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「人魚隠しし灯篭流し」第五話

【第一話はこちら】


 文は何か目が変になってしまったのかと思って自分の目を擦った。しかし、特に痛みなどはない。

「どうかしたの?」
「……いや。一瞬、色が変わったように見えて」
「何それ、気のせいだよ。星の明るさが目に映ったのかも」

 あははと笑って返す。
 この島には目の色が人と異なる一族がいて、それは例えば珊瑚や帆次だが、文の目はずっと変わらない黒色だ。

 ふと、この場所よりもずっと向こう、土地の低い位置にある民家の間を、何かが歩いているのが見えた。
 目を凝らすと、人のような形をした黒い塊が何十体も列をなしてぞろぞろと歩いている。その人影はくねくねと踊るような奇妙な動きをしており、近くにいた犬がその行列に向かって何度も激しく吠えていた。
 文は昨夜のことを思い出し、本能的に〝あれを見てはいけない〟と感じた。咄嗟に顔を横に向ける。

「帆次、あれ何? あの、犬に吠えられてるやつ。あれも怪異?」
「……文ちゃん、あれが見えるのか? ここからだと相当な距離だろ」
「よく分からないんだけど、この島に来てからやけに遠くのものが見えるようになって……銀鱗島って視力改善効果とかあったりする?」
「んなわけあるかよ」

 即座に帆次が否定してきた。
 確かに、視力改善効果があるのであればあの医者が丸眼鏡をかけているのも伊達ということになってしまう。あまり信じたくないが、文の体にだけ異変が起きているということだろう。

「文ちゃんの予想通り、あれも怪異だ。群れをなしてるが実質は昨日文ちゃんを追ってきたものと一緒。たまに深夜に山からおりてきてああやって何か探してんだよ。あいつらが通った跡は、翌朝猪や猿の死体があったりする」

 文はその光景を想像して血の気が引くような心地がした。
 文が見た限り、島の民家の戸は夜間厳重に閉められている。それもこの辺りを頻繁に怪異が蠢いているからだと思うと納得できた。

「何かを探してるってことは、その探してる物を捧げたら怪異は山に帰るってことかな?……あ、でも、子供が好きってことは、子供を捜してるって可能性もあるのか」

 無機物であれば与えられるかもしれないが、さすがに生きた島民の子供を捧げるというのは難しいだろう。文はううーんと唸った。

「過去にも何人か島の子供がさらわれたらしいが、それでも怪異は山から出てくる。何か別のものを探しているのか、子供の数が足りないか……だな」
「えっ、実際に子供がさらわれたこと既にあるの?」

 ぎょっとして聞き返す。

「そんなの事件じゃん。警察に連絡した方がいいよ」
「この島に警察はいねぇよ。それに、人魚信仰が強いこの島じゃ、さらわれたのも神隠しだとか、あの子供は贄になったから名誉あることだとか言って親も満足げにしてたぞ」
「そんな……」
「連れて行かれかけて生きて帰ったガキもいるみたいだけどな。あいつらは汚いものが嫌いだから、小便かけたか何かで。そのガキが言う話じゃ、あの怪異は子供のような拙い喋り方をしてたらしい」

 文が出会った怪異は一切言葉を喋らなかったため、喋る個体もいるのかと驚きつつ聞く。

「拙い喋り方で、なんて言ってたの?」
「〝寂しい〟〝遊ぼう〟だとよ」

 :

 帆次に連れられて珊瑚の屋敷に帰ったのは朝方だった。帆次には文が医者から借りてきた本を読むように伝え、また数日後に会う約束をした。
 夏の朝は明るくなるのが早い。まだ四時だというのに空が少し白み始めている。
 昨日のようにこっそり屋敷の中に入った文は、忍び足で自身の部屋に戻り、部屋の隅に畳まれている布団を敷いた。

 最近悪夢をよく見るため寝るのが怖く、あまり眠れていない。だが今日は良い夢を見られそうだ。
 いい気分で目を閉じると瞼の裏に帆次と見てきた星空が広がる。
 その時、頭上で何か布が擦れるような音が聞こえた。

「どこに行っていたの」

 枕元に、腰まで伸びる長い白髪の男が立っている。暗闇の中、血のように赤い目だけがギラギラと光っていた。
 悲鳴をあげそうになったが、それ以上に恐怖が勝って体が動かない。
 よく見れば、見覚えのある男だ。見た目が変わりすぎていてすぐには分からなかった。髪が長くなり、少し肥えたが――あの部屋の穴の底に座っていた男、虎一郎である。

「な……何してるの。穴から出られたの?」

 虎一郎が文を覗き込みながらこくりと頷く。
 文は虎一郎に危害を加えるつもりがないことを感じ、ほっとしながら上体を起こした。
 虎一郎は穴の底にいた時は土まみれで汚い格好をしていたが、今は上質な着物を身に纏っている。出られるのなら一体何故あんなところにいたのかという疑問が残るが、それはひとまず置いておいて質問した。

「貴方、結局誰なの?」
「虎一郎」
「そうじゃなくて……それは私の付けた仮名でしょう。このお屋敷に棲む人魚族なんだよね? それは合ってる?」

 虎一郎がこくりともう一度頷く。
 そして、文が寝ている布団の中に勝手に入ってきた。

「え? ちょ、ちょっと」

 ――手足が驚く程に冷たい。本当に血が通っているのか疑わしい程だ。
 もしかしたら寒いのかもしれないと思った文は戸惑いながらも虎一郎に布団をかけた。夏なので文は布団がなくとも眠れる。

「ぼく、ふみ、すき。ふみは?」

 布団の中で赤い目を輝かせながら、虎一郎が囁くように聞いてくる。

「嫌いではないけど……」

 というよりも、好き嫌いを語れる程に文は虎一郎のことを知らない。
 文の答えに満足気に笑った虎一郎は、不可解なことを言い始める。

「やっぱり。やっぱりそうだ。君が本物だ」
「……本物って?」
「僕の本物の、お母様」

 どういうことかと問う前に、布団の中からは寝息が聞こえてきた。どうやら眠ってしまったらしい。

(今朝会った時より髪伸びてるし……)

 この島に来てから、不思議なことばかり経験する。
 文は眠る虎一郎の顔をじっと観察した後、虎一郎とは少し距離を置くために畳の上で眠った。

 :

「文ちゃん! 文ちゃん! 起きて!」

 激しく体を揺り動かされ、はっと目を覚ます。
 目の前には珊瑚がいて、青い顔で文に訴えかける。

「昨夜、何か変わったことはなかった?」

 まだ寝惚けている文はぼうっと珊瑚を見つめ返した。時間をかけて珊瑚の問いを咀嚼し、変わったことといえば……と布団の方を振り返る。
 しかしそこには誰もいない。

「ねえ、大変なのよ。お婆様が、夜の間に屋敷で喰い殺されていたみたいで……」
「……え?」

 夢見心地だった文は一気に現実に引き戻される。
 〝喰い殺されていた〟などという日常的には滅多に聞かない言葉が出てきたことに驚きつつも、珊瑚の次の言葉を待つ。

「今朝から皆犯人捜しに躍起になっているわ。いつ誰がここに来るか分からない。早く外へ出ましょう、文ちゃん」

 珊瑚が半ば無理やり文の腕を引っ張ってくるので、慌てて立ち上がった。
 急に人が殺されたとなると、よそ者である文が一番疑われるだろう。だから珊瑚はこんなに焦っているのだ。

「犯人が見つかるまで、人魚族の別の屋敷に貴女を預ける。もう誰も住んでいない場所だから少し掃除が必要だけれど、あそこなら安全だから」

 油蝉がうるさく鳴き続けている。
 文は珊瑚に手を引かれるまま外を走った。

「珊瑚さんは、私が犯人だとは思わないの……?」

 文が恐る恐る聞くと、前を走っていた珊瑚が勢いよく振り返って否定してきた。

「そんなこと思うわけないじゃない。わたくしは文ちゃんを信じているわ。それに……」

 珊瑚は俯いて意味深なことを言う。

「それに、おそらくあれは人の仕業ではない。人間にできるはずがないわ、あんな惨いこと……。臓物だけ抜き取るように食い荒らされていたのよ」

 珊瑚の向こうの田んぼ道に、死体を引きずり回したような血の跡があり、その先に木の枝で突き刺された猪の死体が大量に転がっている。
 昨日見た怪異が幻覚などではなく、実際にここを歩いていた証拠だ。

「怖がらせてしまうと思って言っていなかったのだけれど、この島には怪異という存在がいるの。人ではなく、神でもない……ただ全ての生物を食い殺す化け物」
「……うん」
「驚かないのね。もしかして、知ってた?」

 文が頷くと珊瑚は溜め息を吐き、ゆっくりと再び歩き始める。

「わたくし達のお屋敷の周り、高い塀で囲まれているでしょう。あれは怪異に見つからないためのものなの。あの塀には怪異が嫌う匂いを付けてあるから、彼らはわたくし達の屋敷には入ってこられないはずなのよ。……だから、誰か怪異を招き入れた裏切り者がいるはずで。このまま犯人が見つからなければ、屋敷の人間はきっと貴女がそうなんじゃないかって言い出す気がするの」

 急いで屋敷を出たためか日傘もさしていない珊瑚のうなじが、日差しに晒されて汗ばんでいる。
 早足で歩き、前方にいる珊瑚に追いつく。珊瑚の横顔は物凄く焦っているように見えた。何かに怯えているような青い顔だ。

「わたくしはしばらく外には出てこられない。何か困ったことがあればあのお医者さんを訪ねて。わたくしからも貴女を頼むと言っておくから。あの人は変な人ではあるけれど、食事くらいは用意してくれると思うわ」

 文を匿っていることで激しく打たれていた珊瑚の姿が脳内をちらつく。
 文は咄嗟に珊瑚の腕を掴んで止めた。

「待って、珊瑚さん。私が疑われてるってことは、私を匿ってた珊瑚さんが責任を問われるってことじゃないの?」
「……やぁね、文ちゃん。そんなことないわよ。いくら何でも家族なんだから、乱暴な真似はしてこないわ」

 珊瑚が、作り笑いだと一目で分かる力ない笑顔を浮かべる。

「嘘だよ。私、珊瑚さんが暴力を振るわれているところ見たもの」

 震える声で訴えると、珊瑚ははっと目を見開き、気まずそうに顔を逸らした。

「……見てたのね。叔母様は、あの時虫の居所が悪かったの。普段はあんなことしない。平気よ」
「でも、人魚族の女性は珊瑚さんに対して厳しいって言ってたよね?」
「それは出産と子育てにおいての話で……。もう、文ちゃん、わたくしの心配ばかりしているけれど、実際危ういのは文ちゃんなのよ? 他人の心配してないで早く逃げた方がいいわ」
「――私、珊瑚さんのお屋敷に戻る」

 文は踵を返して元来た道を戻ろうとした。しかし珊瑚が強い力で文の腕を引っ張って反発してくる。

「正気なの!? 今戻ったら何をされるか分からない! 貴女、人魚族がどんなに恐ろしい一族か知らないでしょう!」
「その〝恐ろしい一族〟の元に珊瑚さんを一人で帰す方が怖いよ! 私は珊瑚さん達のこと、なんにも知らないけど……っ少なくとも今回の件で、珊瑚さんが青い顔して怯える程のことが起こるかもしれないってことは分かる!」

 島の住人たちの視線を感じる。
 人魚族の珊瑚がいるだけでなく、道の真ん中で口論しているのだから当然だ。


「――おいたが過ぎるのでは? 珊瑚嬢」

 湿度の高い風が吹いた。
 いつの間にか、着物を着た男達が文と珊瑚の二人を囲んでいる。

 珊瑚がちっと忌々しそうに舌打ちした。
 文は彼らの七宝柄の着物を見て即座に人魚族の男達だと理解する。色は違うが、柄は珊瑚と同じ着物であるためだ。

 珊瑚を庇うように立ちはだかろうとした次の瞬間、文の頭部に衝撃が走る。
 殴られたことを理解したのは体が倒れた後だった。
 隣から珊瑚の悲鳴が聞こえる。

 倒れ込んだまま顔を上げると、じりじりと照り付ける夏の太陽と、年老いた男の姿が目に映った。
 抵抗できぬうちに、再び男の容赦ない拳が飛んでくる。

 歯が一本飛ぶと同時に、文は意識を失った。


 【第二章 人魚族】

「本当に女の子だったんだねぇ」
「いやぁ、あの女の娘のことだから、てっきり女が好みそうな体格のいい男が出てくると思ったんだけど。こんな小さな女の子だなんて……」
「珊瑚は今どこに?」
「別室で仕置きを受けています。指を何本か切断する予定です」
「あらあら。あの子、あの仕置きは特に嫌いだものねぇ」
「どうせすぐ治るのだから、全ての指を切り落としてしまえばよろしいのに」
「それはさすがに可哀想ではなくって?」
「優しすぎるくらいでしょう。婆様が死んでいるのに。全て、不吉なものをこの屋敷に招き入れたあの子のせいなのですよ」

 大勢の話し声が聞こえて、ゆっくりと目を開いた。
 大広間のような和室の両側に、ずらりと同じ着物を着た男女が並んでいる。若い見た目の者も、老人のような見た目の者もいる。目視できる範囲だけでも数が多い。百人はいるのではないだろうか。
 文は身じろいだが、手足を縄でしっかりと拘束されていることに気付く。

「起きたのかい」

 文の元に近付いてきたのは、黒い着物姿の年配の女性。珊瑚の頬を平手打ちしていた人だ。

「アンタには聞きたいことがあるんだよ」
「――私はやってない」

 おそらく彼女たちが知りたいのは昨夜の事件のことだろうと思い、聞かれる前に否定する。
 しかし、年配の女性は不機嫌そうにぴくりと眉を動かし――縛られた状態で倒れている文の胸倉を掴んだかと思えば、勢いよく打ってきた。

「聞かれたことにだけ答えな! 勝手に喋っていいなんて言ってないよ」

 女性の耳をつんざくような金切り声が響く。頭が痛くなった。

「アンタじゃなかったら誰だってんだい。あたし達人魚族はねえ、この島で気が狂いそうな程長い時を助け合いながら過ごしてきたんだよ。結束力の強いあたし達の中から裏切り者なんて出るわけないだろう。一番怪しいのはよそ者のアンタだよ!」
「裏切り者なんていない可能性はないのですか? 例えばこのお屋敷のどこかが老朽化していて、そこから怪異が入り込んだとか……とにかく、私は一切知りません!」

 文は必死に否定するが、また平手打ちされてしまう。

「そもそも、アンタどこから来たんだい。何が目的でこの島へ? 人魚族を滅ぼすつもりで来たんじゃないのかい。え?」
「栃木、から……。霧海村の近くに旅行に来ていて、浜から流されて、ここに流れ着いて……。この島のことなんて、全然知らなかった……」
「嘘を吐くな! ただの人間が、あの村からこの島まで船も使わずに来られるわけないだろう!」

 駄目だと思った。どう伝えても聞いてもらえない。彼女たちの中では最初から文が犯人なのだ。その犯人が何を言ったところで信用に値しないことは分かりきっている。

「……珊瑚は……?」

 文は力ない声で問うた。

「別室で仕置きをしている最中だよ。やめてほしければ正直なことを話しな」
「――ッやめて! 珊瑚さんは関係ない」
「おや、珊瑚は関係ないけれど、自分は関係あると認めるのかい」
「そうじゃない! 何の罪もない珊瑚さんに変な真似しないでって言ってるの!」

 必死に思考を巡らせる。
 どうしたら話を聞いてもらえるのか。どう交渉すればいいのか。文の足りない頭では即座に答えが出てこない。
 けれど、時間稼ぎくらいならできる気がした。

「私が怪しいと思うのなら、こうして私を縛ったままもう一晩待ってください。それで何も起きなければ私のことを犯人として扱っていい。ただ、もし今夜また何かが起こったら、それは私が招き入れたのではなく、この屋敷に怪異の通り道ができてしまっているということです。もう一晩、もう一晩だけ待ってください。珊瑚にも、何もしないで」

 泣きそうな声で訴える文を見て、目の前の女性はぷっと噴き出し、高らかに笑い始めた。

「例え犯人がアンタじゃなかったとしても、よそ者のアンタを生かしたところであたし達には何の得もないね」

 どこからともなく現れた使用人のような若い女性が身を低くしながら中年女性に斧を渡す。文はぎょっとしたが、周囲の大人たちはまるで見世物を見ているかのようにケタケタと嗤っているだけだ。

「人をバラバラにするのは久しぶりだよ。きっといい悲鳴を聞かせてくれるんだろうねぇ?」

 悪い夢の続きなのではないかと思った。これまでの出来事は全て夢であり、本当は銀鱗島などどこにも存在せず、霧海村にも行っておらず、あの別荘での行為も幻で、現実の文は窮屈だが平和な栃木のあの家で両親と笑い合っている。そう念じてぎゅっと固く目を瞑る。
 しかし、次に目を開けた時、そこは変わらない和室だった。

 中年女性が斧を振り上げた。

 現実だと、そう確信する。

 ――――絶望したその時、部屋の外から大きな悲鳴が聞こえた。
 中年女性がぴたりと動きを止め、悲鳴のした方を見る。

「様子を見てきな」

 彼女は振り上げていた斧を下ろし、近くにいた者に短く命令した。すると何人かがすぐに部屋から出ていく。
 しばらくして外でざわめきが起こったかと思うと、一人が慌ただしく音を立てながら部屋に入ってきた。

「大変です! 離れの者が皆喰い殺されています!」

 離れ――珊瑚が言っていた、発症者を隔離している場所だろうか。
 場は騒然とし、足を崩して座っていた男たちまでもが立ち上がって部屋から出ていく。文を殺そうとしていた中年女性は畳の上に斧を置き、険しい表情で現場を見た者の話を聞いている。

「どうなさいますか、お爺様」

 中年女性の視線の方向を追うと、部屋の奥、御簾で隔たれた向こうに〝何か〟がいるのが見えた。
 その影は人の形をしていない。かといっておそらく動物でもない、異形のような影だ。

『そこの娘、名はなんという』
「うっ」

 突然のことに文は呻いた。
 頭に直接響くような、異様な声である。この声を聞き続けたら気分が悪くなりそうだった。

「……ふみ……文です」

 必死に問いに答える。
 すると、御簾の向こうから御簾の下の隙間を通って、一枚の紙が滑ってきた。

 その紙には、太い筆で〝ふみ〟と書いてある。

 中年女性がそれを拾い、おかしそうに顔を歪めた。

「この者を生かし、駒にするということですね。……っは、お爺様は相変わらず、若い女性に弱いこと」

 紙を丁寧に折り畳んで着物の懐に忍ばせた中年女性は、面倒そうに文を縛っていた縄を解く。
 文が捕まっている間にまた別の事件が起きたことで疑いが晴れたのかもしれない。

「立ちな」
「…………」
「立ちなと言ってるんだよ。グズグズするな。あたしはノロマが嫌いなんだ」

 状況を飲み込めず呆然とする文に、中年女性は苛々した様子で命じた。
 文は恐怖で未だ震える足を動かして何とか立ち上がり、和室を出ていく中年女性に付いていく。

「いいかい。この紙がある限りアンタはあたしらの言いなりだ。名を書いたこの紙を燃やしたら、アンタはすぐに死ぬからね」
「は……?」
「ふ、信じられないという顔だね。よそ者のアンタにも分かりやすいよう説明してやる。あの御簾の向こうにいるのは〝ご神体〟だ。島の連中は一緒くたにして人魚族全体を崇めているがね、あたし達は正確に言えば神じゃない。神様は、あの御簾の向こうにいるあたし達のお爺様なのさ。あたし達は神様の血縁というだけ。本物の神様であるあの人には何でもできる。それこそ、紙に名を書くだけで相手を殺すことだってねぇ」

 くっくっと意地の悪い笑みを浮かべる中年女性。
 嘘を吐いているようには見えない。しかし容易には信じ難い話だ。じろじろと疑いの目を向けてしまう。

「アンタの生死は今、あたしが握っている。死にたくなけりゃあたしに従いな。まずは、離れの死体をアンタ一人で片付けることだ」
「珊瑚さんはどうなるんですか?」
「ったく、珊瑚珊瑚うるさいねぇ。あたしらが身内をどうしようがアンタに関係ないだろう」
「関係なくないです。珊瑚さんを解放しないなら私は貴女に従いません」
「あァ? アンタ、理解力がないねえ。アンタに拒否権なんてないんだよ! アンタの生死はあたしが握ってんだから!」
「珊瑚さんが助かるなら、死んだって別にいいです! 私の命なんて、元々死にそうだったのを、珊瑚さんに助けてもらって生き長らえただけだもの」

 声を張って言い返すと、中年女性はハッとしたような顔をした。

「は、なるほどねぇ。この島の周辺は船一つ通らないのに、浜に流れ着くなんて事故にしては変だと思ってたんだよ。――アンタ、自殺しようとして水に溺れたんだね?」

 文は小さく頷いた。途端、中年女性が腹を抱えて笑う。

「とんだ死に損ないというわけだ。ハハ、ハハハハハハハハハ!」

 何がおかしいのだろうと不快な気持ちになった。
 この女性は見かけは美しいが、常に表情が歪んでいて醜い。

「ふん、まぁいい。アンタの滑稽さに免じて珊瑚のことは一発殴るくらいで許してあげるよ」

 この女性は人魚族は絆が強いだのと言っていたが――殴るなんて、家族のすることじゃない。こんな屋敷に生まれて珊瑚は幸せなのだろうかともやもやした。

 しばらく長い廊下を歩き、一度下駄を履いて外に出た後、草木が生い茂る中ぽつんと佇んでいる離れ座敷が見えてきた。
 中年女性は黒い着物の袖を捲り、離れ屋の戸を開ける。

「これ以上はあたしは行かないよ。アンタだけで死体を処理してきな。病が移ったら嫌だからね」

 文が連れてこられた理由が分かった。惨い死体を片付けるなんて、誰もやりたがらなかったのだろう。特にここは病人が隔離されていた場所だ。抵抗ある者が多かったに違いない。

「……あの、鱗生病はそんなに簡単に感染しないってお医者さんが言ってましたよ」
「遺体から感染するかもしれないだろう。原因が分かっていない以上離れておくに越したことはないね。それに、医者の言うことなんて信用できない。あたし達が信じてるのはお爺様だけだよ。医者は空気感染しないだのと言っているが、そんなのおかしいじゃないか。なら何故あたし達の屋敷では慢性的に鱗生病が広がっているんだい。その説明も付けられないくせに、何が医者だ」

 中年女性は誤解を解こうとする文の背中を押して無理やり中に入れた。
 そこで文はふと思い付き、振り返る。

「あの、ここにあるご遺体、どこに捨ててもいいんですか?」
「屋敷の敷地外ならどこでもいい。山にでも埋めてきな。終わったら屋敷に戻ってくるんだよ。夜までに戻ってこなかったら紙を使って殺すからね」

 ぴしゃりと戸を閉められてしまった。
 人魚族には遺骸や遺骨を葬り、その霊を祀るといった考えがないらしい。思い返せば、この島には墓場が見当たらなかった。死体が出たらその辺に捨て置いているのだろう。


【次話】





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