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「人魚隠しし灯篭流し」第三話


【第一話はこちら】


 しばらく橋の向こうを眺めていた千代子は、いつの間にか随分遠くまで来てしまっていたことに気付き、袋を持ち直して早足で市場まで戻った。
 市場には既に珊瑚が戻ってきており、千代子の姿を視界に捉えるなり心配そうに駆け寄ってきた。

「貴女、どこへ行っていたの?」
「ごめん、もう少し遅くなると思っていたから、川の方を歩いていたの。この島は水が綺麗だね」
「なんだ……橋の向こうに行ってしまったのかと思って心配していたところよ」

 珊瑚が胸を撫で下ろす。

「……橋の向こうって危険な場所なの?」
「あの向こうには忌むべき一族が住んでいるの。もう随分前から滅多に人は寄り付かないわ」

 千代子は先程いじめられていた少年のことを思い出した。

「その一族って、もしかして〝海雲〟という名前?」

 珊瑚の赤い目がぎらりと光る。急に怖い顔になったため、千代子は思わずわずかに後退った。
 珊瑚は低い声で問うてきた。

「その名前をどこで?」
「こ、子供達が喋ってるのを聞いちゃって」
「海雲族は、奇妙な力を使う呪われた一族よ。――嗚呼、名前を出すのもおぞましい!」

 珊瑚が突然目を見開いて大声を出す。
 しんっと市場全体が静まり返った。
 どうやら珊瑚にとって海雲族の話題はよくないものらしい。千代子は周りを気にし、慌てて話題を変えた。

「さ、珊瑚さん、そういえば! みかん、お腹が空いて一つ食べちゃって。ごめんなさい」

 袋の中のみかんを一つ勝手に奪ってしまったことを謝罪すると、次の瞬間、珊瑚が通常通りの柔らかな笑顔を浮かべる。

「いいのよ。食欲が戻ったようで嬉しいわ。この調子で全快するといいのだけど」

 その豹変っぷりに少しどきりとした。
 この珊瑚という女性には二面性がある。先程の好いた男の話の時といい、何か深い闇を抱えているような、底知れない女性だ。

「さあ、そろそろ帰りましょう。頼まれていたものは全て揃ったから」

 笑顔で踵を返す珊瑚を追って隣に並ぶ。

 歩いているうちに右腕が痒くなり、着物の上から何度か掻いた。しかし痒みはなかなか収まらない。袖を捲って痒い箇所を見てみるが、変わった様子はなかった。

「あら、どうしたの?」

 珊瑚が千代子の隣を歩きながら不思議そうに覗き込んでくる。

「肌が痒くて……」
「蚊かしら? 多いのよねえ、この島。夏は大変」

 困ったように眉を下げる珊瑚を見て、千代子は内心ほっとした。
 海雲族の話をした時の怖い顔の珊瑚とは別人のようだ。もしかすると、海雲族が嫌いなだけかもしれない。

「ねぇ珊瑚さん、子育てって大変?」

 種族が違うとはいえ見た目からすれば自分と同年代である珊瑚が子育てをしているなどまだ信じられず、恐る恐る聞いてみる。

「大変よお。子育て自体も大変だし、屋敷の女性陣からの圧力や悪口も大変。わたくしなんて、人魚族の他の女性よりも子の数が少ないし、母乳が出ないからってお婆様に散々文句言われて……」
「十九人も産んだのに、まだ少ないって言われるの?」
「ええ。わたくし達の一族は、生まれても健康に長生きできる個体は数少ないから、とにかく沢山産めと言われるのよ」

 珊瑚がうんざりしたように大きな溜め息を吐く。
 千代子には出産経験はないが、近所の叔母さんから出産というのは命懸けなものと聞いたことがある。それを簡単に、沢山産めなどと。

「珊瑚さんに失礼だよ」
「……え?」
「簡単なことじゃないでしょう。子をなすことも、育てることも」

 千代子が言うと、珊瑚の赤い瞳がわずかに揺れた。
 そして、彼女はふわりと柔らかい笑顔を浮かべる。

「ありがとう。そんな風に言ってくれたのは、貴女が初めてよ」

 目だけでなく魂までも吸い込まれそうな美しさに少しどきりとした。
 見た目は同い年くらいなのに、珊瑚の仕草や表情の節々に大人のような色気を感じる。
 人魚であると自己紹介されてすんなりと受け入れることができたのは、珊瑚自身が人ではないと言われても納得してしまうような雰囲気を醸しているからなのだった。

 :

 ヒグラシが甲高い声で鳴き続ける、夕刻。
 千代子には専用の小さな和室が用意され、珊瑚がそこに食事を運んできてくれた。更に乗っているのはほかほかの米と、昼間に市場でもらった魚、味噌汁、漬物だ。
 珊瑚は何やら家の仕事があるらしく、食事だけ置いてすぐに出ていってしまう。
 一人ぽつんと残された千代子は、箸を持って味噌汁を啜った。

(これからどうしよう……)

 千代子は無一文である。お金も持っていないのに、珊瑚の言葉に甘えてずっとここでご飯を食べさせてもらうわけにもいかない。
 次に珊瑚がこの部屋に来たら、何か屋敷のことで手伝えることはないかと申し出てみようと決めた。

 味噌汁を吸い終わり、魚とご飯を口に含んだ千代子は、そこでぴたりと手を止める。

 ――食べている感じがしない。

 食べなくても腹が減らないだけでなく、食べても満腹感がない。自分の体はどうしてしまったのだろうと不安に思った。流れ着いた時に岩にぶつかって感覚がなくなってしまったのかもしれない。
 とはいえ折角用意して頂いたものなので、無理やり口に入れて呑み込んだ。

 島には医者がいると珊瑚が言っていた。
 明日になったら診てもらえないか頼んでみようと思いながら、用意された敷布団の上で目を瞑る。

 瞼の裏に今日会った少年の姿が映り、何故か少し懐かしさを覚えた。

 しばらくしてはっと目が覚めた。
 周囲はまだ真っ暗だ。電灯がないので栃木よりもずっと暗い。
 壁に立てかけられた古い時計を見上げると夜中の二時だった。早めに眠りに付いたせいで、起きるのも早すぎる時間になってしまったらしい。

 蒸し暑さと喉の乾きを覚え、ゆっくりと布団から出た。
 ジーーー……と抑揚もなく鳴き続ける虫の声が聞こえる。

 飲み水を求めて廊下に出た。皆寝ているのか屋敷は静まり返っていて少し不気味だ。ぎし、ぎし、と廊下を進む度に軋むような音がする。

 珊瑚から電気冷蔵庫の場所は教えてもらっていたので、その中に入っていた水を少し頂いてから部屋に向かった。
 廊下を歩きながら外を見上げる。今日は月も雲が隠してしまっているようだ。

 珊瑚の屋敷は高い塀に囲まれているため島の原風景は見えない。ただ、遠くにある高い山々の先だけが目に入った。
 千代子はじっとその山を見つめる。すると、望遠鏡でも覗いているかのように急にその山が大きく見えた。木々の細部まで見える。千代子の本来の視力では見えるはずのないところまで拡大されている。

 千代子は戸惑って山から視線を外そうとしたが、その前に、不可解なモノが視界に写った。

 ――――何かが動いている。山の木々の間、それはゆらゆらと揺れ動いていた。

 山に住む動物という感じもしない。四足歩行ではなく、二本足で立っている人間の背中だ。しかし人間と断定するにはあまりに不自然な格好をしている。頭部はつるつるで、腕は後ろを向いているのに足はこちらを向いている。衣服も身に纏っていない。
 何故かその生き物から目を離せずにいると、ぐりんっとつるつるの頭部が百八十度回転して千代子の方を向いた。

「え……っ」

 思わず短い悲鳴を漏らす。
 その顔には、目が一つしかなかった。顔の中心に真っ赤な瞳孔が一つあるだけ。それ以外には何もない。
 それはゆらゆらと揺れながら、その目の中に千代子を映していた。

 次の瞬間、視界がいつもの大きさに戻る。遠くに見える山はただ静かに佇んでいるだけだ。
 汗が体を伝う。あれだけ蒸し暑かったのに、一気に体が冷えていく心地がした。

 ――こちらに来る。
 向かってくるところが実際に見えたわけではないのに、あの化け物が山から千代子の方に向かってくるような予感を覚えた。

 千代子は動揺し、足をもつれさせながら走った。
 下駄を履き、昼間珊瑚と一緒に通った門の錠を外して外へ出る。

(あれは何?)

 見たこともない生き物だった。あれと目が合った時、全身が凍りつくようだった。
 この島にのみ住む特殊な生き物なのかもしれない。
 ここに居てはいけない、あれから逃げろと全身が警告している。

 しかし逃げたところで行き場はない。
 島に立ち並ぶ家々はひっそりとしており、戸を叩いても誰も出てこなかった。

「はぁっ……はぁっ……う、あ、うぁぁあああああ」

 頭の中に、ぐるぐるとさっきの赤い目が何度も浮かぶ。息が荒くなり、体は震え、いつの間にか叫んでいた。
 思考が赤くなっていく。あの化け物の色に染まっていく。

「いや、いや、いやぁぁぁああ」

 千代子は自分でも何を叫んでいるのか分からぬまま、気付けば浜辺に辿り着いていた。下駄の中に砂が入り込み、じゃりじゃりと不快だ。

「ひっ!!」

 振り向けば、山にいた赤目の化け物が静かに後ろに佇んでいる。
 それは変わらずゆらゆらと奇妙な動きをしながら一歩一歩と千代子に近付いてきた。千代子は泣きじゃくりながらそれに砂を投げつける。
 化け物の目の下に薄い線が入った。その線がゆるりと弧を描く。口だ。

 喰われる、と予感したその時、千代子の視界を何者かが遮る。

 その人物は軽々と千代子の体を担ぐと、一本歯の下駄で地を蹴った。からん、と大きな音がする。

 ――次の瞬間、千代子の体は宙に浮き、夜空を飛んでいた。

 真下に浜辺が見える。浜辺からじっと見上げてくる赤目の化け物は、こちらには来れないようで恨めしそうに丸い目を細めた。

「っはぁっ……はぁ、はッ……」

 ようやくゆっくり呼吸ができたような気がした。
 解放されたような心地で自分を抱えている男を見つめる。その黒髪と綺麗な顔には見覚えがあった。――昼間助けた少年だ。

「貴方は……」
「帆次《はんじ》。海雲族の次期当主だ」

 そう言って帆次は地に降り立った。

 帆次は担いでいた千代子をゆっくりと地面におろし、懐から黒い布を出してきて千代子に頭から被せる。

「あいつは黒いものが見えない。しばらくそれを被ってろ。歩けるか?」

 千代子は下駄の間に挟まっていた砂を払い、下駄を履き直してこくりと頷いた。
 帆次が歩き始めるので、千代子は慌てて彼に付いていった。こんなどこかも分からない場所で一人置いていかれたら迷子になってしまう。

 しばらく歩いた後、古いながら武家屋敷のような大きな邸宅が見えてきた。その横には珊瑚の屋敷の隣にあったような小さな祠と、崩れかけの鳥居が立っている。
 不意に帆次が立ち止まり、千代子の方を振り返った。

「何か聞きたいことねぇの?」

 暗闇の中、帆次の目は金色に光っていた。まるで人ではないみたいだ。
 色々なことが一気に起きたせいで、何からどう聞いていいか分からない。千代子はしばし黙り込んだ。そして、何とか自分の中で言葉を整理した後、まず一つ質問を投げかける。

「……さっきの、一つ目の……変な人は何?」
「山に棲む怪異だ。銀鱗島は古くから、怪異と人が共存する島なんだよ」

 すぐには受け入れ難い話だ。しかし、さっき見た異形の存在を思い出せば、それも信じざるを得ない。

「山の方向は見ない方がいい。目が合えば気に入られて、あいつが山から下りてくる。あれは子供が好きなんだ。一度目が合えば見失うまで追ってくる。追い付かれたら喰われるか、足を切断され山に連れ去られるかだ」

 帆次の言葉にぞっとしていた時、入口の戸が音を立てて勝手に開いた。
 帆次がまた歩き出す。千代子も帆次に付いて門を潜り抜けた。

「貴方、さっき飛んだよね? 空を」
「鳥のように飛んだというよりは、地を蹴って跳んだだけだ。海雲族は代々人のそれを超えた身体能力を持つ」

 海雲族も怪異の一種なのだろうか。
 海雲という名を出した時の珊瑚の只事ではない表情を思い出し、少し不安になってきた。

 黒い布を被ったまま下駄を脱いで屋敷の中に入る。大きな和室に到着すると、帆次は二つ座布団を用意して「座れ」と短く命令した。
 千代子は黒い座布団の上で正座する。

「その布はもう外していい」
「ほ……本当に?」
「何だよ、度胸がねぇな。俺が言ってんだから大丈夫だ。あいつはもう追ってきてない」

 躊躇いはあったが、恐る恐る布を頭から外す。
 嫌な気配はもうしていない。千代子は心底ほっとして脱力した。


「そいつか。今朝浜に流れ着いていたというのは」

 足音も、気配もなかった。部屋の襖を開けたのは、濡羽色の上質な着物を身に付けた若い男だ。背はすらりと高く、端正で男前な顔立ちをしている。
 千代子は思わず見入ってしまった。父親とも茂とも、これまで見てきたどの同級生とも違う、妙な色香のあるその男に。

「お父様。起きていたのですか」

 帆次が彼を振り向いて言った。どうやら、彼は帆次の父親らしい。親にしては見た目が若い。一体何歳の時に産んだのだろうと不思議に思う。

「ご承知の通り、例のよそ者はこのガキです。既に人魚族とも接触しているようで」

 ガキって、と千代子は帆次の物言いに少し不満を感じた。

「早く帰さねば、戻れなくなってしまうでしょう」

 そこでハッとする。帆次は昼間会った時もこの島から出た方がいいと言ってきた。彼は千代子をこの島から追い出そうとしているのだ。
 確かに怪異は恐ろしかったが、千代子にとってはそれよりも娘ほど年の離れた千代子に欲情する茂や、義理の娘である千代子を売った母の方が恐ろしい。栃木に戻るくらいならあの怪異に喰い殺された方がマシだ。

「……私、帰ります」

 こんな不気味な一族の屋敷にずっといるわけにもいかない。珊瑚の元に帰りたい。そう思って部屋を出ようとした。

 すれ違いざま、ぱしっと腕を掴まれる。男らしい強い力だ。掴んだのは帆次の父である。
 彼は千代子の袖を捲くり、腕に出ている紅い斑点を見つめた。そこは、千代子が昼間から何度も掻き毟っていた箇所だった。

「鱗生病《りんせいびょう》の症状が出ている」

 彼はよく分からないことを言うと、突然千代子の顔を両手で掴み、じぃっとその目を見つめてきた。彼の目は暗い金色で、見つめていると何だか吸い込まれそうな異様な気持ちになった。次の瞬間ぐるぐると目眩がし、千代子は思わず彼から目を逸らす。すると視界は揺れなくなった。

「名は何と言う」

 低く甘い声で問いかけられ、千代子は恐る恐るもう一度帆次の父を見た。目眩はもうしない。

「私の名前は……」

 言いかけて、口籠る。

(――何だっけ?)

 おかしい。自分の名前が口から出てこない。
 帆次の父がふっと笑った。優しい笑顔とは決して言えぬ、邪悪な笑みだった。

「文《ふみ》にしよう。お前は今日から文だ」

 それを聞いた隣の帆次がはっとしたような顔をし、その後、複雑そうに口をもごもごさせる。

「お父様、お戯れはよしてください。その名は……」
「いいだろう。この子は文によく似ている」

 愛しそうに囁いた帆次の父は文から手を離し、腕を組んで立ち去っていく。

「しばらく世話をしてやれ。その子は本土に戻りたくないようだからな」

 彼がいなくなった後、文は足を崩して座っている帆次に視線を移した。

「……帆次さん」
「帆次でいい」
「じゃあ……帆次。今の人が言っていた、鱗生病って何?」

 栃木では聞いたことのない病名だったので気になった。
 死のうとしていた身で病気が怖いのもおかしな話だ。しかし、得体の知れないものにかかっているというのなら症状くらいは知っておきたい。

「進行の速さに差はあるが、ほとんどの人間が最終的には死に至る病だ。外見的特徴として、肌に鱗が生える。お前はまだ進んでねぇみたいだけど、初期症状は腕や足の掻痒感と、紅い斑点。お前もそのうち鱗が生えるぞ」

 珊瑚の屋敷で見た老婆の姿を思い出して悪寒が走った。自分もあのような醜い肌になって死んでいくのだろうか、と喪失感を覚える。
 文は慌てて部屋の隅に寄って帆次と距離を取った。

「……何だよ」
「だって、感染経路の分からない病気なんでしょう? 私と喋ってたら帆次も移るかも」

 帆次は一瞬ぽかんとした後、くっと低く笑い声を上げた。

「そのうち死ぬっつーのが確定したのに、他人の心配かよ」
「誰かを道連れにして死ぬより一人で死ぬ方がまだマシだし……」

 それに、文は自殺を試みて死に損なった身だ。元々死ぬつもりだったのだから、死ぬこと自体は怖くない。

「安心しろ。海雲族だけは鱗生病にかかっても重症化しない」
「……どうして海雲族だけ?」
「さぁな。俺も分からねぇ。ただ、俺らだけが助かってるから島の奴らからは俺らが持ち込んだんじゃねぇかって疑われてる」
「だから今日いじめられてたの?」
「海雲族が差別されているのは、おそらくそれもある」
「そんな……証拠もないのに」

 文がもう一度座布団の上に座ると、帆次が照明器具に火を付けた。和室が一気に明るくなる。

「で、余命わずかな文ちゃん。何かやりたいことはあるか?」
「やりたいこと?」
「何でもいい。たらふく飯が食いたいとか、綺麗な花が見たいとか。俺に叶えられることなら最期に叶えてやる」

 意外な質問だった。彼なりのいずれ死ぬ者に贈る思いやりなのかもしれない。
 しかし、突然やりたいことを聞かれても困ってしまう。今の文にはそのようなことを考える余裕はないからだ。

「特にない……」
「ない、だぁ? お前、死ぬんだぞ? 早ければ発症して一週間で足がやられて動けなくなる。排尿もうまくできなくなって死ぬぞ。いいのか? 動けるうちに何かやらなくて」

 帆次の言葉を聞いて、思い出したくもない茂の言葉が頭に浮かんだ。

 ――『最初は、膝や足が震えて歩けなくなったり、尿失禁が起こったりするだけなんだけど……そのうち全身の筋力が低下していて動けなくなって、ほとんどの人が死に至ったらしい。祟りだと騒がれて一時期は大変だったようだよ』

 霧海村に起こった祟り。
 それは今も銀鱗島を蝕んでいる鱗生病が、村に上陸したから起こったことではないだろうか。症状があまりに似ている。

「…………」
「……ああもう、いいよ。俺が決めてやる」

 黙り込んでいる文に痺れを切らしたのか、帆次が頭を掻きながら言う。

「俺と一緒に鱗生病の原因を解明しろ」
「……何で?」
「数百年続く意味分かんねぇ流行り病のせいであらぬ疑いかけられてうちの一族は迷惑してんだよ。人助けだと思って手伝え。もしかしたら、その過程で病を治す方法も見つかるかもしんねぇしな」

 文はしばし考えた。どうせ死ぬ身で、自分のためにやりたいこともない。であれば、最期に他人のために何かして死んだ方が気持ちがいいかもしれない。
 残り少ない時間の中で数百年も原因不明だった病について解明できるわけがないと思いつつ、最期の思い出作りとしてそのための努力をすることは悪くないような気がした。

「……他にやることもないし、分かった。協力する」

 文がこくりと頷くと、帆次は満足げに笑った。


 夜明け前、文は帆次に背負ってもらって島の中心部まで戻った。人間離れした跳躍力を持つ帆次の足のおかげでたった数分で珊瑚の屋敷に辿り着くことができた。
 遠くに見える赤い橋を見て、やはりあの橋の向こうに行ってしまっていたのだと少し申し訳なく思う。あれほど珊瑚に釘を刺されたのに、結局足を踏み入れてしまった。
 屋敷の門の前まで来た文は、そこではっと大事なことを思い出した。

「……ねぇ帆次、私、人魚族のお屋敷から出ていった方がいいかな? もし移ったら大変だし」
「心配しなくても、鱗生病は空気感染しねぇよ」
「何でそんなこと分かるの?」
「この島には五代続く病院がある。そこの病院はこの島唯一の病院で、代々鱗生病の研究をしてる。先代が遺した手記には空気感染は認められないと書いてあった」
「……じゃあ人魚族は、空気では移らないことが分かってるのに感染者を隔離してるってこと?」
「頭じゃ分かってても過敏になってんだよ。空気感染じゃねぇはずなのに、人魚族だけ感染者が圧倒的に多いせいだ。俺ら海雲族が鱗生病に強いみたいに、あいつらは逆に弱いのかもな。お前も発症したことは隠した方がいい」

 それだけ言って帆次は文を背中から下ろした。

「んじゃ、文ちゃん。夜にまた迎えに来るから。俺に会ったことは人魚族の連中には言うなよ」
「うん。色々教えてくれてありがとう」

 ひらひらと手を振る。瞬きした次の瞬間、帆次はいなくなっていた。上空を見ると既に空高くにいる。橋の上で会った時も上に跳んでいたのだろう。

 東の空が赤みを帯びて明るみ始めている。
 文は音を立てないように屋敷に入って錠をかけ、紅い斑点のある自分の腕を見た。

 鱗生病。死に至る病。
 不謹慎だが、発症したことにほんの少しだけほっとしていた。これで死ぬための言い訳ができたから。
 文には与えられた命を自ら手放すことに罪悪感があった。しかし、病気のせいで死ぬという形であれば気にすることもない。死ぬのであればこれから先の人生のことを考える必要もない。
 最期のその時が来るまで、この島で余生を過ごそうと思った。


【次話】



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