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独裁願望

昨日、薬を飲んで安静にしていたせいか、今日はほぼ平熱。
咳も出ないし喉も痛くない。
歯茎の腫れはもうすこしというところ。
昔、風邪を引くと口内炎ができたりして、祖母や母は「風邪の熱がここに出てるんだ」と言っていたけれど、今回もそういうものなんだろうか。

リモートワークをしているが、先日、派遣先の上司や人事担当者と話した際に「待機時間も労働時間につけてください」と言われた。
私が「やることがないときは休むしかない」と言ったので、休まなくていいと念押しされたのである。

今日は朝、1時間ほど仕事をしたあと、やることがないので「待機」している。
これで報酬がもらえるのは、大変ありがたい。
大企業は、経理や財務とほかの部門の感覚が離れているので、無駄遣いに鷹揚だと思う。
私は小さな会社で収支の全容を見る仕事が多かったので、どの部門のどの人の経費の無駄遣いにも敏感である。
特に人件費。

先日のこの記事関連。

ここに「演劇部に入ったのは脚本書きたさ」と書いた。
ブログやnoteの記事もそうなのだが、書き進めるときに2通りある。

★言葉や文章が完成形で浮かんでいて、あとはそれをタイピングする作業のみの場合。
これは、頭や心が書いて指が打つ。

★タイピングしながら思考の枝葉が広がっていく場合。
対してこちらは、指が考えて頭がついてくる感じ。

ほとんどは、前者で、お風呂やトイレや台所で完成形が下りてくる(?)
この場合、PCを開けていないので忘れてしまうこともある。
さっき、無性に書きたいと思ったんだけど何だっけ?みたいな。
後者は、もうキーボードに指があるから、思いつくままというか、打つにまかせる。
いずれにしても、書くことがないとか、書きたいことがないとかいうのは、まったくない。
頭の中や心に何もないなんてことは、ありえないよね。
なので下書きなしの一発書き。

脚本のときは、100%前者だ。
どのキャラがどういうセリフを言って、そのときはこういう演技でこういう背景でこういう音楽でというのがすでに固まってしまっている。
だから私にとっては、脚本だけというのは、趣味として書くときは妄想を楽しめるが、実践になると疲れるし苦しい。
監督や演出家や演じる人たちと、折り合いをつけなければならないからだ。

「いやいや、そこはそういう感じで言ってるんじゃないんだ」と思ってしまい、それを言うべきか控えるべきか悩む。
「私に訊いて、訊いて!」と心の中で思い、ついつい監督や演出の人の目を見てしまう。訴えてしまう。
それで、「どう思う?」と訊かれると、揚々と「すでに完成している」イメージを伝えんとしてしまうのだ。

他人が書いた文章を初めて目にした人と、先に確固としたイメージがあってそれを言葉に起こした人とでは、どうしても思い入れに差が出る。
それを同意や共感にしていく過程は、楽しくもあるが実は面倒なのである。

面倒なのは、私だけでない。
他人の頭に浮かんでいるイメージを汲み取り、自分のそれとすり合わせていく人たちもだ。
すると「書いた人がそう言うならそうしよう」となりがち。
議論を重ねて紛糾するよりは、そのほうが穏便だし手っ取り早いから。

強硬に言い張るということはなかったと思うけれども、やっぱり「書いた人だから」ということで、周囲が私に遠慮をしていた気がする。
万一私が機嫌を損ねて「じゃあ、これはもうやめて、別の話にしましょう」などと言い出したら、一から脚本探しをしなければならない。
刷るのだって時間がかかるし、なんとかいまあるやつで進んでいかねばならないのだ。

気づくと私は、脚本だけでなく舞台監督と演出も兼ねていた。
音楽や照明の角度にまで意見を言った。
しまいには、主演までやってしまった。

いまにしてみれば、あれは「独裁」だったよなぁと思う。
表立って反旗を翻した部員はいなかったが、黙って出てこなくなる人もいたかもしれない。
私は「出てきて」と言いに行かないので、そのままほおっておき、関わりの発生しないまま、ついにはそんな人がいたことも忘れてしまう。
なんともひどい話だ。

人には多かれ少なかれ「独裁願望」があると思う。
他人を意のままに動かしたいというのではなく、自分のイメージ通りの作品を作りたいという思いもまた、ほかの人たちの意見を排除する結果を招きがち。
本来は、議論や検討を重ねて、それぞれの思いが反映されたひとつのものとしてまとめていこうとするのが大切だし、その過程が楽しいはずである。
そこに楽しみを見いだせない人は、そもそも参加するべきでない。

つまりはそこがズブの素人だったのよな。
人間的にもまだまだ幼かったのよな。

「笑の大学」の再演で、三谷幸喜氏は、あえてほかの演出家を起用した。
「季節のない街」でもっとも印象的なエピソード「がんもどき」の回は、クドカンは思いが深すぎて「自分では演出がつけられない」と、やはり別の演出家に委ねた。

自分のイメージと他者のそれを融合し、再構築していく。
そこに労力を惜しまないのがプロなのよなぁ。

学生時代は趣味で済んだけれど、社会人となったら、こういうすり合わせは日常的に必要になる。
仕事だけではなく、家庭でも地域でも、人と関わる以上は何かにつけ「どこで折り合いをつけるか」が求められる。

議論や検討を面倒くさがって、「書いた人」ならぬ「声の大きい人」あるいは「力を持っている人」の言いなりになっていると、最終的には「独裁」になる。
面倒を理由に選挙に参加しない人、政治について考えない人は、独裁に加担している。


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