わりない子供の姿のまま十年越しに霧海村の浜辺に流れ着いたとか何かで、当時は結構話題になりました。

 どこから流れ着いたのかって今でも色々噂されてますけど、当時答えた通り、島からですよ。
 ええ、島があったんです。霧海村の向こうに小さな島が。銀鱗島って言うんですけど。
 え? 地図にない?……うーん、だからこの話するの嫌なんですよね。私の記憶と事実が食い違うから。
 霧海村の人に聞いたら何か分かると思ったんですけど、私が戻る頃にはもう完全に村自体が閉鎖されちゃってて確かめようもなくて。

 何でそんな島に……って、うーん。ちょっと重い話になっちゃいますけどいいですか?
 私、死のうとしたことがあるんです。ああ、そんな顔しないでください。今は自殺なんて考えてませんから。人間誰しも一度はあるでしょう、人生で絶望したこと。私にもそれがあったというだけです。
 私は入水自殺未遂をしたんですけど、その時に流れ着いたのが銀鱗島でした。で、戻ってこようとしてまた水に沈んだんです。目が覚めたら十年後でした。
 嘘みたいな話でしょう。私も信じられませんでした。
 でも、これは後から知ったんですが、当時私が自殺を図った原因となった人物が、本土に戻ると怪死を遂げていたんです。結構有名な、織物販売業で有名な会社の社長で……ああ、そうですそうです。それです。死体の陰茎が切断されていたっていう、あれです。
 私、それを知った時、お父様が復讐をしてくださったんだと思いました。人魚の神様なんですけど。

 何の話って、そのままの意味ですよ。
 正直私の記憶にある光景が全て記憶違いなんじゃないか、私の頭がおかしくなっただけなんじゃないかって何度も疑いました。あれ以降ずっと。でもその事件を知って確信したんです。人魚の神様は本当にいたんだって。
 私、人魚の神様の子供なんです。……あはは、怯えた顔しないでください。学者なんて皆頭おかしいでしょう。取材ばかりしてるなら慣れてるんじゃないですか?

 だから私、あの島のことは私の記憶違いじゃなかったんだって思って。毎年やってるんです。灯篭流し。
 本土で調べた最新の研究とかを、毎年島に向かって流すんです。島にいた医者がね、その病気の原因を解明することに人生賭けてるような人だったんで。きっと喜ぶだろうなって。
 送る内容は私が大学で研究しているテーマなんですけど、その島ではこれと類似した病気が流行っていたので、もしかしたら同じなんじゃないかなって思ってまして。ああ、そうです。九州の風土病と言われていた病気です。
 まぁ、残念ながらまだ根本的な治療法は見つけられてないんですよね。これ自体の増殖を抑える抗ウイルス薬というよりは、脊髄の炎症を抑えて症状の進行を遅らせるしかないというか。ステロイドの投与は副作用酷いんであんまりやりたくないんですけど、今ちょうど虎一郎が……あ、虎一郎、出てきちゃダメだよ。
 すみません、あれは私の息子です。あまり近づくと噛まれますよ。いや、冗談じゃなくて。

 ああ、本当にそろそろ時間がないんで出ますね。
 兎にも角にも、私がこんなところでこんな研究に没頭しているのは、その島にいた人達が理由なんですよ。
 実は私、何度かあの後海で泳いでみたんですけど、どれだけ行っても一向にあの島は見当たりませんでした。

 絶望して死のうとしたした人だけがあの島に辿り着けるのかもしれません。
 それこそ、神様の思し召しだったのかもしれませんね。
 ……あれ、神様のこと信じてないって顔ですね?

 祀れば何でも神様ですから。人ならざるモノは、貴方の傍にもきっといますよ。



 【完結】


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