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「人魚隠しし灯篭流し」第六話

【第一話はこちら】


(ご遺体をあのお医者さんのところに持っていけば、研究の助けになるかも)

 廊下を進み、びっしりと謎の札が貼られた襖を開ける。

 そこには凄惨な光景が広がっていた。

 珊瑚から老婆が死んだ時の状態のことを聞いていたので覚悟はしていたが、想定以上だ。
 畳や布団が血で染まっている。一つの部屋にいくつものむくろが重なっており、顔は綺麗であるのに体はぐちゃぐちゃに荒らされていた。

 吐きそうになるのを堪えながら一旦小走りで外へ出た。
 ばくばくとうるさく鳴る心臓と、震える指先。あんな恐ろしいものを運ばなければならないのかと思うと絶望する。

 文はふーっと自分を落ち着かせるために深呼吸した。

(大丈夫。お母様に裏切られた、あの夜よりは怖くない)

 今はあんな姿だが、元々は生きていた、文と同じ生物だ。それに怯えるなんて失礼だろう。
 それに、もう動かない死体よりも、有無を言わさず迫ってくる茂の手の方が怖かった。あの夜のことを思えば、あの経験以外のことは何だってできる気がする。

 文は覚悟を決めて外へ走り出した。
 この猛暑の中、死体を外に出して置いておいたら状態が悪化する気がする。先に医者に伝えて、医者の指示に従いながら運び出そうと思ったのだ。

 珊瑚と行った病院まで走っていた文は、ふと違和感を覚える。
 ずっと走り続けているのに体力の減りを感じない。いつまでも走っていられるような感覚だ。学校の運動の授業では成績が悪かったのに、どうしてしまったのだろう。
 不思議に思っている内にこぢんまりとした病院が見えてきた。
 相変わらず人がいない。奥に向かって「すみません」と声をかけると、ガタガタと音がした後、小太りの医者が出てきた。

「おや、文さんではないですかぁ」
「人魚族は診察に非協力的だとおっしゃっていましたよね。人魚族の体があれば、何か助けになりますか?」
「いきなりですねぇ。そりゃあ、好き勝手していい体が手に入れば都合がいいとは思いますが。今のところ私が直接診ることができたのは珊瑚様と、珊瑚様が説得した人魚族の数名だけですからねぇ。家の人にキツくお叱りを受けたのか、珊瑚様以外はそのうち来なくなってしまいましたしねぇ。ふはは、私はとーっても人魚族に嫌われているのですよぉ」

 医者は自虐なのか本当に面白いと思っているのか分からない笑い方をして言う。

「好きに捨てていいと言われているご遺体が、ざっと見て三十人分あります。よかったら、こちらに運んでもいいですか?」

 途端に眼鏡の奥の医者の目がぎらりと光った。

「……何ですって?」
「人魚族のお屋敷で、人魚族が殺される事件が起こっていて。そのご遺体の片付けを私が任されたので、何かお役に立てればと」
「死後何時間ですか?」
「分かりません。ただ、見つかったのはさっきなので、そこまで時間は経っていないかと」
「文さん! 貴女に出会えてほんっっっっと~によかった!」

 突然上機嫌になった医者は、文の背中をバンバンと勢いよく叩いてくる。

「運ばずとも結構ですよお。感染細胞が何らかの要因で簡単に死んでしまう可能性もありますから下手に動かさないでください。私が行きます」

 医者が黄ばんだ白衣を脱ぎながらとっとと病院を出ていこうとするので慌ててその腕を掴んだ。

「屋敷の中に先生を招き入れるのはまずいです。今、人魚族は特にピリピリしているので……」
「おや、こっそり入れば分からないでしょう」
「駄目ですよ! 見つかったら何をされるか分かりません。人魚族は、さっき私のことを本気で殺してこようとしました。人魚族にとって人間の命はそれだけ軽いんです。もしあの人達の機嫌を損ねたら先生も私も殺されてしまいます」
「度胸のないことですねえ。危険を顧みない心がなければ道は切り開けませんよお?」
「ごめんなさい、何と言われようとここは引けません。珊瑚さんはずっとあの人達の元にいるんです。私がまた妙な真似をしたと分かればあの人達は私だけじゃなく珊瑚さんにも酷い仕打ちをすると思います。先生からしても、貴重な生きる感染者である珊瑚さんと会えなくなったら困りますよね?」

 言い合ってから数秒、医者と文は見つめ合う。
 医者の視線が鋭いが、絶対に譲らないという強固な意志で睨み返すと、医者はふうと肩を落として溜め息を吐いた。

「……分かりましたよお。私としても、志半ばで死ぬのはご免ですからねえ。では貴女が死亡者の血液と脊髄を外まで持ってきてください。念のためできるだけ日光は当てず、乾燥にも気を付けて」
「脊髄を……ですか? 私が?」
「ええ。ノミと切除器具と保管するための容器は渡しますので。よろしくお願いしますねえ。私は屋敷のすぐ外で待機していますから」

 にこやかに無茶な要求をしてくる医者を呆然と眺める。
 医者は文を奥に招き入れると、棚から様々なものを出してきた。よいしょ、などと呑気に言ってごてごてした重そうな装置を鞄に詰めている。

「これはねえ、私がいつも使っている古き善き顕微鏡なのですよお。微小な物体を拡大して見ることができます。まぁ、これは相当古い型ですし、もう本土では新しい装置が発明されていてもおかしくありませんけどねえ。私は戦前から島を出ていないので知りませんが」

 登山用のような大きな鞄に一通り必要なものを入れたらしい医者は重そうにしながら立ち上がる。
 文は早足で病院の裏口を抜けて鍵をかける医者に小走りで付いていった。

「顕微鏡、テレビで観たことあるかもしれないです。私が生まれるちょっと前の年に、大阪の工学者が日本初の顕微鏡を作ったって」
「テレビとは何です?」
「え、テレビ知らないんですか? ええっと、映像が映るようなもので、皆で同じ時間に同じものを観られて……ラジオの観る版みたいな感じです」

 思えばこの島に来てから電気冷蔵庫はあったがテレビは見ていない。銀鱗島は本土から新しいものがあまり入ってきていないのだろう。

「ほう。色々あるのですねえ。貴女のような幼い人が生まれる頃ということは、発明されたそれはきっと新しい型なのでしょう。私が持っている顕微鏡は、もっとずっと昔からありますから」
「……先生は、島から出たいと考えたことはないのですか? 本土は多分ここよりも色々発展してると思うのですが」
「ないですよお。島の外には鱗生病がないでしょう。私は父の遺したあの小さな病院で、鱗生病の研究のために生涯を費やしたいと思っているのです。それに外の旧友は皆、元敵国の捕虜を生体解剖してしまったか何かで絞首刑になったと聞きました。知り合いが誰もいないのに外に出る気は起きませんねえ。いやはや、あれは実に酷い戦争でした。異常な状況は人の倫理を壊すものです。いくら取り繕っても、本土は戦争の焼け野原があった屍の上に成り立っている。私はそんな場所には戻りたくない。この島は禁足地として大日本帝国からは切り離されていますからいいですよ」

 大日本帝国などという古い呼び名を未だに使っている辺り、本当にしばらく外の情報を取り入れていないのだろう。

 早く患者の死体を調べたくて急いでいるのか、医者の走る速度がどんどん上がっていく。
 この猛暑日にこんなにも必死に外を走っているのは文とこの医者くらいのものだろう。ほとんどの島民は木陰でうちわを持って涼んでいる。

「それにしても、貴女勇敢ですねえ。貴女こそ、殺されかけたというのに島から逃げないのですか」
「……銀鱗島から出ても、行く宛がないので。それに、島から本土へ行く手段、今はないのでしょう?」
「おやおやぁ、貴女なら船など使わずとも本土へ向かえるはずですよ。その気になればねえ」
「え?」

 医者の隣を走りながら医者の顔を見る。
 医者の方向に太陽が輝いており、眩しくてその表情が見えない。


「だって貴女、本物の神様なんですから」

 不可解な発言に動揺して立ち止まる。しかし医者はその間にも走り続けていて、置いていかれそうになってしまった。
 文は走って医者に追いつき問いかける。

「今のどういう意味ですか?」
「付きましたよ!」

 目の前に人魚族の屋敷がある。医者は既に完全にそちらに興味を持っていかれているようで、文の質問に一向に答えてくれない。
 今は一刻を争う状態なので、先に死体を処理してしまおうと思った。

 文は医者に器具を預かってから、もう一度覚悟を決めて離れ屋の中に踏み込んだ。

 部屋には先程と何ら変わりない惨憺たる現場が広がっている。
 積み重なった死体に近付いて改めて観察すると、死体の一部は綺麗に筋肉や脂肪、臓器が喰われており、骨だけが見えている部分もある。
 怪異にも食べ方がうまい個体と下手な個体がいるのか、まずい人間は最後まで食べずに放置したのか。

(あんまり深く考えるのやめよう……)

 考えすぎると事件当時の有り様を想像してしまって気分が悪くなってくる。
 思考を止め、震える手で遺体を裏返し、医者に何度も説明されたやり方で器具を使って背骨を割った。それだけでもかなりの力と時間を要した。
 ぜえはあと息が荒くなる。医者に傷口が感染者の血に触れるとよくないと言われたのを思い出し、骨で自分の指を傷付けないよう気を付けた。
 脊髄の一部を切り取って引っ張る。ようやく一人分が終わった。一度離れ屋を出て、外で待つ医者の元にそれを運び部位があっているか確認してもらった後、もう一度離れ屋に戻る。

 時間が許す限り多くの脊髄を医者に渡したいと思い、すぐに次に取り掛かった。
 最初は怖かったもののやり続けるうちにだんだん慣れてきた。中途半端に喰われた死体で筋肉がまだしっかり付いていて取り組みづらい物もあったため、三十人全員分というのは無理だったが、半数ほどの脊髄と血液を取得することができた。

 離れの部屋に立てかけられた時計を見ればもう五時だ。
 人魚族の中年女性に夜までにと指示されていたことを思い出し、慌てて死体の足を掴んでズルズルと引きずる。三十人を外に引っ張り出した後、部屋に置いてきた血だらけの器具も取ってきて医者に返した。

「あはははは、血だらけじゃないですかあ。まるで貴女が人喰い怪異のようですよ」
「一生分の血を見た気がします……」
「本当にやるなんて根性ありますねえ。貴女に任せたの、半ば冗談だったんですが」
「冗談だったんですか……!?」

 ぎょっとして聞くと、医者はケラケラと笑った。
 そして、ふっと真顔に戻って聞いてくる。

「ところで文さん。後ろにいる彼は誰ですか?」

 文は医者の問いに瞬きし、後ろを振り返った。

「きゃあっ!?」

 悲鳴を上げてひっくり返る。
 白髪の長身の男――虎一郎がぬうっとそこに立っていた。

「文。そいつ、誰」

 赤い目を光らせながら、彼はぽつりぽつりと言葉を発する。
 その白い髪は昨夜見た時よりもうんと伸びており、地面に付いていた。持ってきた死体の血が付きそうになっているのを見て、慌ててその白い髪を束ねて持ち上げる。
 髪を留めるようなものがあればよかったのだが、組み紐は珊瑚に渡してしまったためもうない。

 虎一郎が医者を睨み付けている。
 あの穴の底で見た時は病的に痩せこけていたというのに、今は全体的に肉付きがよくなり、肌もつやつやしていた。

「……この人は、この島唯一のお医者さん。悪い人じゃないよ」

 警戒しているのかと思って紹介したが、虎一郎は犬のように唸りながら文の体をその大きな体躯で包みこんでしまう。あまりにもきつく抱き締めてくるため身じろぎすらできない。

「おやおや。その御方、文さんに懐いているようですねえ。人魚族は力が強いですし、この死体を運ぶのを手伝ってもらったらどうですか」

 何とか顔だけ動かして虎一郎を見上げると、虎一郎は丸い瞳でじっと文を見下ろしてきた。

「文、僕が運んだら、喜ぶ?」
「……うん。助かる」
「じゃあ運ぶ」

 そう言ってぱっと文の体を解放した虎一郎は、ひょいひょいと死体を重ねて片腕に担いだかと思えば、「どこに持っていけばいい」と文を振り返った。

「えっと、とりあえずこのお医者さんの病院の近くまで。重たいから、疲れたら休んでね」
「文、優しい。好き」

 嬉しそうに顔を綻ばせる虎一郎は、図体が大きい割にまるで子供のようだった。

 虎一郎はズルズルと地面に付いた髪を引きずらせながら歩き始める。
 文もできるだけ一目に付かない道を選びながら残りの死体を引っ張って歩いた。さすがに一気に持っていくのは不可能なので何度か往復しなければならないだろう。

 歩いている途中、医者が文に耳打ちしてきた。

「彼、人魚族の方ですよねえ。できれば採血したいのですが、説得していただくことはできますか」
「……言ってはみますけど、本人がどんな反応するかは分かりません。実を言うとあの人と会ったの、これが三回目で」
「おや、向こうは随分文さんのことを好いていそうですけどねえ」
「それが何でかもよく……とにかく、変な人なんです」

「――――僕、文が望むなら何でもするよ」

 前方を歩く虎一郎が振り向かずに口を挟んでくる。
 ひそひそ声で話し合っていたというのに聞こえていたらしい。なかなかの地獄耳である。

「……本当に? 採血もしてくれる?」
「さいけつっていうのが何か分からないけど、文が望むならやる」
「嬉しいけど、虎一郎は何でそんなに私の言う事聞いてくれるの?」
「文が僕の、本物の母親だから」
「…………」

 今日の早朝に言われたことと同じだ。
 文はまだ十四歳で出産経験などない。誰かと勘違いしているとしか思えなかった。
 しかしそのような思い込みで研究に協力してもらえるのであれば好都合である。強くは否定せずにいようと思い、それ以上何も言わないようにした。

「貴女、隠し子がいたんですかあ。隅に置けませんねえ」
「違いますよ。分かってるでしょう」
「ふふふ」

 横から医者がからかうような目を向けてくるので小声で返す。
 そのうち、ようやく病院が見えてきた。

 医者が病院の鍵を開けて中に何か取りに行ったため、文と虎一郎だけが何度か屋敷と病院を往復して全ての死体を回収した。

 道中、虎一郎はやけに文とくっつきたがった。
 汗と血でベタベタしているし、匂いもきついだろうに、無遠慮に触れてくるため戸惑う。

「虎一郎、暑くないの?」
「文とずっと一緒にいたい」
「うん……。でも、そんなにくっつかれたら歩きづらいよ」
「文は僕とくっつくのやだ?」
「うーん……。嫌っていうか、暑いかなぁ」

 苦笑いしながらそう言うと、虎一郎はすぐに文から離れた。
 文の嫌がることをするのは避けたいらしい。
 虎一郎を見ていると、幼い頃家で飼っていた従順な飼い犬のことを思い出す。その犬も文によく懐いていたが、文たち家族が茨城から栃木に引っ越す時に他の人の家に預けられてしまい、もう会うことはなくなっていた。

(そういえばあの引っ越しは、随分慌ただしかったな……)

 きっかけは、文の母親の精神状態が何やらおかしくなったことだった。
 何かがいる、聞こえる、海から誰かが自分を狙っている――母はしきりにそう言い続け、医者からは精神分裂病だと診断を受けた。しかし本人は、自分は病気じゃない、狙われているのは事実だと言い張り、途中から病院にも行かなくなってしまった。
 何かに怯え続ける母に困り果てた父が、海から狙ってくるなら海から離れればいいんじゃないか? などと冗談のようなことを言い出し、その翌月には引越し先が決まっていた。

 栃木に引っ越すと何故か母の症状は落ち着き、文が学校に入る頃には、いつもの母に戻っていた。それから時が経ち、文の父も文も、母が一時期病気だったことなど忘れて生活していた。

 ――『もう、もう、だめなの。お母さん一人では耐えられない。だって何度も迎えに来るのよ、海から。千代子のために引っ越したのに、それでも来るの』

 思えば、別荘での母は、診断を受けた当初の母と似ていた。

(茨城にいた頃のお母様、他になんて言ってたっけ……)

 脳の病気で事実を歪めて見てしまうのだと聞いていたので真に受けないようにしていたが、他に何を言っていただろうと歩きながら記憶を呼び起こす。
 あれは暑い夏。優しかった母が急に人が変わってしまったように変なことを言うようになった。そんな事実はないと否定すると余計に神経を逆撫でしてしまい、暴力も振るってきた。
 泣きながら何か訴えてくる過去の母の姿が脳内に呼び起こされる。

 ――『人魚が迎えに来る。毎晩家の前に来て、戸を叩いてくる。■■子を迎えに来てるのよ。だって聞こえたの、私、聞いたの、〝子を返せ〟って言われたの』

 文は、死体を運びながらハッとした。

 ――人魚?

 隣を歩く虎一郎を見上げる。
 虎一郎は文の視線に気付き、「ん?」と柔らかい笑顔を向けてきた。

(人魚族……人魚……)

 母のあの時の異常な怯えようは、人魚を信仰するこの島と何か関わりがあるのだろうか。

 そんなことを深く考えているうちに、最後の死体を病院まで運んでくることができた。
 医者は奥から出てきてさっさと虎一郎を連れて行ってしまう。心配になり、咄嗟に駆け寄って声をかけた。

「本当に大丈夫? 針、苦手じゃない?」
「針? 何で?」

 医者の言う通り椅子に座り、着物の袖を捲って腕を出している虎一郎が、きょとんとした顔で文を見つめた。

「針くらいなら平気だよ。何度も使われたことあるもん」
「使われた……?」
「僕、〝出来損ない〟らしいから。〝矯正〟しなきゃいけないって、昔色々された」

 ふにゃりと笑いながら言う虎一郎。
 文は斧を持って殺そうとしてきた中年女性のことを思い浮かべ、針で刺すことくらいやりかねないと思って複雑な気持ちになった。やはり人魚族は歪んでいる。

 虎一郎がじぃっと文を見つめている間に採血は終わった。
 文は床に付いている虎一郎の泥や血で汚れた長い髪が気になり、医者からハサミを借りて傍に寄る。

「虎一郎、髪を切ろうか」

 虎一郎の長い髪を掬い、少しずつ切っていく。
 虎一郎は文の手に全く抗わず、大人しく椅子に座っていた。

「人魚族って髪が伸びるのが早いんだね」

 出会った時と比べて随分と長くなった髪に感心する。人魚族の髪が一日でこんなに一気に伸びるということは、珊瑚もあの綺麗な髪を毎日切っているのだろうか。

「僕だけだよ」
「虎一郎だけなの?」
「うん。僕だけ、食べたら伸びる」
「ふうん……私がおむすびあげたおかげかな」
「気持ち悪い?」
「ううん。たけのこみたいで凄い」
「たけのこって、なあに」
「食べたことない? たけのこご飯、おいしいんだよ。植物なんだけど、たけのこは他の植物よりも短時間で成長するの。ちょっと見ない間にうんと長く伸びてたりする。虎一郎の髪みたいにね」

 虎一郎が楽しそうにくすくすと笑う。
 文はその無邪気な笑顔を見て、島にたけのこがあれば食べさせてあげたいと思った。

 虎一郎の髪を短くすると、さっぱりして綺麗な顔がよく見えるようになった。

「人魚族って皆美形だね」
「びけい……」
「かっこいいってこと」
「文、僕のことかっこいいって思ってるの?」
「うん。虎一郎は女の子に好かれるだろうね」
「じゃあ結婚しよう」
「け……結婚?」

 突然話が飛躍したので素っ頓狂な声を上げてしまった。

「……虎一郎、意味分かってる?」
「うん。男と女が、交わることでしょ?」

 虎一郎が真顔で答える。結婚という事柄の意味を知らないわけではないらしい。

「私は虎一郎の〝本物の母親〟なんじゃなかったの?」

 実際のところは別として、虎一郎にとって文は母親ということであるのに、何故求婚してくるのか不思議だった。

「うん。だから結婚できる」
「……ごめん、どういうこと?」
「人魚族は、血が繋がってる相手としか結婚することを許されていないんだ。それ以外と交わると、……えーっと……じゃいんのつみ? って言って、地獄に堕ちるらしい」

 邪淫の罪。珊瑚が言っていた、この島の大罪だ。
 決まった相手としか愛し合うことを許されていないとは聞いたが、人魚族にとってはそれが近親者だと言うのだろうか。

「特に女の人は、大体お爺様のお相手をすることになるから……その前に、僕が文を僕のものにして、守ってあげたい」

 〝お爺様〟――きっと、御簾の向こうにいた異形の影のことだ。

 話を聞いているだけでも気持ち悪くなってきて黙り込んでしまった。
 あの、声を聞くだけでもぞっとするような異形の存在と、人魚族の女性は子供を作っているというのだろうか。ともすれば珊瑚も。
 しかし気持ちが悪いというのも文が人間であるからこその感性であり、人魚族にとっては違うかもしれない。そう自分に言い聞かせて切り落とした白い髪を掃除していた時、

「――――ッおかしいっ!!!!」

 机を大きな力で叩く音がして振り返る。顕微鏡を覗いていた医者が苛立ったように何度も机をバンバンと叩いていた。

「感染していない!」

 医者は大声で言いながら、物凄い勢いで立ち上がった。

「父さんの仮定が間違っているのか? そもそもこのリンパ球が鱗生病の指標とはならない? いや、そんなはずは……」

 ぶつぶつと呟きながら爪を噛んでいる。

「私の予想が間違っていた? いや、何か別のかからなかった原因があるはず……」

 何か医者にとって不都合なことが起きたということだけは分かるので、静かに医者の独り言が終わるのを待つ。今口を出したら怒られるような予感がした。
 しばらくして、医者はふうと息を吐き荒々しく椅子に座った。

「――おかしいですねえ。そこの虎一郎さんとやらですが、感染していません」

 一瞬、しんと室内が静まり返る。

「……感染してないって、鱗生病にかかってないってことですか? いいことでは」
「よくありませんよお。私の予想が外れました。文さん、これ見てください。こっちが拡大した文さんのリンパ球で、こっちが虎一郎さんのものです」

 医者が不機嫌なのは分かるので、言われた通りに顕微鏡を覗き込んだ。
 顕微鏡を使うのは初めてなので少しわくわくする。しかし見ても何が何だかよく分からない。

「……えーっと……」
「虎一郎さんの方は核が類円形でしょう。しかし文さんの方は違う。私はねえ、これで感染しているか感染していないか見分けていたのですよお」
「核って、この色の濃い紫のところですか?」

 もう一度覗き込んで観察する。
 文の方のリンパ球は特徴的な花びらのような形をしているが、虎一郎の方は丸い。一目で別物だと分かるくらいには形が違った。

「鱗生病の感染者は、花びら様の異常なリンパ球を持つのです。これは私の先代が発見したことで、私の代でも患者全てを確認しましたが例外はありませんでした。文さんが回収した死体も全て花びら様だった。それが虎一郎さんは違う。私の仮定が間違っていたということです。はぁ、やってらんねえです」
「仮定というのは……?」
「私はねえ、前例のないことではありますが、特定の一族にのみ異常に感染しやすい病気というのがあるのかもしれないと考えていたのですよ。先代の記録を見ていても、人魚族だけが百発百中で感染している。私の前の前の世代までは、まだ人魚族の方から治療を拒否していたわけではないので、一族全員を調べることができていたんです。そこでは皆この花びら様のリンパ球を持っていました」


【次話】


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