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『100分de名著』でも話題。名作『モモ』が教えてくれる「時間の価値」

時間に対する矛盾

「忙しい」「時間がない」「疲れた」
こういった言葉を、例えばこの3日で、あなたは何度口にしただろうか。
考えてみれば毎日言っているな、なんていう人もいるかもしれない。

最新家電やインターネットなどのおかげで、私たちの生活は日を追うごとに便利になる。その事実だけ取り出せば、一昔前に比べて私たちの手には余るほどの時間があるはずだ。しかし聞こえてくるのは時短、効率化、コスパ…そんな言葉ばかり。まるで私たち自身が機械的に時間を節約する家電になってしまったかのようである。

手に余るどころか昔よりもはるかに、私たちは貪欲に「時間」を求めて生活しているのではないだろうか。1分1秒でも無駄にしたくない……「時間のやりくりに対する疲弊」は現代の病とも言えるかもしれない。

NHK Eテレの教養番組『100分de名著』の記念すべき100作品目に選ばれたのは、ドイツの児童文学、ミヒャエル・エンデ著『モモ』。

あらすじ
町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります。人間たちの時間を取り戻すために立ち上がったモモの運命は…。

新型コロナウィルスの影響で「新しい生活様式」というものに適応していかなければならない今、これまでとは違った「時間」が私たちの目の前にある

このnoteでは、未曽有の事態を現在進行形で生き抜いている私たちに、「豊かな時間とは何か?」を問う不朽の名作『モモ』が教えてくれることについて考えてみたい。そのなかで『100分で名著』の解説にも触れ、私たちの感じている「心の問題」とも照らし合わせながら、これからの時代を「豊かに生きていく」とはどういうことかに迫っていきたいと思う。

「灰色の男たち」が付け入る心の隙

『モモ』の舞台はとある大都会。本文には「人びとは車や電車で動きまわり、電話や電灯をつかうように」なった、でも「むかしの建物の円柱や、門や、壁の一部が残って」いる、とある。エンデが『モモ』を執筆したのは1970年代だから、その頃の都会の様子を思い浮かべればそう差異はないだろう(1970年といえば、日本では大阪万博が開かれた年だ)。
そんな『モモ』の世界の住人たちと、現代を生きる私たちの「心の問題」の共通点がわかりやすく書かれた箇所がある。

「おれの人生はこうしてすぎていくのか。」
「おれはいったい生きていてなんになった?」
「おれはなにものになれた?たかがけちな床屋じゃないか。おれだって、もしもちゃんとしたくらしができてたら、いまとはぜんぜんちがう人間になってただろうになあ!」
(岩波書店刊行/ミヒャエル・エンデ著『モモ』 6章 インチキで人をまるめこむ計算 より引用)

市の中心部にある小さな理髪店の店主フージーの台詞である。彼は「びんぼうでも、金もちでも」なく、大きな成功を手にしたわけではないけれどそれなりに充実した日々を送っていた。それでも「なにもかもがつまらなく思えるときがある」という。上記の台詞は、そんなときに発せられたものだ。

日々SNSを眺めていると、フージーと同じような思いが多くの人の言葉の端々に垣間見えるような気がする。「もっと稼ぎたい」「もっとフォロワーを増やしたい」「もっと認められたい」。つまり「何者かになりたい」という思い。

これは「インフルエンサーになりたい人」というような極端な例に限っての話ではない。今ささやかな幸せがあって、決して大きな不満があるわけではない、叶えたい具体的な野望があるわけでもない、でも時折ふと虚しくなってしまう。そんなモヤモヤとした、ハッキリとした輪郭を持たない虚無のようなものを抱えた人々にも(もしかしたらそういう人にこそ)当てはまる話だ。

そうした私たちの心の隙をついて悪さをしようと登場するのが、このお話で最も重要な要素のひとつ、「時間どろぼう」の「灰色の男たち」である。
灰色の男たちは人間たちの弱みにつけ込んで時間を倹約させ、その時間を自分たち「時間貯蓄銀行」のものにしてしまう。せっせと時間を節約した人間たちは余裕が出るどころかますます不機嫌になりくたびれて、怒りっぽくなっていく。

「人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていく」とエンデは書いているが、これを『100分de名著』では解説の河合俊雄氏(京都大学教授、臨床心理学者)がGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)を例に出して説明している。

ユーザーは無料で提供される便利なツールを使えるようになり、得をしていると思いがちですが、その使用履歴はデータとしてプラットフォーマー側にわたり、企業は莫大な利益を得ています。

そして、蓄積されたデータをもとに新しいサービスや製品がつくられ、私たちはそれを与えられたり買わされたりしています。

つまり、人間がツールを使っているのではなく、人間がシステムに使われているのです。これは、自分のために時間を貯蓄したはずが、実は灰色の男たちに全部盗られているという構図とまったく同じです。

(中略)ひとたび時間貯蓄銀行のシステムに乗ると、人々はむしろ貧しくなっていくのです。これが『モモ』における現代文明の分析の核心で、大変わかりやすく、また恐ろしい部分だといえます。
(『100分de名著』テキスト ミヒャエル・エンデ『モモ』 より引用)

冒頭で、私たちは「時間のやりくりに疲弊」していると書いた。それもまさにエンデの言う「生活がやせほそっていく」ということに、そして河合俊雄氏が言う「貧しくなっていく」ということに重なる。

灰色の男たちについて、本文には「人間が、そういうものの発生をゆるす条件をつくりだしている」とあり、テキストの解説にも「灰色の男たちは人間自身が作り出したものである」と繰り返し書かれている。「今」に対する小さな不満や虚無、そういう負の感情が灰色の男たちの根本原因であるということだ。

私たちは「もっと効率的に」と、より多くの時間を生み出すために心の余裕をなくし、「もっといい暮らしをしたい」と、遠くの蜃気楼のような理想に気を取られて「今」ここにある大切なものを見失いがちである。『モモ』という物語は、私たちにそういう気づきを与えてくれている。

ベッポが教えてくれる【今】の重要性

ここで、主人公モモの親友の一人、道路掃除夫ベッポについて書いておきたい。自分が掃除するべき果てしなく長い道路を前に、彼がどういう精神状態で仕事に臨んでいるかがわかるシーンがある。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。」
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。」
(岩波書店刊行/ミヒャエル・エンデ著『モモ』 4章 無口なおじいさんとおしゃべりな若もの より引用)

これについて、『100分de名著』テキストで河合俊雄氏は「先のことを考えると自分が【今ここ】にいなくなる。【ここ】にいないから、【今】がつまらなく、むなしく感じる」のだと書いている。

ベッポの道路掃除はひと掃きひと掃きが充実している。もっと効率的にやる方法はあるのかもしれない(実際、物語の後半でベッポに灰色の男たちの魔の手が及んだとき、道路掃除はそれまでとは似ても似つかぬやり方で片付けられていった)が、ベッポはそうしない。心を伴わせて仕事をしているのだ。その一瞬の豊かさを大事にするというのは、先ほど言及した理髪店のフージーに訪れた心の虚無とは正反対のものである。

「無駄を省く」ことが大事だと信じて疑わない、時間を盗まれてしまった人間たちは、その「無駄」の部分こそが人生を豊かにするということを完全に見失ってしまっているのである。

わかりやすい例として、子どもの「遊び」について考えてみよう。
日常的に子どもと関わることがある人は少し思い返してみてほしいのだが、子どもに何か遊びを提示する際、「大人になったら役に立つから」、「学びを先取りできるから」等の視点で遊びを選んでしまったことはないだろうか。

習い事はその最たる例かもしれないが、私たち大人はどうしても「役に立てば立つほどいい」と思ってしまう傾向があるように思う。それも効率やコスパを求めるからだろう。

だが、「豊かな時間」という視点で考えたとき、大事なのは「そのとき子ども自身がそれを楽しんでいるか」ではないだろうか。だからこそ近年、「遊び」ながら「学ぶ」幼児教育に注目が集まっているのだろう。(そしてまた私たち大人は、躍起になって「学ぶ」ための「遊び」に子どもを向かわせようとしているのかもしれない。)

象徴的なシーンがある。
物語の後半、すでに子どもを含めたほとんどの人間が灰色の男たちに支配されてしまった世界で、モモが昔なじみの友達に再会したときの会話だ。

「で、これからどこに行くの?」
「遊戯の授業さ。遊び方をならうんだ。」
(どんなことをするのかと質問するモモに、子どもたちは遊びの説明をする。)
「そんなのがおもしろいの?」
「そういうことは問題じゃないのよ。」
「じゃ、なにがいったい問題なの?」
「将来の役にたつってことさ。」
(岩波書店刊行/ミヒャエル・エンデ著『モモ』 16章 ゆたかさのなかの苦しみ より引用)

子育てをしている人の中には、この件を読んで寒気がしたという人もいるかもしれない。かくいう私もその一人だ。子どもにとって「遊び」が大事だということは、多くの親は頭ではわかっている。けれど「将来の役に立つ」という遠くのことに気を取られ、【今ここ】にあるべき子どもの豊かな時間、つまり「楽しむこと」をないがしろにしてしまっている可能性は否定できないのではないか。

少し余談にはなるが、「遊び」という豊かさと通じるものとして、「文化」について触れておきたい。

ここ数か月、私たちは「不要不急」という言葉を嫌というほど目にも耳にもしてきた。「不要不急なもの」はつまり、緊急事態が続く現状において、無駄として省かれてもいい、後回しでもいい、と判断されてしまったものである。

先の「遊び」の例ももちろんだが、大人たちの世界で一番に「不要不急」と見なされてしまったもの、それが「文化」だった。文化の担い手である数多のアーティストたちが困窮する様子に胸を痛めた人も多いはずだ。

そんなとき、世界的に見ても早い段階で、迅速にアーティストへの大規模支援を打ち出したのが、他でもないエンデの母国ドイツだった。私たちの生活がコロナウィルスに脅かされ始めた頃、ドイツ政府が真っ先に文化とアーティストを「必要不可欠なもの」として守る決断を下した様子は、まさにエンデが『モモ』という物語を通して鳴らした警笛に、共鳴するかのようだとさえ思った。

話を戻そう。
省かれてしまった無駄、その「不要不急」は、身体のいのちを繋ぐものではないかもしれない。だが、心のいのちを繋ぐものではある。その無駄こそが、豊かさに繋がっているのだ。

ベッポの道路掃除のように自分自身の【今ここ】を深め、それを楽しみ充実させる気持ちを取り戻すことが、時間に追われ、時に虚しさに苛まれてしまう現代人の「心の問題」を解決するひとつの糸口になるのかもしれない。

特別な関係性の中で生まれる「共有」

それからもう一つ『モモ』が教えてくれる、私たちがこの時代を豊かに生きていくためのヒントらしきものについて書いておこう。
それはモモのもう一人の親友、ジジについてのエピソードにある。

観光ガイドのジジは、お客さん相手に多種多様な作り話をまことしやかに語る。それはもっともらしかったり大変突拍子もなかったりするのだが、それとは別に、お客さんが誰もいないときにモモにだけ話す物語がある。ジジ自身は、なによりもそれを楽しみにしていたという。

たいていそれは、おとぎ話でした。モモがおとぎ話をいちばん聞きたがったからです。
しかもほとんどいつも、ジジとモモのふたりを主人公にしたお話なのです。
それはふたりだけのためのもので、ほかのときにジジが話すものとはぜんぜんちがう感じのお話でした。
(岩波書店刊行/ミヒャエル・エンデ著『モモ』 5章 おおぜいのための物語と、ひとりだけのための物語 より引用)

ジジとモモがこの二人だけの物語を、二人だけの時間を大切に思っていたことがよくわかるシーンである。これについてテキストでは「話すことの意味」として、とても重要なことを解説している。

話というものは、一人で持っていても話にはなりません。
必ず誰かに語られる必要があります。
何十年も経ってから犯罪を告白する人がいるように、自分の中にある話は人に語らないと自分にとっての真実にはならないのです。
(『100分de名著』テキスト ミヒャエル・エンデ『モモ』 より引用)

私たちは自分自身の体験や感情などについて「誰かと共有したい」という欲求を深いところで持っているように思う。人に話すことで初めて確かな実感が得られることもある。

緊急事態宣言もあり外出もままならなかったこの半年、物理的に人に会う、対面する、ということが思うようにできないなかで、SNSで人とのつながりを実感した人も多いだろう。ひとり暮らしの若年層も多い都市部では特に、SNSでの互いに励まし合うムードに救われた人は少なくないはずだ。
けれどそれは、強固なようでいてどこかつかみどころのない、頼りないつながりだと感じざるを得ない。なぜなら、そこにはどうしたって「会うことでしか埋められないもの」が間違いなく存在するということを、逆説的に浮かび上がらせる結果になったからである。

テキストの中で河合俊雄氏は、「相手は誰でもいいからとにかく語ればよいのかというと、それはまた別問題」だと書いている。

例えば、物語の後半でジジは、モモのために残しておいた話を全部人に話してしまいます。
これは、ある意味では魂を売る行為でした。
二人を特別な関係にしていた「二人だけのもの」を自ら捨ててしまったのですから。
(『100分de名著』テキスト ミヒャエル・エンデ『モモ』 より引用)

「二人だけの」という特別感は、顔も知らぬ群衆からの「いいね」ではなく、確かな存在を感じられる、温かみを伴った「あなたと私」という一対一の関係性のもと生まれるものだろう。
人はひとりきりで生きていても幸福を感じない。それはモモが灰色の男たちに大切な友達とのつながりを断たれて気力を失くしてしまう、という描写にも象徴されている。

豊かに生きるために根源的な欲求として「共有」がひとつのキーワードであるならば、SNS全盛のこの時代、私たちは今一度、顔の見える相手との確かなつながりに立ち返る必要があるのかもしれない

『モモ』が持つ普遍性とともに新しい時代へ

ここまで、名作『モモ』を読み『100分de名著』テキストの解説も交えながら、私たちの心の問題と「豊かな時間」について考えてきた。
SNSについては、どこか負の側面を取り上げるような形になってしまったが、言わずもがな、もちろんプラスの側面も大いにある。そして私たちは当然、何かが「なかった時代」には、もう戻ることはできない。発展した文明を享受しながら、飲み込まれないよう逐一立ち止まって考えるしかないのだろう。

そういうとき『モモ』のような作品を読むことは、その時代ごとに新たな意味を更新していくのではないかと思う。混迷極める今のコロナ禍という状況において、そうであるように。

***

オーディオブック『モモ』について

私は『モモ』で初めてオーディオブックを体験したので、そちらの感想も最後に少しだけ。

物語の展開に合わせて、ヒヤリとする、ぞわりとする音楽や、楽しげで優しい音楽、それから時計のチクタクという効果音などが挿入され、これが頭の中に世界を構築するのに大いに役立つ。

「耳で聴く本」audiobook.jpでは、『それいけ!アンパンマン』のバタコさん役、『魔女の宅急便』のジジ役などの代表作をもつ声優・佐久間レイさんの朗読、海外でも活躍するピアニスト・佐田詠夢さんのオリジナル曲により『モモ』がオーディオブック化されている。

audiobook.jp『モモ』作品ページ
多くの方に届けたいという想いで、audiobook.jpではオーディオブック版『モモ』を半額で配信している(※9月12日(土)まで)。今だからこそ、もう一度『モモ』に触れたいなという方にはぜひオーディオブック版もおすすめしたい。

audiobook.jp はじめてガイド


(text:遠山エイコ)

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