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「学校行きたくない」を考える。

今春、娘たちは小3、中2、高2になった。

タイトルの言葉を発さずにいた子は一人もいない。
言葉の背景や想いは一人ひとり違うかもしれないが、時期を問わず、3人とも必ず「学校行きたくない」と言っている。

考えてみると、いや、考えるまでもなく、「学校に行きたくない」って思う日があって当然だろう。

「問題でもないことを問題視」すること、
そして「問題だと思われることを問題視する」ことが「問題」だ。

幼い子どもは、気持ちのまま動き、怪我をする。気持ちのまま発言し、傷つき、傷つける。「学校行きたくない」は、心の言葉だろう。別に良いではないか。心でどう思おうと、自由だ。

もしその言葉を問題視したら。問題でもないことを問題視し、原因や解決策を求めると、次のような展開になってしまう。あるあるではなかろうか。


子「学校に行きたくない」➡「なんで?」➡子「何となく」➡「何となくって何よ」➡子「○○がいや」➡「なんで?」➡子「いやなもんはいややもん」➡「学校は行くのが当たり前やろ」➡子「でも嫌やもん」➡「そんなんみんな同じよ、みんな我慢してんのよ」➡子(みんながまんしてることを自分はがまんできない、ダメな子なんだ・・・)と自己否定に陥る。


例えばこんな風でいい。中2わが子との実際の会話。昨夜のことだ。

子「新しいクラス最悪。学校行きたくない」➡「そっか、そうなんだね。どんなことがいやなん?」➡子「そんなん言ったって分らんし」➡「そうか。クラス嫌なんやね」➡子「学校休みたい」➡「いいんじゃない。フリースクール行く?」➡子「いや」➡「ま、塾がんばってるし、学校は行かなくてもいいかもね」➡子「行かなくていいかな」➡「うん」➡子「部活だけ行くとかできるかな」➡「部活は行きたいんやね。そっか。部活が始まるくらいの時間に行けばいいんじゃない」➡子「う~~~ん」(ちょっと考えてる)➡「たまにさ、学校休んでさ、遊ぼうよ!ママも息抜きしたいし♪ あなたも一人でプラプラするわけにいかないでしょ。」(提案)➡子「幸せのパンケーキ食べに行きたい!!」(一気に表情が活き活きする)➡「いいね~!月1くらい、どう?」➡子(表情がすっかりほぐれている)「3ヶ月に1回くらいにしようかな」➡「え~~~。そんな頻度とか、別に決めなくてもよいかもね~」➡子「やっぱり毎日学校行く!がんばる!」

まずは子どもの発信をそのまま受け止め、要望を聞きながら、できるだけ考えていることを実践できるように現実に即した提案をしていくと、ほんの数分の会話の中で、子どもは問題をクリアした。

なぜ「学校に行きたくない」と言うのか。その理由を周りの人間が把握しようとするのは、正解とは言えない。本質的なことは本人にしか分かりえないし、本人さえその明確な回答を持っていない可能性がある。

ちょっとしたかすり傷に注目し、いつどこでどうやってできた傷なのかを究明し、適切な薬を塗り、適切な処置を施さないと治らない、という思い込み。。。かすり傷ならば、他のことに意識を向けているうちに、気がつけば治っていることもある。

「学校に行きたくない」は、心の気持ち。頑張って、心配かけたくなくて、取り繕って、表面的に、糸が切れるまで気持ちを言わずに学校に行き続けることは、子どもにとって安心できる状況とは言えないだろう。


親としての戸惑い、不安、自分の子どものころとの比較、兄弟との比較、他の子どもとの比較、他の保護者からの目、世間の目、夫婦間の関係・・・子どもの親として子どもと関わるとき、親はあらゆるしがらみに囚われる。
そういう時こそ、親も悩みを話せる場を持ち、たくさんの人と関わりながら成長していくきっかけにして欲しいなぁ、と思う。

これまでの経験で、なんとか自分の役割に気づくことができました。与えられた役割を全力で全うするため、「わくわく」と「ドキドキ」のど真ん中を走ります。 サポートでの勇気づけ、素直に嬉しいです\(^o^)/